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花咲くマラエ  作者: 秋主雅歌
13/14

瞳に降る雨

 すべてが、一瞬だった。

 ペールの持っていた刃は、トゥアールの背に突き刺さった。骨の合間を抜け、臓物へ深々と。

「…な…」

 驚いてトゥアールは振り返った。ペールは縛られたままの拳にさらに力を込める。刃がさらに食い込んでいく。刃は胸へと貫通する。

 トゥアールは自分の胸から染み出す血を手で拭い、恐怖で目を剥く。

 彼の口が微かに動いた。だが、叫ぶ間も無くその体はガクリと地面に倒れ込み、痙攣を起こし始めた。

 その様をペールはぼんやりと見ていた。そして、自分の血塗られた手を見やる。これは現実なのだろうか。遠い世界のように見える。

 …すべてを、殺せ。すべてを、壊せ…

 遠くで、あの声がする。地獄から響いてくるような、雷のような竜の声が。

「…ペール?」

 ノアノアも呆然として彼を見ていた。何が起きたのか、ノアノアにもよく分からない。

「提督!」

 やっとフランス軍の兵士たちが倒れた上官に気付き、ノアノアたちを捕らえようとした、その時。再び、稲光が周囲を染めた。

 その一瞬の光の中で、ペールは再び見た。茂みの中から光る銃口を。それはノアノアを狙っていた。その銃口の主は…イエテ。歪んだ笑みを浮かべた、かつての王の弟。

 銃声と同時に、ペールの体が舞った。

 ノアノアに向けられた弾丸は、飛び込んできたペールの体を貫いた。ゆっくりと、彼はノアノアの目の前で倒れ込む。

 一瞬、無限のように世界が凍りつく。

 次の瞬間、獣のような叫び声を上げてノアノアが駆け寄った。

 急いでペールの体を抱き起こすが、温かな血がぬるりとノアノアの手を染める。

「ペール!ペール!」

 再び雷鳴。そしてもはや耐え切れないかのように、天の底が抜けたような激しい雨が降り出した。

 ペールに遮られたが、今再びイエテの銃口がノアノアを狙っていた。だがペールの血に動揺したノアノアは動けない。

 その時、長い腕が伸びてイエテの銃を叩き落した。

「貴様、何をする!」

 その腕の主は、茂みに隠れていたビンセントだった。彼は目を血走らせてイエテに飛びかかった。王の弟に馬乗りになり、襟首を掴む。

 だがイエテは動揺もせず、不敵な笑顔のまま言う。

「余計な手を出すな」

「なぜ、お前がノアノアを殺す?なぜ、お前が!」

 イエテは雨に顔面を叩かれながらも、笑みを崩さずに答える。

「民を目覚めさせるためだ」

「何だと?」

「ノアノアは光り輝く、高貴な若き王。その王がフランス軍によって無残に殺され、その血がマラエを染めたなら、今度こそ民たちは蜂起するだろう。奪われたものの大きさを知り、立ち上がるだろう」

「…だが、だが、貴様は、このヘイヴァはトゥアールを捕らえるためだと言ったじゃないか」

「我が民たちは臆病者だ。すぐに逃げる。現実から目を逸らす。だからこそ、この島から王は消されたのだ。この腰抜けどもを奮い立たせ、再びこの国を我らの手に取り戻すためには、犠牲の血が必要なのだ。尊いものが奪い去られたのだと、骨の髄まで染みる犠牲の血が。このヘイヴァはそのための儀式。ノアノアは神への犠牲の羊だ」

「この、嘘つきめ!」

 ビンセントの言葉を、イエテは鼻で笑う。

「嘘つきとは誰のことだ?愚かな絵描き崩れよ。お前が裏切るであろうことは、私は見抜いていたのだよ。何者にもなれず、誰にも必要とされず、愛されずに流れてきたエセ画家、塵芥よ」

