禁断の地
マラエ、聖なる地。
この島のマラエは、鬱蒼とした森の奥にあった。中世の古城のような形をした険しい山の向こう、むせ返るような緑の木々のトンネルを抜け、丈高いシダの群れの中を分け入ったその先に、突然現れる開けた空間。土地の人間の案内がなければ、決して辿り着けないようなその場所に、石が組まれた古代からの祭壇がある。
マラエの背後は、真っ青な海が広がる断崖絶壁だ。だが、そこには狭いながらも階段状の足場が組まれており、海からカヌーでも出入りできるようになっている。この国の者たちだけが知る、秘密の通路だ。
何十年かに一度、大切な儀式…たとえば王の即位のような…が、マラエで行われることがある。その時は周辺の島々からも選ばれた者たちが密かにカヌーで集まり、祭壇の前で祈りを捧げるのだ。
ペールが初めてマラエに足を踏み入れたのは、今から一カ月ほど前の新月の夜だった。
新月のたびごとに、島の一部の人々がこっそりとマラエに集まっているらしい。そんな噂は以前からあった。祭壇で繰り広げられるのは、神々と祖先に捧げる歌と踊り。激しいリズムとともに、ほとんど裸体で彼らは踊るという。
だが、彼らにとっては聖なる踊りであっても、それはあまりに野性的かつ官能的で、フランスからの役人や宣教師たちにしてみれば、劣情を呼び起こす野蛮な習俗にしか見えなかった。だから今はマラエに集い、踊ることは禁じられていた。
それでも、人々はヨーロッパ人に気付かれないよう、月の無い夜を選び、彼らが知らない場所に集っていた。
ペールは、もともとマラエになど興味はなかった。ことさら目くじらを立てなくても、神の教えさえちゃんと伝えられれば、人々は分かってくれるはず。そう鷹揚に構えていた。だが、そのマラエで踊っている一人が、ノアノアだ、という噂を聞いては、じっとしてはいられなかった。
「ノアノアが踊っている?」
ペールの問いに、注進してきた島の男は頷いた。そうなんですよ、神父様。ノアノアは神様に背きました、大切に育ててくれた神父様への恩も忘れて、と。「ヒナ(月の女神)の子孫たち」を名乗る愚かな若者たちのグループがありましてね、その中の一人がノアノアなんですよ、と。
島にいるのは、伝統を尊ぶ人間だけではない。土着の踊りや歌を蔑み、欧米からの文化を崇拝する人々も多かった。そんな「熱心な」信徒たちが、眉を潜めてペールにノアノアの所業を伝えに来たのだ。
ノアノアは十歳の時に両親を海の事故で亡くした。この島に着任したばかりのペールが親代わりとなって彼を育て、文字を、フランス語を、信仰を教えてきた。だが、島随一の踊り手として知られた父の血は、ノアノアの中に色濃く流れ、彼が踊るのを誰も止められなかった。ペールでさえも。
ペールがノアノアを問い詰めると、彼は悪びれることなく言った。
「明日、マラエでヘイヴァがある。ペールも一緒に行こう」
「何を言うんですか!土着の下劣な踊りと儀式など、禁じられています。知っているでしょう?第一、神もお許しになりはしない」
「神が許さない?でもペール、あんたは俺たちのヘイヴァを見たことがあるのか?」
「それは…」
「ペールはいつも言ってたじゃないか。自分の目を信じろって。だからまず、あんたの目で一度見てから、俺たちの踊りが下劣かどうか判断してくれ」
ペールはうっと言葉に詰まった。理屈としては、ノアノアの言う通りだった。ペールはまったく反論できず、しぶしぶ頷くしかなかった。
翌日の夜、ペールはノアノアに連れられてマラエにやって来た。
宣教師が来ていることに気付かれないよう、ペールは黒い頭巾をすっぽりとかぶり、大きな木の陰にあるシダの茂みに身を隠した。いかに彼が島の人々に愛されているとはいえ、彼らの聖域であるマラエにまで足を踏み入れることは、善しとはされないだろう。幸い、月の無い漆黒の闇だ。目立たなければ大丈夫だ。隣にいる人間の顔だって分からない。
「ここにいろ。動くなよ」
ノアノアは小声で囁くと、祭壇に向かった。
残されたペールは不安を抱きつつ、大人しく膝を抱えて座り込んだ。
(低俗で猥雑な祭りだと聞いている。風紀を乱れさせる、劣情の踊りだと。そんなものをノアノアが踊るのだろうか)
ペールは唇を噛み、胸の十字架を握った。
(そんなものを見て、…私は耐えられるだろうか)
と、その時、祭壇に篝火が点された。
炎が石の舞台と、その脇にある大きなティアレの木を照らす。白い花が妖しく明かりのように闇に浮かび上がる。肉厚の花びらが、誘うような香りを沈ませながら花開いている。
太鼓が一つ、遠雷のように微かに音を立て始めた。やがてその音は複数になり、闇のあちこちから響き始める。その音は次第に激しくなり、早くなり、スコールのように周囲を包んだ。
さらにトッエレ(木製の打楽器)やヴィヴォ(葦笛)も加わる。
一体、どこで演奏しているのか。ペールは目を凝らすが、闇が深くて分からない。闇のどこかに大勢の楽師たちがいるのだ。闇が生み出したかのような音の洪水が、腹の底に、地面に響く。音はマラエ全体を包み込んだかと思うと、次第に一定のリズムに収斂し始めた。そして、男女の高い裏声が混じり、歓喜の声を上げる。
