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花咲くマラエ  作者: 秋主雅歌
6/14

雷鳴の後で

 マラエを襲う、雷と激しい雨。

「ペール!」

 ノアノアが祭壇から駆け下り、ペールの元に駆け寄った。ペールは雷に引き裂かれた木の傍らで、呆然と座り込んでいた。見開かれた目は焦点が合わず、唇が震えている。

「ペール、大丈夫か?どこか怪我をした?」

 ノアノアはペールの肩を掴んで揺さぶる。が、ペールは何の反応も示さない。ただ雨に打たれ、座り込んでいるだけだ。

 その時、再び闇がゴロゴロと鳴った。

「ペール、立って!逃げよう!」

 その言葉が終わらないうちに、つんざくような雷鳴が轟き、周囲が真っ白になった。咄嗟にノアノアはペールを守るように地面に突っ伏した。

「…助けて…」

 腕の中で、ペールが声を絞り出した。

 再び、雷光が走り、世界を一瞬、漂白する。

「うああああ!」

 ペールは子供のような叫び声を上げた。「助けて!助けて!」

「ペール、大丈夫だから!」

 ノアノアはペールを抱き締めた腕に力を込めた。けれど、ペールはノアノアの背を叩きながら叫ぶ。

「助けて!神様!神様!神様!」

「大丈夫だから、俺がいるから。ペール」

 正気を失い、暴れるペールを必死でノアノアは押さえつけた。

 ペールは昔から、雷を恐れていた。尋常ではないほどに。普段は悠然と構え、神の道を説くペールなのに、雷が鳴る時だけは、聞き分けのない子供に戻る。それがノアノアには幼いころから不思議だった。だからそんな時には、ノアノアが彼を守ってきた。いつも一緒に建物の奥に隠れた。

 でも、今はどこにも隠れる場所がない。シダの茂みも守ってはくれない。

「…神様…」

 そう呟くと、ノアノアの体の下でペールの体の力が萎むように急速に抜けた。

 ノアノアはハッとして起き上がった。力を入れて押さえ込み過ぎたかもしれない。

「ペール?大丈夫か?ペール!」

 ノアノアは数度、ペールの頬を叩いた。だが、彼は答えない。息はしている。目も開いている。だがペールの目は、虚空を睨んで動かない。

「何を見てるんだ?ペール?」

 ペールが見詰めていたのは、故国に捨ててきたはずの過去だった。

 

 雷とともに押し入る男たちの影。吹きすさぶ冬の嵐。指が千切れそうに冷たい風。

 泣き叫ぶ人々。稲光に鈍く光る銃身。

 耳をつんざくのは、雷鳴なのか銃声なのか。それとも、誰かの断末魔の叫びなのか。

 顔に降り注ぐのは、冷たい冬の雨ではない。自分をかばって頭をかち割られた母の、温かな血。

 それは、ペールを苛み続ける遠い記憶だった。忘れようとしても、雷鳴のたびにその記憶は顔を出す。


「神様…」

 ペールがわなわなと震えながら呟く。「神様、神様、神様ああああ!」

 彼の叫びを、スコールがかき消す。もはや、マラエには誰もいない。皆、逃げてしまった。

「ペール!」

 ノアノアはペールの体を抱き締めた。「俺だよ、ノアノアだよ」

「助けて…!助けて…!」 

「ペール、大丈夫だから。大丈夫。俺がいるから。怖くないから。俺が守るから!」

 二人の頭に、滝のように雨が降り続く。

 ノアノアはペールがこれ以上濡れぬよう、自分の体でペールを覆い隠した。細いペールの体は、すっぽりとノアノアの庇護の中に入る。雷鳴がペールの耳に、目に飛び込まぬよう、彼の耳を両手で塞ぎ、顔を自分の胸に押し当てて、まるで親鳥が雛を雨から隠すように抱き締め続けた。


 どれほどの時間が経ったのか。頭上で暴れていた雷鳴は次第に遠ざかり、やがて海の彼方に消えた。同時に、あれほど激しかった雨も、ぽつりぽつりと息を切らし始めた。そして、雲の切れ間から零れそうな星が見え始めた。

