表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花咲くマラエ  作者: 秋主雅歌
2/14

教会のペール

 ノアノアは軽やかに走り始めた。

 野生の鹿のようなノアノアは、立ち止まることを知らない。椰子の林が続く、白い石の坂道を飛び跳ねるように駆け続ける。後ろをついてくるビンセントのことなど忘れたかのように。

 まだ陸に慣れていないビンセントの足はすぐにガクガクと震え出す。荷物は肩に掛けた袋程度で、決して多くはないのだけれど、それが重りのように肩に食い込んでくる。それでも彼は荒い息を吐きながら必死でノアノアを追いかけた。

 どんなに苦しくても、追わずにはいられなかったのだ。ノアノアの引き締まったふくらはぎと、日に焼けて赤銅色に輝く背中。汗をかいてきらきらと輝く肩甲骨。ノアノアは南十字星と島に根付く精霊の加護を独り占めしたかのような、生命力の塊だ。それがビンセントを引きつけて離さない。

 やがて、ノアノアは丘の上の白い小さな教会の前で足を止めた。

 それは、十人も入ればいっぱいになってしまいそうな、小さな壊れそうな石の建物だった。屋根の上に掲げられた木の十字架が、必死で南国の容赦ない日差しに抗っている。

 形ばかりの門を入ると、綺麗に手入れされた小道があった。両脇にはさまざまなヨーロッパ産のハーブが植えてあったが、それらは厳しい熱気とスコールのためか、ぐったりと疲れ気味だ。

 それとは対照的に、入り口近くに植わっているティアレタヒチの白い花だけが生き生きと輝き、えも言われぬ芳香を周囲に投げかけていた。黄色い芯を覗かせながら、肉厚な真っ白な花びらを綻ばせる花たち。そのさまは清らかで、淫らだった。

 ノアノアは教会の木の扉の前まで来ると、一瞬ためらうように唇を尖らせたが、すぐに思い切り扉を叩いた。

「ペール!ペール神父!いるんだろ?」

 返事が無い。ノアノアは苛立ったようにもう一度扉を乱暴に叩く。それは子供じみたわがままなしぐさにも見えた。

 ビンセントが「別に教会なんて」と言おうとしたその時、ガタンと扉が開いた。

「ノアノア、扉が壊れますよ」

 穏やかな声とともに現れたのは、若い神父だった。この暑さにもかかわらず、きっちりと首まで詰まった黒い服に、胸元には十字架。小柄というわけではないが、折れそうに細く、どこか少女のような面差しだ。南国の太陽に肌は赤く焼けていたが、深い青の瞳、彫りの深い顔立ち、真鍮色の髪はいずれも遠い北の国から来たことを思わせた。

「ペールが早く開けてくれないからだ」

「それはすみませんでした。でも、来てくれて本当に嬉しいですよ」

 ペールと呼ばれたその男は、神父に不似合いなほどの満面の笑顔でノアノアを迎えた。だが、ノアノアの後ろにいるビンセントの姿に気付くと、一瞬、しまったと言いたげな顔を見せ、体を強張らせた。

「おじゃまでしたかね」

 ビンセントが片頬を歪めてフランス語で問うと、ペールは再び柔和な笑みを浮かべ、内心を巧みに隠した。

「お客様ですね。フランスから?よくぞいらっしゃいました、旅のお方。このような南海の孤島で知己を得るとは、これもまた神の思し召しなのでしょう」

 フランス語で返したペールの声は、表情同様、柔和で穏やかで、やはり先ほどの動揺など微塵も感じさせなかった。

 気に入らない。

 そう、ビンセントは感じた。大人げないかもしれないが、気に入らない。

「今さっき、この島の港に着いたばかりなのですが、途端にこの美しきノアノアに会いまして。なのに、ノアノアに導かれるままに辿りついた先は、なんと神の家。なんとも慈悲深いお話です。ここに来なければ、私は禁じられた官能の誘惑に溺れるところでした」