「貴様…、もう一度言ってみろ…」

 イエテの襟首を持つビンセントの手が震える。

「何度でも言ってやろう。お前は皆を見下しているようだが、お前こそ何様だ?格好をつけてはいるが、誰からも顧みられない、薄汚れた中年にしか過ぎないお前は?」

「…貴様…」

 ビンセントがイエテに拳を振り上げたその瞬間、銃声が間近で響いた。同時に大きな衝撃がビンセントを背中から襲う。

 体が、熱い。

 肉が焦げる匂いがする。自分の、肉が。

 ゆっくりと、ビンセントは振り返った。そこには、「ヒナの子孫」のリーダー、ヨテファが震えながらイエテの銃を構えていた。その銃口から流れる煙。

「イ、イエテ様から、離れろ!」

「…何を言ってやがる…」

 ビンセントはヨテファに向かって腕を伸ばした。再び、銃声。二発の銃弾が、ビンセントの体の中に吸い込まれていった。

 ゆらりと、ビンセントは立ち上がった。途端に、血が体から吹き出る。

「…イ、イエテ様、早く!」

 ヨテファは恐怖で声を裏返しながらも、イエテを抱き起こした。

「よ、よくやった、ヨテファ」

「は、早くこちらへ!」

 ヨテファはイエテの腕を引いて、そのままジャングルの茂みへと逃げ込む。

 逃げる二人を、ビンセントはぼんやりと見ていた。顔に叩きつける雨。傷口がドクドクと脈打ち、燃えるように熱い。

 ビンセントは周囲を見回した。

 マラエにはもう誰もいない。何も無い。残されているのは、多くの男たちの屍と、闇に白く浮き上がるティアレの花。雨の匂いにも消えないティアレの香りが、闇に染み込んでくる。いや、ティアレではない。ジャングルに咲く百億の花を集めたように甘く、それでいて爽やかな香り。それは。

「…ノアノア」

 ビンセントは囁いた。

 果たして、目の前にノアノアが雨に濡れて立っていた。その腕には、ぐったりとして動かない血まみれのペール。

「ノアノア」

 だが、ノアノアは呼びかけには答えず、まるでビンセントが見えないかのようにその脇を通り過ぎていった。

「ノアノア!」

 ビンセントはもう一度叫ぶと、追いすがり、ノアノアの腕を掴んだ。だが、ノアノアは首を振った。

「離してくれ。急ぐんだ、画家先生。ペールを、ペールを医者に見せなくちゃ…」

「見せても無駄だ」

「本島の医者なら、治してくれる…」

「無駄だ。そいつは、もう助からない」

 血を流しているのは自分も同じなのに、ビンセントは言い捨てる。

「やめてくれ!ペールは生きてる!」

 ノアノアはビンセントの腕を払った。その勢いにビンセントは倒れそうになるが、再びノアノアの腕を掴む。

「ノアノア!その骸の代わりに、俺を連れていってくれ!俺はお前と生きていければ、他には何もいらない。お前のためなら、何でもする!」

 だが、ノアノアはビンセントの手を無言で払い、歩き始める。

「ノアノア、頼む!」

 ビンセントは倒れこみ、ノアノアの足首にしがみついた。

「ノアノア、俺は、俺はもうじき死ぬ。さっき撃たれた。もう駄目だ。その神父と同じだ。だから、最後に、最後にどうか、お前の情をかけてくれ…」

 ビンセントは泥と血で汚れた顔で取り縋った。けれど、そんな哀願すらも、ノアノアの足は無情に払いのける。

「ごめん、画家先生。あんたじゃ駄目なんだ。ペールでなければ、俺は生きていけない」

「ノアノア、俺を、俺を見殺しにするのか?一人で死ねと言うのか?」

 だが、ノアノアは答えなかった。這うように縋りつくビンセントをもう見ることもなかった。ペールをしっかりと抱え、海へと向かう階段へと急ぐ。一刻も早く海を渡り、医者に見せるために。

「ノアノア!ノアノア!ノアノア!」

 ビンセントは声を振り絞って叫んだ。だが、もうノアノアは振り返らない。その後ろ姿が、雨と茂みに隠れて見えなくなる。

「ノアノア…」

 ビンセントの声が段々と小さくなっていく。力が急速に抜けていくのを、彼は感じた。

 彼の体は、マラエの端に仰向けに倒れたまま、小刻みに震え出した。体の奥が熱く脈打っていた。手を当てると、そこからとめどなく溢れてくる熱い血。それは冷たい雨と溶け合い、一緒に地面に吸い込まれていく。

「…ノアノア…」

 ビンセントは呟く。

 もうすぐ自分の命は尽きる。啓示のように、ビンセントは悟った。

 その悔しさに、彼は一筋の涙を流した。

 何のために、今まで生きてきたのか。何のために、南太平洋の果てまで来たのか。

 誰にも愛されることなく、たった一人で泥にまみれて命を終えるためにか。

 何と馬鹿げた人生!何と滑稽な、愚かな男!

 …それが、俺なのだ。

 ビンセントの空虚な灰色の瞳を、雨が何度も叩いていた。



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