石は歌う
空を切り裂くように雷光が走る。
あっという間に周囲は真っ暗になり、突然のスコールがやって来る。轟音と稲妻が島を揺るがす。滝のような雨に、人々は大慌てで家へと駆け込む。
近くも見えないほどの土砂降りの中、ただ一人道を駆ける青年がいた。ノアノアだった。雷鳴の轟きと同時に、彼は一人で暮らす小さな小屋を飛び出て、教会へと走り出したのだ。丘の上にある教会までは、ほんの数分の距離だったが、あっという間にずぶ濡れになっていた。
だが、気まぐれな南国のスコールは、憎らしいことにノアノアが教会に着くころには、何事もなかったかのようにカラリと上がり、黒い雲は去り、夕陽が顔を出す。
「来るまでもなかったかな…」
ノアノアは髪の滴を振り払うと、一人苦笑し、立ち去ろうとした。
が、ふと足を止めた。
教会から、決してうまいとは言えないオルガンの音が聴こえる。それに合わせて微かな歌声がする。呟きのような、葉擦れのような小さな声。ペールだ。
ノアノアは教会の扉にそっと耳を当てた。ペールはまた、神をたたえる歌を口にしているのだろう。幼いころからずっと聴いてきた、子守歌のようなペールの歌声。
だが、ノアノアは少し眉をひそめた。
ペールが歌っているのは、いつもの賛美歌ではなかった。初めて聴く歌だ。
現われたるは 七つ門
立ちはだかりし 門番は
女神の宝 奪いたり
最初の門で失うは 王の冠なりにけり
第二の門で奪われし 太陽と月の耳飾り
第三門でなくしたり 海の真珠の首飾り
第四門で消えたるは 輝く星の胸飾り
第五の門で盗られたり 地上を統べる金の帯
第六門で消え失せる 麦穂の腕輪 足飾り
最後の門で 夜の衣をはぎとられ
かくて女神は冥界へ
地に光消え 花は枯れ
民ら嘆きて 女神呼ぶ
女神も叫び 抗わん
わらわを戻せ 日の元へ
わらわに返せ わが宝
死霊 笑って申すには
門をくぐりし者は皆
戻るは決して能わずと
冥府の掟 破るなら
よこし給え 身代わりを
かくて女神は 死霊とともに
贄を求めて 地に戻る
嘆きの民のその中で
笑い歌う男あり
怒りし女神 炎吹き
死霊に男を指し示す
我が身代わりは この男
死霊とらえしその男
女神の愛しき夫なり
夫は闇へ 引き込まれ
冥府の色に 染められる
かくて女神は取り戻す
失いしもの そのすべて
それは恐ろしい物語なのに、胸を締め付けるようにもの悲しい旋律の歌だった。
まるで禁じられた宝物をそっと覗くように、微かな声でペールは歌う。朗々と賛美歌を歌う時とは違う、甘く、掠れた声。ペールの本当の声。
ノアノアは目を閉じた。痛みのような、甘いうずきが胸に蘇る。
その時、オルガンの音がふと、止んだ。
「ノアノア?」
ペールの呼びかけに、大人しくノアノアは扉を開けた。
「ずぶ濡れじゃないですか!」
全身から水を滴らせているノアノアに、ペールは驚いて駆け寄る。「スコールの中をわざわざ走ってきたのですか?…ああ、無茶なことを!」
「いや、イエテ様のお屋敷から帰る途中で降られたんだ。仕方がないから、教会の軒先で雨宿りしようと思って」
ノアノアは嘘をついた。雷鳴が心配でペールのために飛び出して来たとは、決して言わない。
ペールは奥の部屋からタオルを持ってきた。
「すぐやんで良かったですね」
「雷、怖くなかったか?」
ペールはタオルをノアノアの頭にかぶせると、クスッと笑った。
「心配には及びません。雷は遠かったですよ。あの、古城のような山の向こうで光ってました。怖がってなんか、いませんよ」
「そうか」
ノアノアは大人しくタオルで頭を拭いた。タオルには、ミルクのような甘い匂いが残っている。ペールの匂いだ。ノアノアはその香りを全部吸い取ろうとするかのように、大きく息を吸った。
「…あのさ、ペール。さっき、どうして俺だって分かった?」
「香りがしました。雨上がりの土の匂いに混じって、咲き誇る花のような香りが」
ペールはノアノアから使い終わったタオルを受け取ると、ゆったりと笑った。自分も甘い香りを漂わせていることを、ペール自身まったく気づかずに。
夕陽に染められていく聖堂の中で、ペールが微笑んだ。ノアノアは見とれる。ペールの笑みは、世界中で描かれたどんな聖母像よりも美しい。そう、心の底から思いながら。
熱っぽいノアノアの視線に気付かぬふりをして、ペールは言葉を継いだ。
「服も濡れちゃいましたね。私の服で良かったら何か…」
「よしてくれ。ペールの小さなズボンなんか、脚すら入らないよ。パレオを一枚貸してくれれば、それでいいから」
「言いますね。ついこの間まで、私がおぶってあやしていたのに」
ペールがわざとらしくため息をつくと、ノアノアは顔をしかめた。