 ペールの顔がわずかに引き攣った。

「それはまさに神のお導き。幸いなことです。この地の太陽は時に眩暈を起こさせますが、神の御心に従い、心を強く持つのです」

「いや、この南国に神など必要なのですかね」

 もともと神なんぞというものを、ビンセントは信じてはいなかった。「神よりも、この美しきノアノアに従いたいものです」

「神はすべて見ておられますよ」

 穏やかだったペールの目が一瞬、強く光るのをビンセントは見逃さなかった。

 二人が散らす静かな火花にも気付かず、ノアノアが無邪気に口を挟んだ。

「この人、絵描きだってさ。ペールも絵、描くだろ?その絵を見せてあげたらいいよ」

「旅のお方、あなたは、画家なのですか?」

「売れてませんがね」

「それでは、ゴーギャンさんの影響でこちらに?」

 十年近く前、タヒチにいたゴーギャンという名の胡散臭い画家が、パリではそこそこ評判になっていたらしいことを、ペールも風の噂で知っていた。

「ええ、まあ、そんなものですかね。確かに、彼のパリでの個展には大いに感銘を受けました。ゴーギャンが狂っているのか、それとも、ここが狂っているのか…。それを見極めたくて、やって来たのかもしれないですね」

「狂気の無い世界なぞは存在しませんよ」

 若い神父はそう言うと、ビンセントたちを聖堂に招き入れた。

 まず、ノアノアが自分のねぐらに帰る兎のように軽やかに身を滑らせて入り、しばらく逡巡してからビンセントが続いた。そしてスケッチブックと着替え程度しか入っていない自分の荷物をやっと床に下ろす。

「旅のお方…」

 ペールが話しかけてきた。

「ビンセントでいいぞ」

 ビンセントは口調をガラリと変えて、神父の言葉を遮った。もったいぶった言葉と言い、自分よりはるかに若いくせに落ち着き払った態度と言い、ペールのすべてがビンセントを苛立たせる。勿論、その聖母のように整った清楚な横顔も。「で、あんたのことは何て呼べばいいのかな?司祭様?神父様?どれも、対等じゃないだろ?」

