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花咲くマラエ  作者: 秋主雅歌
14/14

最後の歌

 ノアノアは傷ついたペールを抱えて、暗い夜の海へと降りていった。

 岸辺には、主のいないカヌーが数隻繫がれていた。ノアノアはその一つに乗り込むと、中にペールを横たえ、海へと漕ぎだした。

 激しい雨の中、ノアノアの逞しい腕に操られたオールが、カヌーを海流の中へと押し出す。小さな小舟は波を滑るように進む。島影はどんどん小さくなり、やがて点のようになった。

 雨は降り始めた時と同様に、突然にやんだ。そして、空にはこぼれ落ちんばかりの星が現れる。


 揺りかごのようにカヌーを揺らす波。甘く、清涼なティアレの香り。そうした、天に属するようなものたちが、再びペールの意識を呼び起こした。

 ペールはゆっくりと目を開けた。

 ああ、ノアノアがいる。

 闇の中で、ノアノアの姿がぼんやりと霞んで見える。

 ペールは呼びかけようとした。だが、声が出ない。喉も、胸も、腹も、何もかも熱くて、そして感覚が無い。

「起き上がるな」

 ノアノアの声は震えていた。怒っているのだろうか。泣いているのだろうか。だが、すぐ側で声がするのに、ペールにはそれがなぜかよく見えない。ただ、香りだけがする。馥郁たる、地上の花をすべて集めたかのようなノアノアの香りだけが。

 それだけで、ペールは満足だった。

 ノアノアが生きているのだから。ノアノアの香りに包まれているのなら、いつ死んでもいい。そうペールは心から思った。

「ペール?」

 ノアノアは体を屈め、ペールの顔に触れんばかりに近づいた。なのにペールはこちらを見ない。その目の焦点は定まらず、血にまみれた手は虚空に何かを探している。

「見えないのか?ペール」

 ペールの唇が動くが、それは言葉にならない。その腹は血でどす黒く染まり、荒い呼吸で胸が激しく上下している。

 ノアノアは一度目を閉じ、大きく息を吐いた。

 ペールの命は今まさに尽きようとしている。それはノアノアでさえ認めなければならなかった。死霊は既にペールから見る力を奪った。あとわずかで、生命の炎も吹き消すだろう。

 だが、ノアノアは胸中の諦めをおくびにも出さず、血に染まったペールの手を強く握った。

「大丈夫だ、ペール」

 ペールの目が揺れ、絞り出すような声が微かに漏れる。

「…ノア、ノア…」

「ペール、これから医者に連れていく。大丈夫だ。タヒチ島なら偉い医者がいる。ペールを助けてくれる」

 ペールはわずかにかぶりを振った。無理だ、と言おうとした。

 私は提督殺しだ。医者になど連れて行こうものなら、通報され、軍に引き渡され、銃殺だ。いや、それ以上に、連れてきたノアノアも罪に問われる。そもそも、医者に診せたところでもう、私は多分助からない。

 ペールはそう言おうとした。だが、言葉にならない。

「…ノア、ノア…」

 代わりに、渾身の力で両の腕をノアノアに伸ばした。そして、その首を抱き締める。「…そばに…最期の時まで、そばに…」

「大丈夫だ!」

 泣きそうな震える声でノアノアは答え、ペールを強く抱き締めた。だが、ペールの体に力は無く、命が少しずつ漏れ出しているのが分かる。だが、ノアノアは自分に言い聞かせるように叫んだ。「大丈夫だ!死霊はまだ来ない!俺には、まだ見えない!大丈夫だ!」

 その時、カヌーが何かにぶつかったように揺れた。

「浅瀬?」

 驚いたノアノアは周囲を見渡した。そんなはずはない。まだ、島は遠いはずだ。

 もう一度、今度は舟は大きく傾いだ。

「…鮫か?」

 緊張が走る。ノアノアはオールを手に、息を詰めて海面を睨んだ。だが、ねっとりとした闇の中、波の間に鮫の背びれは見えない。

 その時、水音とともにカヌーの船尾に現れたもの。それは、人の指だった。まず左手が舟の縁を掴み、さらに右手が現れる。白く、長い指。

 ノアノアの呼吸が一瞬、止まった。

(死霊が、ついに来た)

 ペールを背後にかばい、ノアノアはゆっくりと指に近づいていった。

(まだ、ペールは渡さない!)