「それは、大昔の話だろ?」
「私のような年寄りにしてみれば、つい最近ですよ」
「俺と十歳しか違わないくせに」
「十も違えば、十分です」
「俺はもう子供じゃない。金も稼いでる」
「ええ、そうですね」
「一人でだって、ちゃんと暮らしてる。教会を追い出されても」
「追い出したんじゃありません」
ペールは憮然として言った。「あなたはもう大人だから、独り立ちしなければ。だから…」
「そう、俺は大人なんだ。ペールも分かってるだろ?」
「ノアノア…」
意味ありげに、二人の視線が絡む。が、先にペールが諦めたように目をそらし、肩を竦めた。「それなら大人のノアノアに言いましょうか。フランス本土からさっき、ワインが届いたんです。スコールで体が冷えたでしょう。一口飲んで温まっていきなさい」
「いいのか?」
ノアノアが目を輝かせた。ペールは悪戯っぽく笑った。
「でも絶対に、他の人には内緒ですよ」
「不良神父」
「いいんですよ、ワインは神の血なのですから」
微笑みながら言うペールに、ノアノアは逆らうわけがない。二人は聖堂の奥にあるペールの私室へ入った。そこはベッドと荷物入れ、机、十字架が備え付けられているだけの、質素で小さな空間だった。ペールは荷物入れから、南国の海を写し取ったような鮮やかな青いパレオを取り出し、ノアノアに渡した。
ペールが荷物入れのさらに奥からワインの瓶を取り出す間、ノアノアは部屋の隅で着替え始めた。濡れて体に張り付いたズボンを脱ぎ捨てる。
「食べ物は、パンしかないけれど…」
振り返ったペールは、そのまま息をのんだ。
目に飛び込んできたのは、着替えているノアノアの背中。彫刻のように引き締まった赤銅色の筋肉は、無数の幾何学模様の刺青で装飾されている。太く長い腕にも、幾重にも巻かれた腕輪のような刺青。それはペールの知らない言葉で、海と山と空と世界中の神からの祝福が彫られている。最初、ノアノアが刺青をしてきた時には、嘆き、叱ったものだ。だが、この海からやってきた神のような荘厳な体には、正直圧倒され、言葉を失う…。
「何か言ったか?」
ノアノアが振り向くのと同時に、ペールは慌てて視線を逸らせた。
「…いいえ」
ペールはノアノアから背を向けると、震える手でワインを開け、赤い液体を二つの木の器に注いだ。
ノアノアはワインを受け取ると、まず一口飲み、そのまま一気にすべてを飲み干した。
「ノアノア!ジュースじゃないんですよ!」
慌ててペールが止めるが、この土地の濁った濃い酒に慣れているノアノアはまるで動じず、手の甲で口を拭う。
「いい酒だね。すごく香りがいい。もう一杯いい?」
「…いいですけど、そんな飲み方をするなら、もうあげませんよ。さっきも言いましたが、ワインは神の血です。神の恵みに感謝しながら、ゆっくりと味わうものなんです」
ペールはもう一杯、ノアノアの器に赤い液体を注ぐと、ため息をついて椅子に座り、自分の器に口をつけた。
「神の血か…。ペールの血も、こんな味がするのかな」
ノアノアはそう言って、ゆっくりと器の液体を舐めた。
闇のように黒い瞳がひた、と真正面に座るペールに向かう。
ペールは急に鼓動が早まるのを感じた。息が詰まるようで、わざと声を立てて笑った。
「まさか。私の血なんて、木の根以上に苦いでしょうよ」
ノアノアは答えなかった。その代わりにもう一口、ワインを啜った。ペールも沈黙に耐えかねたように、器のワインを空けた。
次第に夕焼けは消えてゆき、青黒い空に宵を告げる最初の星たちが窓からも見え始める。ペールが蝋燭に火をつけた。
「さっきの歌、何?」
ノアノアが思い出したように言った。「賛美歌じゃないだろ?初めて聴いた」
「歌?…ああ、さっきの…」
「ペールの声、綺麗だった。フランスの歌?」
「…私も分かりません。先日、思いついたというか、気付いたら頭の中に明瞭に、あの歌があったんです。自然に、唇から溢れてきて…」
「何だい、それ。でも不思議な歌だったな。冥界に下る女神って、ヒナ(月の女神)のこと?」
「さあ…。本当に分からないんです。でも恐ろしい歌ですよね。自分の夫を身代わりにして蘇るなんて」
「でも、何だか悲しい節の歌だった。ペール、もう一度歌ってくれよ。オルガンはいらないから」
「どうせ、私はオルガンが下手ですよ」
「そうだね。だから余計なものはいらない。あんたの声だけでいい」
「褒められてるのか、けなされているのか」
ペールは苦笑して、もう一口ワインを飲んだ。青白かった頬がほのかに赤くなっている。酔いも手伝ってか、再び微かな声で歌を紡ぎ始めた。
…死霊とらえしその男…
…女神の愛しき夫なり…
ペールは歌い終えた後、何だか腑に落ちない顔をした。