「すべての人は神の前で平等に…」

「そんな建前を聞いてるんじゃないさ。分かってるだろ?」

「…ペールと言います。ペール兄弟とお呼びいただければ…」

「ハッ!そんな変な言い方はしたくないな、ペール兄弟だと?」

 ビンセントの言葉に、ノアノアがプッと吹きだした。

「それは俺も、ビンセントの言う通りだと思う」

「そうだろ、ノアノア」

 ビンセントが得意げにノアノアの方を見る。ノアノアの方はといえば、興味深げにビンセントと、憮然としているペールを見比べていた。

「ビンセントはペールのこと、嫌いみたいだな。てっきりお前たち西洋人は皆、神父と祈りが大好きなんだと思ってた」

「いや、ノアノア、俺はこの人が嫌いなんじゃないさ。神というものを勝手につくり上げて、それを祭り上げること自体が嫌いなんだ」

「変なことを言うんだな。神はいるのに」

 無邪気に、ノアノアが言った。

「いる?神が?この世のどこにだい?」

「マラエにだ。いや、どこにでもいる。神も、死霊も、どこにでもいる」

「ノアノア!」

 ペールが真面目な顔でたしなめた。「マラエは神のいる場所ではないのですよ。何度言ったら、分かるのですか?」

「分かってないのは、あんただろ、ペール。だって本当に神はマラエにいるんだ。俺は知ってる」

「マラエ?」

 ビンセントが口を突っ込んだ。吐き捨てるようにペールが答える。

「古代の野蛮な宗教の神殿ですよ。いえ、神殿でさえないですね。ただの、石が連なっている空き地です」

 だがノアノアは引かない。

「ペールは神に仕えていると言いながら、何も見えてない」

 今度はビンセントが、二人のやりとりをニヤニヤしながら見ていた。

「マラエ、か。一度見てみたいな。ノアノア、俺を連れていってくれないか?」

「駄目だ」

 即座にノアノアは言った。「マラエはとても大切な場所だ。選ばれた者しか辿り着けない」

「俺は『選ばれし者』ではないってことか?」

 ビンセントは笑った。「まあ、そのくらい分かってるがね」

 ふざけた物言いだったが、その底に深い絶望と自暴自棄が潜んでいることに、ペールは気付いた。

「マラエは、本当にただの空き地なんですよ」

「あんたは、マラエに行ったんだな?」

 ビンセントの目が鈍く光る。言葉に詰まるペールの代わりに、ノアノアが「そうだ」と答える。

「俺が連れていった。ペールは、いいんだ。ペールは本当は分かってる。変な理屈をつけて自分で認めていないだけだ」

「ノアノア!」

 ペールはなぜか赤くなって制した。

「フン」

 ビンセントが鼻を鳴らして、顔を背けた。二人のやりとりに感じる秘密めいたもの。そんなものは見たくもない。と、その視線が祭壇の上で止まった。

 そこには、聖母子像の絵が掲げられていた。

 縦が一メートルほどの長方形の板をキャンバス代わりに、どこかで見たような聖母子像を丁寧に写したと思われる油彩画だ。少し変わっているのが、聖母の回りに現地の人々が跪き、祈りを捧げている点だ。

「この絵は?」

 ビンセントが問うと、ノアノアが「ペールが描いたんだ」と得意げに答えた。

 ペールは恥ずかしそうに俯いた。

「本職の方にお見せできるようなものではないのですが…。ただ、言葉よりも絵は雄弁だと思いまして。少しでも、この島の子羊たちを導くよすがになれば、と…」

「ラファエロの模写か。これはこれで、まあ、なかなかいい出来じゃないかね」

 ビンセントが皮肉交じりに言う。

「ありがとうございます」

「こんなものより、ペールの方が綺麗だ」

 ノアノアが不満げにペールを睨む。「ペールの絵は嘘ばっかりだ。綺麗なようで、嘘つきだ」

「ノアノア、何を言うんですか」

 ペールもノアノアを睨んだ。しばらく二人は睨み合っていたが、ビンセントが突然に笑い出した。

「神父様、ノアノアの言う通りだ。あなたの方が、借り物の聖母子像より百倍も千倍も美しい」

「ビンセントさん!」

 ペールは真っ赤になって声を荒げた。

「まあ、そう怒鳴らないで。ノアノアは本当に見どころがある。あなたの絵の技術はなかなかのものだが、絵ってのは技術だけじゃ駄目だ。そこに画家の心が無いとね」

「私は私の信仰を込めて…」

「偽りですよ、神父様。あんたは本心を誤魔化している」

「なぜ、そんなことを…」

「この絵で見るべきものは、模写の聖母子像じゃない。ここ、この周囲で祈っている島民たちだ。この少年は、幼いノアノアかな?真っ直ぐな、熱っぽい目で聖母を見ている。まるで、恋焦がれているように。こっちの青年もノアノアに似ている。熱いまなざしもね。この絵で生きているのは、彼らだけだ。神父様、あんたの心は…」