 虫が再び、夜の歌を奏で始める。

「…ノアノア?」

 ペールはノアノアの体の下で小さく呟いた。いつも通りの低い、優しい声だ。

 ノアノアが覗き込むと、ペールの瞳は、穏やかで理知的な色を取り戻している。

「そうだよ、俺だよ」

「…ここは…」

 ペールは夢から覚めたように頭を振った。

「マラエだ。覚えてる?」

「…ええ…いえ…」

 曖昧に答えるペールの体を、ノアノアは抱き起こし、頭巾を払い、乱れた髪を直した。その時になってやっと、ペールはノアノアが全身から雨の滴を滴らせていることに気付いた。

「びしょ濡れじゃないですか」

「いいよ、こんなの、すぐ乾く」

「…すみません。私のせい、ですね…」

「いいよ、そんなの。それより、ペール、あんたはもしかしたら、死霊を見たのか?」

 ノアノアの真っ黒な目が闇の中でペールの目を覗き込む。

「死霊?」

「ああ。悪い死霊はあちこちにいて、たまに人間の世界に顔を出す。死霊を見た人間は、大抵そんな目をするらしい」

「そんなものは…」

 ペールは笑おうとするが、途中でそれを諦めた。「…そうですね。あれは、死霊だったのかもしれない。あんなものが人間であるはずがない」

「あんなもの?」

「…ええ。昔、私が子供だったころ、戦争がありました。一夜で私が住んでいた町は焼かれ、母も、父も、兄たちも、隣人も皆、殺されました」

「死霊に?」

「そう…ですね。そうとしか思えない。ひどい雷の、嵐の夜でした。稲光で真っ白になって、銃声が…」

 そこまで言うと、ペールは再び震えた。ノアノアはペールを抱き締め、額を彼の額に寄せ、目を見詰めて言った。

「大丈夫だよ。死霊なら、俺が追い払う。俺にはオロ(戦いの神)がついている。俺がいれば、死霊もあんたを連れ去ったりなんか出来ない」

 ペールは大きく目を見開くと、ゆったりと笑った。

「…ありがとう。そうだと、いいですね」

 ノアノアが激しく頷く。

「信じてくれ。俺があんたを命を賭けて守る。どんな死霊も近寄らせない。だって、俺はあんたのものだから。あんたが俺に命をくれたんだから」

 ノアノアの言葉に、ペールは困ったように笑い、ノアノアの頭を子供にするようにポンと叩いた。

「ありがとう。君がそう思ってくれるだけで十分です。君を育てのは神の思し召しであって、私はそんな見返りを望んではいません」

「見返りでも、恩でもない」

 憮然としてノアノアは言った。「俺は、あんたのことが好きだから。ペール」

 強い光を宿す黒い目が、闇の中で輝く。

「ノアノア、私は…」

「知ってただろ?」

 ノアノアの顔が近付く。ペールはその視線の強さに耐えかねて、顔を背けた。

「…私は君を弟のように…」

「俺の目を見て言えよ」

 ノアノアはペールの顔を再び、自分の方に向かせた。邪心の無い真っ直ぐな、熱い目。ペールは、その目の光に体の奥の奥まで貫かれるような気がした。

 ペールは唇を噛んだ。なぜ、祭壇でノアノアが一人で踊っていたことに、相手となる若い娘が現れなかったことに、あれほど安堵したのか。その答えは、分かっている。けれど、認めたくなかった。直視する勇気がなかった。

 ペールは諦めたように長い睫を閉じた。

「…知っているでしょう?」

 震える声で、ペールは目を閉じたまま言った。「分かっているでしょう?私の気持ちなんか、君はもう何もかも」

 そして、ペールは待った。神の裁きのように、自分に降りてくるだろう唇を。もはや誤魔化しようもない。神を讃える言葉をいくら唱えても、懺悔を毎晩繰り返しても、もう隠しようもない。

 まるで大木の蕾が花開くように、健やかに美しく咲き誇る青年ノアノア。その姿に、もうずっと前から恋していた。海のように大きな心も、野性の香り高き屈強な体も、自分には持ち得ないもの。決して手に入らぬがゆえに欲する美しさ。

 ノアノアはゆっくりとペールの唇に口づけた。ペールもノアノアの背に腕を回し、その唇を受け入れる。

 熱く、長い口付け。

 ティアレの花の匂い、雨上がりの匂い、そしてむせ返るようなノアノアの香り。熱帯雨林に咲く、すべての花の蜜を集めたような甘い香り。その香りに抱き締められながら、ペールの体は熱く火照り、息づいている。