 オールをその指目がけて思い切り振り下ろす。

 野太い悲鳴がした。聞き覚えのある声だ。

「…画家先生か?」

 ノアノアの手が止まった。その間に、ぬっと、ビンセントの蒼白の顔が海中から突き出てきた。

「…ノアノア、私を、連れていってくれ」

 恨みに満ちた顔が呻く。「…ノアノア…」

 ノアノアは言葉を失い、恐怖に震えた。ビンセントは撃たれ、マラエで死んだはずだ。いや、死にかけていたはずだ。

(まさか、俺がペールの傷の処置をしている間に、泳いで舟に追いついたというのか。確かに、死にかけていたはずなのに…)

 その執念のすさまじさに、ノアノアの背中に冷たい汗が流れる。

「…俺も、乗せてくれ…」

 ビンセントの白い顔が舟の縁へと再び近づいてくる。オールで砕かれ、血にまみれた指がふたたび舟の縁に掛けられる。カヌーが大きく揺れる。

「駄目だ!手を離せ!三人じゃ、このカヌーは無理だ!」

「…ノアノア、頼む。俺も乗せてくれ…」

「手を、手を、頼むから離してくれ!画家先生!俺はペールを医者に連れていくんだ」

「…そいつは、もう死んでる」

「死んでなんかいない!」

「…死んでるよ。だから、俺を替わりに乗せてくれ」

 カヌーが再び揺れる。

「やめろ!お前なんか、お前なんか、いらない!」

「ノアノア、俺を、俺を、愛してくれ。何だってする。ああ、石をあげたじゃないか…」

「石なんか、いらない!」

 ノアノアはオールをビンセントの顔に振り下ろした。骨が砕ける鈍い音。血しぶきが、ノアノアの顔に飛んだ。

「ノアノア…、俺を…」

 だが、ビンセントはなおも追いすがる。

 ノアノアは無言で再びオールを振り下ろした。

「俺を、愛してくれ…。ノアノア、頼むから…」

 ノアノアは答えない。代わりに何度も何度もオールを振り下ろした。

 ビンセントの手がやっと、舟の縁を離れた。だが、血にまみれた歪んだ顔は、水面に浮き沈みしながら、なお愛を乞う言葉を吐き続ける。

「…ノアノア、頼むから…」

 ノアノアはさらにオールを振り下ろした。その時、ビンセントの手がそのオールを掴む。

「なら、ノアノア、俺とともに…」

 一体、どこにそんな力が残されているのか。怖ろしい力で、ビンセントはオールを引っ張る。

「やめろ!」

 慌てたノアノアの手から、オールが落ちる。

「オールが!」

「…ノアノア…俺のノアノア…」

 ビンセントはオールを放り捨てると、再びカヌーの縁に手を掛けた。死霊そのもののように。

「来るなあ!」

 ノアノアの拳がビンセントの顎を砕いた。

 引きつった悲鳴。

 ビンセントはやっと動かなくなった。そして彼の砕かれた顔は、波間をしばし漂い、それからゆっくりと沈んでいった。

 その間に、オールもまた暗い海の彼方に消えてしまった。

 そして、沈黙。寄せては返す波の音だけが、世界中に満ちていた。


 ノアノアは呆然とした。体の震えが止まらない。

 ビンセントを殺した。殺したのだ。この手で。だが、そのこと以上に心を引き裂いたのが、オールが無いことだ。これでは、タヒチ島に辿り着けない。

「…ごめん、ペール」

 ノアノアは、横たわったペールの顔の側にうずくまった。微かに、ペールの唇が動く。

「…ノア、ノア…」

「ごめん…。俺、助けるって言ったのに…」

 ノアノアの目から涙がボロボロと零れる。何が、「王」だ。こんなに俺は無力だ。ペールを救うことすらできない。この地上で一番大事なペールを。