「ビンセントさん!」

 ペールの深い青の瞳が、キッとビンセントを見据える。「あなたは、何を言いたいのですか?」

 ビンセントはプッと吹き出した。

「冗談だよ、神父様。今度、教会に私の絵を寄贈しよう。神父様ほど、うまくはないかもしれないがね」

 ビンセントはそう言うと、荷物を背負った。「ノアノア、案内してくれてありがとう。俺は港の宿に泊まる予定だ。また会おう。俺たちは気が合うと思うぞ」

 それだけ言うと、笑いながらビンセントは出ていった。


 「変な奴だな」

 ノアノアは首をかしげながら、猫背がちなビンセントの後ろ姿を見送った。

「西洋人は皆、あるはずもない夢を求めてこの国に来るんですよ。彼もそうなんですね」

 ペールが呟いた。「地上の楽園があると信じて、船で長い長い旅をする。海の果てに行けば、自分は変われると信じて」

「ペールもそうなのか?」

 ノアノアの問いを、ペールは聞こえないふりをした。そして、先ほど二人からけなされた聖母子像の絵を見詰めた。

「あ、ペール。そう言えば、さっきの男から石をもらったんだ。綺麗だろ?」

 ノアノアは握っていた手を開き、緑の石をペールに見せた。深い緑の中に、卵のように黒い点がある不思議な石だ。「『王の涙』っていうんだってさ」

「…これは多分、翡翠ですね。中に黒いものがあるなんて随分珍しい…。確かに、王家の宝と言っても不思議じゃないのかも…」

 ペールは我知らず引き寄せられるように石に触れた。が、すぐに「熱っ」と手を引っ込めた。

「ペール?」

 ペールは我に返ると、再び石に触れた。普通の、滑らかな石だ。ひんやりとしている。先ほど触れた時、焼けた鉄のように熱く感じたのは、気のせいに違いない。

「い、いえ。綺麗な、石ですね」

「そうだろ、あの男がくれたんだ。タダで」

 盗品だろうか、とペールは思った。が、次の瞬間、人を疑うようなことを考えてしまった自分を恥じた。海を映したようなこの石の深い緑は、ノアノアの艶やかな黒髪と赤銅色の肌によく似合う。きっと、あの画家もそう考えて、ノアノアに捧げたのだろう。

 ノアノアは嬉しそうに言う。

「これ、来月のヘイヴァ(祭り)で胸に付けようと思うんだ」

 途端に、ペールの顔が歪んだ。

「マラエへ行くのはやめなさいと言ったではないですか。あ、あんな、あんな野蛮な行為は神の御心に背きます!」

「ペール」

 ノアノアは悲しげに言った。「俺は、俺たちは間違ってなんかない。あんたの神の方が間違っている」

 ノアノアは真っ直ぐにペールを見詰めた。真っ黒な瞳が、彼を射抜く。くっきりとしたコントラストを描く白目が輝く。

 思わずペールは目を逸らした。

 が、ノアノアはペールの細い顎を指で捕らえ、自分の方を無理矢理向かせた。

「ペール、あんただって、本当は知ってる」

「ノアノア…」

 ペールはノアノアの手を払った。だがノアノアを見ることなく、視線を自分の足先に落とし、押し殺した声で呻く。「…それ以上、言ってはいけません」

「ペール」

「ノアノア、私たちは…仲の良い『兄弟』だったのではないですか?私は幼いあなたを、八年も大切に育ててきた…」

 ノアノアは首を傾げた。

「ペール、あんたの言ってることが、俺はよく分からない。俺はあんたが好きだ。あんただけが好きだ。それは今も昔も、何も変わってない」

「ノアノア、それは私もです。ですが、私が言っているのは、そんなことじゃない。私たちは、神の御前に一点の曇りもない、兄弟に戻るべきです。私は君のためなら何でもします。だから、だから、ただお互いを慈しむ兄弟に戻りましょう」

「ペールは怒ってる」

「怒っていませんよ」

 苛立ってペールが頭を振る。

「いや、怒ってる。でもペールが何に怒っているのか、俺にはさっぱり分からない。俺のこと、嫌いになったのか?」

 ノアノアはふいに自信無げな子供のような顔になる。ペールは必死で首を振った。

「違います!そうじゃないんです」

「俺はもう、来ない方がいいのか?」

「違う。そうじゃ…」

 ペールはノアノアの刺青が刻まれた太い腕を掴んだ。「…ノアノア、あなたがいなければ…、私は…」

 言い終わらぬうちに、ノアノアの腕がペールを抱き締めた。

「ペールは変なことを言う。あんたが許してくれるなら、俺、毎日来るよ。朝も昼も夜も来る」

 年相応に幼さの残る口調でノアノアが言った。

 ペールは答える代わりに、眉を寄せて呻いた。鼻先をくすぐる、ノアノアの香り。ティアレタヒチの涼やかな芳香の中に、ノアノアの内部から沸き立つ麝香のように甘く獣じみた香りがした。大きく息を吸い込むと、眩暈がする。抗えない、誘惑。

 ペールの唇が、そっと囁いた。

「…神様、どうかお許しください」

 そして、ペールは諦めたように目を閉じて、ノアノアの力強い抱擁を受け入れ、彼の裸の背に両の腕を回した。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