王の弟
「ノアノア、君はすぐれた漁師なんだな。そうしていると、まるで天地創造の神話に出てくる人物のようだ」
朝の光の中、ビンセントが声をかけた。だが、カヌーに乗ったノアノアは魚を銛で突くのに夢中だ。何も聞こえていない。
ビンセントは苦笑して肩を竦める。彼のスケッチブックは既にノアノアの素描でいっぱいになっていた。
そんなことにこの青年は気付いてもいないだろう。それはそれでいい。だが、少しくらいは気にかけてほしい。ビンセントは複雑な思いを抱えて、もう一度声を掛ける。
「ノアノア-!大漁かい?」
「何か言ったかー?」
やっとノアノアが気付いて顔を上げた。「絵描き先生か!」
「先生はやめてくれ、ビンセントだ」
「分かった!ビンセント、あんたの分も魚捕ってやるよ!この間の石のお礼だ!」
無邪気な笑顔でノアノアが叫ぶ。ビンセントは目を細めた。逆光が眩しい。ノアノアの背後で太陽が輝いている。まるで彼の光輪のように。
「期待しているよ」
ビンセントは呟いた。
一日が始まったばかりの虹色の光をまといながら、ノアノアの乗ったカヌーが岸へと近付いてくる。彼はひらりと海へ降りると、そのままカヌーを引き摺って砂浜へとやって来た。引き締まった体が、太陽そのもののように煌く。二度、三度、長い髪を振り、水しぶきを飛ばす。
そんな一瞬一瞬を逃すまいと、ビンセントの指は忙しなくスケッチブックの上を動く。思わず、彼は独りごちた。
「ノアノア、君は楽園の夢そのものだ。世の中の女も男も、君みたいな人と恋に落ちることができたら、死んでもいいと思うだろう…」
「その通り。ノアノアには誰もが恋をする」
突然流暢なフランス語で話しかけられ、ビンセントは驚いて振り返った。
いつの間にか、背後に男が笑顔で立っていた。恰幅は良いが、やや小柄で五十代くらいだろうか。褐色の肌の現地の男だ。けれど欧米製の高級なスーツを着こなし、優雅に煙草を手にしている。指には大きな黒真珠。その傍らには召使いらしき若者が、灰皿を手に控えている。気品がありながら、堂々とした物腰と柔和な笑顔。
ただ者ではない。そう、ビンセントは確信した。
「…失礼ですが、あなたは?」
「おお、これはとんだ無礼を。私はイエテと申す者。イエテ・マヌイア・ファアレ。聞くところによると、あなたはフランス本土からいらした画家の方だとか」
「なぜ、そんなことをご存知なのですか?」
ビンセントは眉を寄せた。「あなた一体、何者ですか?」
その物言いが無礼だと感じたのだろうか。イエテはかすかに眉を寄せた。
「王様の弟君だよ」
浜に上がってきたノアノアが、男の代わりに答えた。
「王の弟?」
ビンセントはノアノアを、そしてイエテを見た。
「そうだよ。もうこの島に王様はいなくなったけれど。王様は大分前に亡くなったんだ」
そう言うと、ノアノアはイエテに向かって尊敬を表すために腰を屈めた。イエテは満足そうに笑顔で頷く。
なるほど、とビンセントは思った。それならばこの男の、堂々としたたたずまいも納得がいく。
「それでは、あなたが王位に就くのですか?」
「まさか!」
イエテが黒真珠をはめた指で白いハンカチを振った。「ご存知かな?フランスは、兄の死を最後に、もうこの国の王を認めなくなった。王はもう、いない」
「そうなんですか…」
気まずい空気を打ち破るように、ノアノアの籠の中の魚が大きく跳ねた。慌てて、ノアノアは籠に蓋をした。
「イエテ様、俺、失礼します。魚をツオマに渡さなきゃ」
そう言うと、ノアノアは若者らしい俊敏さで駆けていった。そのきびきびとした後ろ姿に、ついビンセントは見とれてしまう。
「美しい青年だろう?」
