星が消えて
夜更けのマラエに、突然に響き渡る一発の銃声。
祝祭の熱狂が、ブツリと途切れる。
「フランス軍だ!」
その声に、マラエに集まっていた人々は騒然となった。事態が飲み込めず、逃げようと暗闇の中を右往左往する。
「逃がすな!全員捕らえろ!」
トゥアールが絶叫し、フランス軍の兵士たちは怒涛のようにマラエへと押し寄せた。たった今まで神との交感の場だった祭壇の周囲は、大混乱に陥った。
トゥアールの読みでは、恍惚状態の「原住民」たちなど、やすやすと捕えられるはずだった。
だが、兵士たちはすぐに自分たちの計算違いに気付いた。烏合の衆とたかをくくっていた「原住民」たちは抵抗したのだ。それも激しく。突入するまで気付かなかったが、彼らの多くが武器を携えていた。大きくはないが、よく切れる刀と斧。年老いた長たちを守るように、屈強で大柄な若者たちが取り囲んでいる。
ヘイヴァのために他の島からも集められた、力自慢の若者たちだった。
兵士たちの剣は若者たちの斧で叩き割られ、ついでに体ごと吹き飛ばされた。次々と兵士たちが倒されていく。何と言っても、兵士たちが数十人に対し、集まった民の数は数百人はいるのだ。どちらが有利かは明らかだ。
だが、トゥアールの笑みはなぜか消えなかった。
「やはり一筋縄では行かぬようだな。仕方がない、神父を前に!」
命令に従い、トゥアールの部下が両手を縛り上げたペールの襟首を捕まえ、彼らの前に盾のように立たせた。
トゥアールはまた銃を空に向かって撃ち、声を張り上げた。
「無駄な抵抗はやめろ、蛮族ども!でないと、お前たちの神父がどうなるか分からんぞ!」
トゥアールはペールの頭に銃を突きつけた。猿轡をされたペールは必死で抵抗するが、部下二人がかりで羽交い締めにされ、身動きすらとれない。何か言おうとするが、それもくぐもって誰にも届かない。
「いいか、この神父を助けたかったら…」
「やめろ!みんな、やめるんだ!」
叫んだのは、ノアノアだった。
一瞬、すべての争いが止まり、マラエはしん、と静まり返った。
ノアノアは目を張り裂けんばかりに見開き、今にも泣き出しそうな顔でペールを見ていた。「…なぜ、ペール、あんたがここに…」
トゥアールは勝ち誇ったように笑って叫んだ。
「蛮族どもの首謀者よ、やはりお前にはこれが一番効果的なのだな。大人しく投降するがいい。そうすればお前の大事な神父殿も、お前自身も、命だけは助けてやるぞ」
ペールはノアノアの目を見た。何も言えない。目で訴える。
(逃げてくれ。私のことなど構わずに)
だが、ノアノアが従うわけがない。彼が口を開こうとしたその時、民の一人が叫んだ。
「そんな神父なぞ、我らにはもういらぬわ!」
その声が合図だった。
「そうだ!我らにはもう王がいる!」
「神の化身がいる!」
「王がいるのだ!」
声が、マラエに、闇の空にこだまする。
トゥアールは息を呑んだ。
「な、何だと、この罰当たりどもが…」
自分の行動は棚に挙げ、トゥアールは呻いた。呆気にとられたのは、トゥアールだけではなかった。ノアノアもまた、呆然としてペールと祭壇に集う民たちを見た。
「みんな…そこにいるのは、ペールだよ!俺たちのために十年もここで頑張ってくれた、ペールなんだよ!」
だが、熱に浮かされたように民たちは拳を振り上げる。
「ノアノア!我らが王よ!」
「ノアノア!」
「我らが神!」
「我らが王!」
「ノアノア!」
「ノアノア!」
ノアノアはペールを縋るように見た。なんという残酷な仕打ちを、俺の仲間たちはしているのか。一生懸命尽くしてくれたペールに対して。何の恨みもないはずなのに。
だが、ペールは静かな目をしていた。猿轡をされたまま、いいのだ、とその目は語っていた。まるで殉教者のように穏やかな目で。ペールの言いたいことは、ノアノアには痛いほど伝わってくる。
(いいんです、ノアノア。私は神を裏切ったのですから。そんな人間の教えなぞ、心に響くはずがない。それだけのことです)
ノアノアは大きく息をついた。そしてイエテから送られた煌く胸飾りに手をやると、それを引きちぎり、篝火の中に放り込んだ。