「…でも、思うんです。この歌は、これで終わりなんかじゃない。身代わりにされた夫はどうなったのだろう。そして女神はどうしたのだろう…。歌われていない結末が、きっとあるんじゃないかと…」
ペールの呟きを、ノアノアはじっとワインを口に運びながら聞いている。
「無くした歌?」
「ええ、そう。君は信じてはくれないでしょうが…。あの石が、そう言っている気がするんです。結末を探してほしいと…」
「石?」
ノアノアは怪訝な顔で問う。だが、ペールは大真面目に頷いた。
「この間、ビンセントさんが君に渡した石です。教会に忘れていったでしょう?」
「『王の涙』とか言う…」
あの、南海の波から生まれたような、深い緑の石だ。中央に赤黒いものがある…。
「笑うでしょう?でも、歌が頭の中に浮かぶようになったのは、あの石が手元に来てからなんです…。あの石が結末を求めている気がする。その証拠に、歌うと石がすごく熱くなって…」
ペールは机を開け、そこから布にくるんでいた石を取り出す。
「熱い?」
ノアノアは半信半疑で覗き込んだ。やはり、あの『王の涙』だ。それは蝋燭のほのかな明かりを受け、光を放つように緑色に輝いている。こわごわと手を伸ばして摘み上げる。
だが次の瞬間、ノアノアは笑った。
「ペール、熱くなんかないよ。ただ、綺麗なだけだ」
「でも、確かにさっきは脈打つみたいに熱くなって…」
ペールは信じられないという目でノアノアを見る。
「だって、ほら」
ノアノアは首を振りながらペールの手に緑の石を置いた。
ペールは大きく息を吸い込み、そして脱力するように吐き出した。
「…そんな…」
確かに、石にはノアノアのぬくもりは残ってはいたが、それは熱いわけではなかった。
ペールは何度も石とノアノアを見比べ、そして諦めたように笑った。
「…そう、ですよね。私ときたら、何を馬鹿なことを」
「あれだよ、きっとあの絵描きの言葉を信じちゃったんだよ」
「…そうですね。少し飲みすぎたのかもしれません。ノアノア、あなたももうこれ以上はおやめなさい。まだ子供なのだから」
「ペール!」
ノアノアがたまりかねて叫んだ。「俺はもう子供なんかじゃない!」
だが、ペールは何も気づかないふりをして淡々と言った。
「子供ですよ。あなたは私の大事な弟です。神に召されたご両親の代わりに大切に…」
「それは感謝してる。でもペール、あんたは…、あんたは、俺の気持ちを知ってる」
ノアノアはペールの腕を掴んだ。ペールはそれを乱暴に振り払う。その拍子にワインを入れた器が転がり、周囲を赤く染めた。
「あ…」
小さくペールが叫ぶと同時に、再びノアノアの手がペールの手首を掴んだ。抵抗できないほど強い、大きな手。
ノアノアの、くっきりとした白目と黒目が、ひたとペールを見据える。黒目は森の闇の色、白目は突き刺さるように冷たい月の色。この目に見詰められると、ペールは射竦められた小動物のように動けなくなってしまう。
ノアノアはそのまま、白い木の机の上にペールを押し倒した。
「ペール、あんたが恐れてるのは何だ?神の怒りか?」
「…ノアノア、やめなさい」
しかしノアノアはやめない。熱くたぎった体をペールに押し当て、力強い腕でペールの両腕を押さえ込む。噛み付きそうなほどに顔を寄せ、呟く。
「怒ってるのは、あんたの神だけだよ。島の神は怒ってなんかいない。だからマラエで…」
「やめなさい!」
「ペール…」
近付いてくるノアノアの唇を、ペールは顔をそむけて拒否した。仕方なくノアノアはそのままペールの首筋に顔を埋め、きっちりと合わさった襟の隙間から舌を這わせる。
ノアノアの香りがペールの鼻の奥をくすぐる。まるで深い森の奥に潜む伝説の聖獣のような、甘く凶暴な匂い。
その匂いにつられ、ペールの体の奥も熱く熟れ始める。
「ノアノア!やめなさい!」
自分自身に抗うように、ペールはノアノアを突き飛ばした。
予想外に力が入ってしまい、ノアノアは壁まで飛んでいった。先ほどまでの野獣から打って変わって、傷付いた子供のような顔でこちらを見るノアノア。途端に、ペールの胸に後悔がよぎる。
「…ノアノア、大丈夫ですか?」
ノアノアは唇を噛む。
「やっぱり、ペールは俺のこと嫌いになったんだ」
「いいえ。…そうじゃないんです。そうじゃなくて、私は君のことを何よりも大切に思うからこそ…」
「いいよ、もう」
ノアノアは立ち上がり、腰の埃を払った。
「ノアノア、聞いてください。私はあなたのために言っているんです。もう忘れるんです、あんな過ちは!」
ギラリ、とノアノアの黒い目が光る。
「過ちなんかじゃない!何も間違ってなんかない!俺たちは間違ってなんか、いなかった」