 だが、ペールは満足そうに笑って、微かな声で言った。

「…主よ、感謝、します…」

 ノアノアは驚いてペールの顔を覗き込んだ。

「ペール、ペール!なんで、そんなこと…」

「…君が、無事で、いたことに…。感謝します…」

 ペールは最後の力を振り絞るように、ノアノアの唇に口付けた。ノアノアは驚き、そして苦しげに笑った。

「ほら、みろ。あんた、やっぱり、俺のこと好きなんじゃないか…」

 言った途端に、ノアノアの目に涙が溢れた。ペールは微かに頷くと、ノアノアの頬に震える指で触れた。そして愛しげに、くっきりとした鼻梁や厚い唇に触れていく。

「…神様だって…最期くらいは、許してくれるでしょう」

 ノアノアはペールを強く抱き締めた。

「しっかりしろ、ペール!最期なんて、言葉は使うな!俺がもうすぐ連れていくから!あんたが救われる島まで!あんたと二人で、二人だけで生きていける島まで!」

 だが、ペールは目を細めるだけだ。

 ノアノアも、自分の言葉の空虚さに唇を嚙んだ。そんなものは、この地上には無い。お互い、分かっている。

 ノアノアもペールも、それ以上は言わなかった。代わりに、どちらからともなく誓いのように口付けた。ノアノアはペールの舌を吸い取るように口付けた。ペールの舌はもう、鉄のような苦い血の味がしていた。

 ふいに、ペールの体が引きつった。

「…死霊が…見える」

「それは、あんたの目が悪いからだ、ペール。あんたの目は、俺だけ見ていればいいんだ」

 ノアノアはペールの頬を両手で覆うと、再びその唇に吸い付いた。だが、ノアノアにも分かっていた。少しずつ体温を失っていくペールの四肢。もはや、最期の時は近い。

「ペール、大丈夫だ、大丈夫だから」

 その言葉に安堵するかのように、ペールは深く息を吸い込んだ。そして満足そうに微笑んだ。

「…花の、香りがする…」

 そうだ。ノアノアがいるからだ。ノアノアの香りだ。「…ノアノア…」

「何?ここにいる」

「…離さないで…」

 もうすぐ自分は死ぬ。ペールもそれは分かっていた。

「当たり前だ!」

 ノアノアはさらに強くペールを抱き締めた。「離すわけがないだろ。俺は永遠にあんたを愛してる。あんたが死んだって、月のように何度でも復活させる。あんたを愛し続ける。永遠に」

 ノアノアはそう言うと、ペールの隣に体を横たえた。そしてペールの頭を自分の胸にしっかりと抱き寄せる。狭いカヌーの中、二人は棺桶に並ぶ死体のようにも見えた。

 波の音にまじって、ペールの口から声が漏れた。

「ペール?」

 ペールは歌っていた。かつてペールが教会で歌っていた、悲しい節の歌を。


 …現れたるは 七つ門…


 物狂おしいほどに悲しい旋律。聞いたことがないのに懐かしく、忘れがたい歌。

 ペールは荒い息の合間を縫って、途切れ途切れにその物語を歌う。黄泉へと下る女神が、その宝を奪われ、復讐に燃えるさまを。


 …最初の門で失うは 王の冠なりにけり…

 …第二の門で奪われし 太陽と月の耳飾り…

 …第三門でなくしたり 海の真珠の首飾り…

 …第四門で消えたるは 輝く星の胸飾り…


 「輝く星の胸飾り」。その言葉に、ノアノアはハッとした。先ほどまで身につけていた、王家の宝。南洋の貝で作り上げた、虹色に輝く螺鈿細工の胸飾り。ノアノアが篝火に放り込み、この世から消え失せた宝。

 あれこそが、「輝く星の胸飾り」ではなかったか?

 この歌は、予言の歌なのか?