怒涛のような音は絶頂で突然、途絶えた。
しばらくの沈黙。篝火のはぜる音だけが聞こえる。
次の瞬間、炎に照らされた石の舞台に、一人の影が現れた。凄まじい歓声が雷鳴のように闇全体から響き渡る。
現れたのは、ノアノアだった。
石の上で、半裸で仁王立ちをしている。香油を塗られた肌は炎に照らされ、海底の生き物のように光る。裸の体を覆うのはシダの腰巻と膝飾り。首元には虹色に輝く貝が連なる首飾り。鮮やかな白目と闇のような黒目がともにギラリと光る。野獣のようだ。いや、神話から抜け出したような、海の王の姿だ。
どよめきの中、トッエレが激しく打ち鳴らされた。
それを合図に、ノアノアが踊り始めた。腰を深く沈めて激しく膝同士を打ちつけたかと思うと、肉食獣のように跳び上がる。飛び散る汗。刺青に覆われた腕が宙に伸びる。手首がクイッと曲がるだけで、星までもが彼に従う。
ペールは呆然として見詰めた。
やがて、次々と若い男たちが登壇した。皆、ノアノアと同じ半裸だ。彼らはノアノアを囲むと、大地の脈動のようなリズムで足を踏み鳴らし、膝を打ち、髪を振り乱し、汗を飛ばす。
裸同然の若い女たちも加わり、腰を激しく振り始める。次第に、空気に官能の色合いが深まっていく。
狂乱の踊りの輪の中央にいるのが、ノアノア。炎を従え、闇を従え、踊る王。誰もが、彼の放つ引力に喜んでひれ伏した。まるで月が潮を引き寄せるかのように。
ペールの組んだ手が、ガタガタと震えた。
(今すぐにでもノアノアを止めなければ)
そう、ペールは思った。
(これは、欲情を催させる悪魔の儀式だ。不謹慎で、下劣な原住民の舞だ)
(ノアノアをたしなめなければ。忠告しなければ。こんなことをしてはいけない。こんなことは神の道に背く…)
だが、自分の体が動かない。目も耳も思考も、ノアノアに吸い寄せられたまま動けない。
悪魔の所業だとののしりながらも、惹かれる気持ちを止められない。光る瞳が、こちらを見るたびに心臓がざわめき、止まりそうになる。神々の祝福がその肌に刻まれた太い腕が閃くたびに、まるで暴風雨のように心がさらわれていく。
ふと、打楽器の音が止んだかと思うと、若者たちは座り、年老いた小柄な女が抱えられて舞台に上がった。
彼女の唇から歌が漏れる。そして指先と腕の動きだけで、遠い恋の物語を踊り始めた。
ペールは、現地の言葉はあまり分からない。けれど、その腕の動きから、それは遠く去った恋人への思いを伝える歌なのだと感じた。
幾多の試練が襲い掛かり、ついには死が二人を分かつ。けれども、私は貴方を追い求める。貴方はいるはずだ。海の彼方に。だから私は夜明けに舟を出す…。おそらく、そんな内容なのだろう、とペールは感じた。
ペールは、少しだけ理解した。このマラエのヘイヴァは、彼らの歴史を語り継ぐものでもあるのだ、と。
(欧米の文明に、すべてを否定された彼らが唯一残そうとしているもの。それを無碍にしてはいけないのかもしれない…)
だが、老女の踊りが終わると、再びマラエには生命を謳歌するような若者たちによる官能の風が吹き始めた。ヨーロッパ人に蔑まれ、搾取される日々の鬱屈。その反動のように彼らは踊っていた。官能の風はいつしか暴風になっていく。
太鼓の音が激しくなり、男女が組になって踊り始めた。次第に欲情の対流が起き、誘惑と駆け引きが踊りの中から浮かび上がっていく。そこから先は、一組、また一組と闇の中に消えていった。
何が起きているのかは、一目瞭然だった。
今度こそ、ペールはノアノアを止めなければと思った。
(下劣だ!こんな悪魔の所業は許してはならない…!)
だが、ノアノアは、彼だけは一人、踊り続けていた。舞台の中央で炎を背にして、地上の巡りのすべてをつかさどるかのように。
その様に、少しペールは安堵した。
(彼は誰も相手を選ばなかったのだ…)
だがこのまま放置はできない、とペールは決意した。
彼がシダの茂みから立ち上がったその時だった。ふいに、鼻先で雨の匂いがした。
直後に、雷鳴が突然轟いた。と同時に、叩きつけるような雨。あっという間に篝火が消え、ヘイヴァのすべての音が止んだ。
再び、雷鳴。間髪を置かずに周囲が真っ白に光る。
(近い!)
ペールが側にいた木から飛び退いたその瞬間、地面が割れたかのような轟音が響いた。焦げた匂い。雷が落ちたのだ。ペールが直前まで身を隠していた大木は、今や真っ二つに裂け、焦げていた。
雷はさらに鳴り続ける。大粒の雨も激しくなるばかりだ。
轟音。また、近くに雷が落ちた。
女たちの叫び声が響く。マラエは騒然となった。スコールに慣れている島の人間にとっても、間近に連続して落ちる夜の雷を前にしては、平静ではいられない。
まして、彼らは「西洋の神に逆らう」という、後ろめたい思いを抱えているのだ。「神の怒り」のような雷を目にして、皆恐怖に怯え、我先に町へと向かう道を走り去っていった。