見透かしたようなイエテの問いかけは、図星なだけに面白くはなかったが、ビンセントは仕方なく頷いた。
「…彼のような美は、賞賛に値します」
勿体ぶって、ビンセントは言った。「と同時に、私はこの島の伝統と文化、生命力溢れる圧倒的な美しさにも魅了されているのですよ。地上の楽園とはまさにこのこと?イエテさん、私はですね、これらを築き上げた王の系譜が、フランスという傲慢な文明によって途絶えてしまうことは、とてつもなく残念に思っているのですよ」
わざとイエテに擦り寄るように、ビンセントは言った。この島で過ごすなら、かつての王弟に近付いて損は無い。
「…ビンセントさん、とおっしゃったかな。あなたは、変わった考えをお持ちのようだ」
イエテは穏やかな微笑を微塵も崩さずに答えた。「私どもの『野蛮な習俗』に関心をお持ちだとは。いいや、ごまかさなくて結構。フランス本国では、そう呼ばれておろう。私もかの地に留学したので、よく知っておる。私たちはまるで、珍しい動物のように見られたものだ。だが、さすが芸術を生み出す方は、考え方が違う。素晴らしい見識だ、ビンセントさん」
「…お褒めにあずかり光栄です」
「これがビンセントさんの絵か」
イエテはビンセントのスケッチブックを勝手に手に取り、めくり始めた。
「おや、ノアノアばかりだ」
「あ、そ、それは…たまたま」
ビンセントは焦るが、イエテは王族らしい有無を言わさぬ態度で手で制した。
「いや、恥ずかしがらずとも。当然だ。ノアノアは我らの神々が造りたもうた最高傑作。だが、残念ながらビンセントさん、どうやら、あなたは真のノアノアを知らぬようだ。彼は、ここに描かれているような漁師ではない。神と同じ貴き踊り手だ。今はフランスから禁じられているので、彼の踊りを見る機会は無いが。ノアノアの踊りは美しく強く、しなやかで、野性の力に満ち、そして高貴だ。彼の踊りには、誰も抵抗できない。まるで…そう、彼自身が王のようだ」
「王ですか…」
ビンセントは、思わず息を飲み込んだ。その時、イエテの目がキラリと光った。
「ビンセントさん。ノアノアが若き王として君臨する国、そんな王国に仕えたくはないか?」
「若き王…?」
ビンセントは身震いするほどの興奮を覚えた。神話から抜け出たような美しき青年王のために、この島を腐敗しきった近代文明から奪い返す?
何という冒険だ!
「でも、フランスから王制は禁じられたのだと…」
イエテはビンセントの目に炎が点ったのを確認するかのように、じっと見据えた後、再び穏やかな笑顔をつくった。
「その通り。だが、方法はある」
「方法って?」
イエテはニコリと笑うと、まるで聞こえていなかったかのようにビンセントの言葉を無視した。
「さあ、ビンセントさん、また絵が描けたら見せてくれ。あなたは我らの美の理解者だ。私の館は、あの丘の端だ。いつでも来られよ。歓迎する」
ビンセントはイエテの指さす方向に振り返り、丘の端にある大きな館を確認した。二階建てのフランス風の立派な館だ。元王弟は、王位こそ奪われたが、それなりの暮らしは保障されているらしい。食うにも困らないとあれば、ますます冒険のメンバーに加わりたくなるではないか。
「もちろんです、イエテさん」
ビンセントはイエテの手をとった。イエテは数度、満足そうに頷く。
「それではまた。御機嫌よう。ビンセント『先生』」
「分かりました。私でご協力できることならば」
ビンセントはイエテに向かって頭を下げた。
踵を返したイエテが、傍らの召使いに向かって現地の言葉で呟いたのも知らずに。
イエテはこう言った。
「駒は、揃った。愚かなる駒だがな」