 ノアノアの当惑をよそに、ペールは歌い続ける。最後の力を振り絞り、何かに憑かれたかのように。


 …かくて女神は取り戻す…

 …失いしもの そのすべて…


 歌が転調した。が、ペールの声は突然に途切れた。

「ペール?」

 だが、ペールは答えない。

 あれほど荒かった呼吸の存在も、消えていた。苦しそうに激しく上下していた胸も、もう動いていない。突然に、捻子が切れたかのように。

「ペール!」

 ノアノアは知った。死霊が来た、と。

 死霊は夜風のようにひんやりと自分の頬を撫で、目の前の恋人をいとも簡単に連れ去っていったのだ。

「ペール!ペール!ペール!!!!駄目だ!行ったら駄目だ!」

 ノアノアはペールをかき抱いた。と、その服のポケットがひどく熱くなっているのを感じた。手を入れると、燃えるように輝く緑の石が出てきた。緑の中に、赤黒いものが見える瞳のような石。ビンセントがくれた石、「王の涙」だ。

 その石が今、息づくように熱くなっていた。

 その時、空が揺れた。そして、ノアノアは見た。闇が固まり、大きな怪鳥になるのを。それは伝説の竜の姿に似ていた。巨大な黒い竜は、カヌーの舳先に止まった。だが、竜には重さが無いのか、舟はビクリとも揺れない。

「お前は…死霊か?」

 竜は地鳴りのような笑い声を上げた。そのたびに真っ赤な口の中が見える。炎の舌がチラチラと顔を出している。

<わらわが死霊とは、心外なことだ。まあ、何とでも言うが良い。結局、この男も歌の結末が分からなかったのだから>

「分からなかった…?」

 竜は目も赤かった。感情の無い冷ややかな赤い目が、ノアノアをじっと見詰める。

<まあ、良い。おぬしのおかげで、第四門の宝は戻ったのだからな>

「あの胸飾り…」

<そうだ。あれは、もともとわらわの宝。炎はわらわの舌。よくぞ返してくれた>

 ノアノアには、竜の言うことはよく分からなかった。だが、この化け物が底知れぬ力を持っていることは分かる。

「ならば、俺に見返りをくれ」

<生意気なことを言う男よの。だが、考えてやらなくもないぞ>

「ペールを、ペールを返してくれ。足りなければ、この石もやる」

 ノアノアは炎のように光を放つ緑の石を差し出した。

 竜が再び真っ赤な目を細める。そして再び地鳴りのような声で笑った。

<それは出来ぬな。愚かな、小さき者よ。おぬしらの命など、流砂の中に消えた虫のようなもの。一つ一つになぞ構ってなどおれぬ>

「なら、俺は何もいらない。こんなもの、返してやる!」

 ノアノアはそう言うと、緑の石を竜に向かって投げつけた。石は竜の腹に当たり、そしてボチャリと波の間に落ちていった。

 竜がノアノアを睨む。だがノアノアは怯まずに睨み返した。そして、竜の炎の舌から守ために、もう動かなくなったペールを自分の背に隠した。

 だが、竜は炎は吐かなかった。

<ふん。そうだろうよ。おぬしは、そうだろう>

 独り言のように竜はそう言うと、稲妻のような大きな羽ばたきの音を残して飛び去っていった。と同時に、零れるような星影が再び波とカヌーを浮かび上がらせる。

 ノアノアは大きく息をつくと、ペールの体を胸に抱いた。

「…ペール、ペール、ペール…」

 その名を、ノアノアは呼び続けた。だが、ノアノアの声はもう、どこにも届かない。ペールはもう何も答えなかった。

 海流は二人が乗った小さな舟を、気まぐれに海の果てへと追いやっていった。


 その後、ノアノアを見た者は誰もいない。おそらくペールの亡骸をかき抱いたまま、海の中へと飲み込まれていったのだろう。彼が捨てた、不思議な緑の石とともに。


 やがて百年以上の時が流れた。ノアノアとペールと、緑の石を飲み込んだ海は、大国の核実験の場所となっていた。爆発のたびに繰り返し打ち寄せられる、破壊の欲望の波。緑の石はその波に揉まれながら、次第に脈打ち始め、かつて古代の獣が放った言葉を再び地鳴りのように発し始めた。


 …焼き尽くせ…

 …破壊しろ…


 それは、かつてペールが封印しようと願った欲望。だが、もうその野望を止める祈りは無い。

 そして、石は求め始めた。石が放つ呪いの言葉が聞こえる人間を。



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