民たちから悲鳴が起きる。
「王の証の胸飾りが!」
はぜる音とともに、胸飾りは炎の中で溶け、その形をなくしていく。
「俺は神じゃない!俺は王なんかじゃない!俺は…ペール!ペール!」
ノアノアは叫ぶと、祭壇から駆け下りようとした。
が、複数の腕が彼の体を押し留めた。ビンセントとヨテファだった。
「あんなエセ神父なんざ放っておけ!」
「お前は、なんてことを!王の証を!王家の宝を!」
二人は同時に叫び、ノアノアを祭壇の舞台に押さえつけた。
一瞬、民たちは静まった。が、すぐに彼らの怒りは再び、フランス軍へと向かう。
「出ていくのは、お前らだ!」
「フランスへ帰れ!」
「帰れ!ここから出ていけ!」
再び勢いづいた彼らは、斧と刀を振り回し、石を投げ、フランス軍の兵士たちに襲い掛かる。
トゥアールの顔が歪んだ。何もかもが予定と違う。ここまで梃子摺るとは予想もしていなかった。
その時、民の誰かが投げた石が、トゥアールの鼻を直撃した。決して大きな石ではなかったが、痛みにトゥアールはよろけた。鼻血が、ついと流れてくる。途端に、彼の中で何かが切れた。
「馬鹿に…馬鹿にしおって…!この蛮族どもが!」
トゥアールはまずペールを後ろから思い切り蹴った。「とんだ役立たずめ!」
再び、トゥアールは銃を空に向かって撃つ。
「我がフランスの兵士たちよ、原住民たちを撃ち殺せ!どんどん撃て!撃て!撃て!連中を皆殺しにしろ!遠慮することなぞない!」
「じゅ、銃を使うのですか?」
トゥアールの側近が慌てて彼を見上げた。「それは、本国政府からもくれぐれも慎重にと…」
「馬鹿を言うな!やらねばやられる!今、躊躇しては我らは皮を剥がされて、さらし首になるぞ!」
トゥアールの言葉に、兵士たちは恐れおののいた。この民たちの熱狂ぶりでは、本当にそうされるのかもしれない。
誰かが放った銃声が響いた。それを合図に、あちこちの銃口が火を噴き、闇を照らした。
いくら島を代表する屈強な若者たちと言えども、訓練された兵と銃弾の前には無敵ではいられない。あちこちで血飛沫が飛び、断末魔の悲鳴が響いた。暗闇の中、敵も味方も混沌とした中で、殺し合いが繰り広げられる。
「ふはははははは!」
篝火に照らされ、トゥアールは狂ったように笑った。自分をコケにした南の島の「蛮族」どもに目にものを見せてやらねばならぬ。分を弁えさせねばならぬ。
彼は銃を構えると、手当たり次第に次々と撃ちまくった。
つき倒されたペールは震えながらシダの茂みの中に隠れていた。彼を捕まえていたトゥアールの部下たちも今や神父の存在など忘れ、狂気の宴の中に突入していた。まるで狩を楽しむかのように、民たちに向かって銃を乱射している。
民たちは果敢に抵抗した。だが、形勢が不利になっていくにつれ、他の島から来た者たちは次々と海へ向かう階段を駆け下り、カヌーへと飛び乗って逃げ始めていた。
今や、マラエに残っているのは、もともとのこの島の住民たちぐらいだ。
ペールはノアノアを探した。彼が先刻までいた祭壇は、今や混沌とした血みどろの闘いの場になっていた。だが、炎に照らされて殴り合い、斬り合う男たちの中にノアノアの姿は見えない。
ペールは、草むらに倒れている絶命した者たちの顔を手当たり次第確かめた。だが、そこにもノアノアらしき面影はない。
ノアノアは、どこかに隠れているはずだ。自分と同じように。このやまない銃声を避けて。闘いなど好まない子だ。そう育てたのは、他ならぬ自分だ。
その時、銃声に混じって遠雷の音がした。湿気の匂いが近付いてくる。
スコールだ。もうすぐやって来るはずだ。ペールは顔を上げた。星たちは今や雲にかき消されていた。
カッ、と周囲が光った。と同時に、耳をつんざく雷の音。周囲が、脱色されたように真っ白になる。
その時、稲光はペールからさほど遠くないソテツの木の陰にいた男を照らし出した。一瞬ではあったが、神のような屈強でしなやかな筋肉に覆われた肉体は、他の誰でもない。
ノアノア!生きていた!