 ノアノアはペールを軽々と横抱きにすると、誰もいなくなった祭壇の上に横たえた。まるで神への捧げ物のように。冷たい石の感触に、ペールの体がびくつくが、ノアノアは構わず、もどかしげに衣服を剥ぎ取る。

 ペールの白い体が、祭壇の上で夜光虫のように光る。羞恥のために強張ったペールの体を、ノアノアの手がゆっくりと、骨の一本一本、筋肉の一つ一つの存在を確認するかのように撫でていく。その指の体温に、ペールの体が少しずつほぐれ、溶けていく。

 ノアノアは、ペールの体の上に自分の体を重ねた。ぴったりと重なり合うのを確かめるように。腕の長さも、胸の広さも、何一つ二人同じものはないはずなのに、二つの体は寸分の隙間もないほど重なり合う。互いの体内から、熱が湧き起こる。

 両手の指を絡め、最後に額を寄せ合い、再び唇を寄せ合う。

「神々も、こうしてまぐわった」

 ノアノアが囁いた。だが、ペールは寂しげに笑った。

「いいえ。私の神は、許さない。罪深い私は死後地獄に堕ち、二度と復活の日を迎えない」

 ノアノアは不思議そうに小首をかしげ、ペールの鎖骨に顔を埋めた。

「ペール、あんたは時々変なことを言う。死んだら、誰も蘇ったりしないよ。王様だってそうだ。ヒナ(月の神)が所有するものは復活するけれど、テファトー(大地の神)のものは、すべて死に、蘇らない。だから俺もペールもいつか死ぬ。消える。それだけだ。それだけなんだ。だから過去にも未来にも、この地上に自分は一人しかいない。俺も、ペールも。だから、今、俺はあんたを愛する。それがどうして罪になる?」

 ノアノアのまだ少年らしさの残る甘い声で、耳元でそう告げられると、ペールは頷くことしかできなかった。

 今宵だけは、その言葉を信じてしまいそうになる。これは、南の島に住む神々の声だ。その声に従おう。愛しい人を愛する。それだけだ。それが、なぜ罪になる?

 ペールは目を閉じ、再びノアノアの口付けを受け入れた。さらに長い口付けの後、ノアノアの腕はペールの体を折れそうなほど抱き締めた。

 ペールは頭の中が酩酊したように熟れていくのを、もう止められなかった。覆いかぶさるノアノアの甘い匂いが、鼻先を、頬をくすぐる。神々の祝福が刻まれた熱い腕に抱かれ、体の奥が熾火のように熱くなる。

 ペールは自分の体の奥で海の声を、島の囁きを、星の輝きを感じた。ノアノアと触れ合った部分から、世界の脈動が流れ込む。熱い吐息とともに、ペールは小さな悲鳴を上げた。だがそれは、夜鳴く鳥の声にかき消される。

 体中が喜びで満たされた、幸せな夜。永遠のような夜。


 だが、目覚めた朝から、地獄が始まる。

 日の光の中で我に返ったペールは、犯した罪に体が震えた。

 教会に戻ったペールは数日、体調がすぐれないと告げて聖堂に籠もり、懺悔を続けた。寝食を忘れて、神の許しを請い続けた。

 ノアノアはもちろん、島の誰とも会わなかった。会えば気付かれてしまうのではないかと不安だった。ノアノアと愛を交わしたことで、自分は何か変わったのではないか。それが滲んで気付かれてしまうのではないか、と。

 怖かった。なのに、恋しさは募る。どんなに愚かなことだと分かっていても、気付かれたら破滅だと知ってはいても、ペールはノアノアに会いたかった。

 けれど、会ったらまた同じ過ちを繰り返す。それも分かりきっていた。

 ペールは決心した。

 何も無かったふりをするしかない。ノアノアは若く、健やかで美しい。自分が毅然として拒絶するなら、そのうちに彼に似合いの美しい女性が現れるだろう。それこそが彼の幸せというものだ。

 そうするしかない。なのに、そう考えただけで、ペールの目から涙が溢れてきた。

 引き裂かれるような想いにペールが揺れているうちに、一カ月が流れた。

 ノアノアもまた、想いを交わしたはずなのに、以前以上に冷たくなったペールの真意が分からず、じりじりとした日々を送っていた。


 そんな時に現れたのが、ビンセントだった。





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