ペールはノアノアの名を叫ぼうとした。湧き上がる喜びと愛しさ。だが、猿轡がそれを許さない。
(ノアノア、ノアノア!神よ、神よ、感謝します!)
ペールはもごもごと叫ぶ。
だが同時に、トゥアールが銃を構えて獲物を探しているのが見えた。ノアノアには気付いていないようだ。
ノアノアはといえば、ペールを探していた。銃弾が飛ぶ混乱に乗じて、ノアノアはビンセントとヨテファを振り切り、祭壇を駆け下りていたのだ。銃弾を避けながら、ノアノアは手探りでここまで来た。この辺りに、ペールはいたはずだ、と。だが、雷光の直後では闇に目が効かない。
再び、轟音とともに稲光が周囲を染めた。
その中で、ペールは見た。茂みの中にいた誰かがノアノアの背を押し、トゥアールの眼前に突き飛ばすのを。まるで、猛獣に餌を投げ与えるかのように。
突き飛ばした者の指に光る、大きな黒真珠。
…イエテ様?
ペールは一瞬、目を疑った。なぜ、かつての王の弟が、ノアノアをフランス軍に差し出す?
突然の「贈り物」にトゥアールは狂喜した。
「出てきたな!愚民の王!」
トゥアールは目の前に倒れ込んだノアノアの眉間に銃を当てた。ノアノアの目がキッとトゥアールを睨む。だが、彼の手には何の武器も無い。
トゥアールの指がゆっくりと引き金を動かそうとする。
その時、再び稲光がマラエを襲った。真っ白な光の中、トゥアールとノアノアのシルエットが、ペールの目に焼きつく。
ペールの脳裏に、再び遠い昔の記憶が蘇ってきた。
冬の嵐。稲光。突然に襲ってきた軍隊。放たれる炎。燃える家。悲鳴。銃声。肉が、命が剣で断ち切られる音。冷たい雨。温かな溢れる血。
それは、繰り返し夢に見る、故郷の村の光景だった。白い閃光が映し出すのは、大きな男が母の額に銃を向けている姿。引き金にかかった指が、ゆっくりと動く。
ペールは叫ぼうとした。だが、叫べない。幼いペールは恐怖で叫べなかった。そして今現在のペールは、猿轡で声が封じられていた。
……殺せ!お前を踏みつける者すべてを殺せ!……
どこからか声がした。
ペールは体の一部が燃えるように熱くなっているのを感じた。ポケットの中の緑の石だ。石が熱く燃え上がり、叫んでいる。叫べないペールの代わりに。
……殺せ!すべてを壊せ!お前の大切なものを壊す者たちは……
(そうだ。殺せ…!)
石の声に応えるように、目の前に刀が見えた。島の男たちが落としたらしい武器だ。鈍く光っている。小ぶりな、けれど鋭利な刃。
ペールはそれを縛られた両手で握ると、何の迷いもなくトゥアールに向かって走っていった。