輝く星の胸飾り
日は沈み、闇の中で星が一つ、また一つと瞬き始める。今宵は新月、闇はひときわ青く、深い。
森のはるか奥から微かにトッエレの音が響き始める。最初は一つの音だけ。だが次第に、幾つもの音が重なり、木霊のように満ちる。それはやがて遠雷のように周囲の鬱蒼とした森に轟く。
古い神々の記憶が残るマラエ。今、この聖なる地には、遠い昔の繁栄を取り戻したかのように人々が集まり始めていた。ジャングルの細い道を黙々と歩いて来る人々もいた。他の島からやって来た一行は海にカヌーを停留させ、絶壁の海岸からマラエへと通じる階段を上っていた。
篝火が赤々と燃やされ、数百人にも膨れ上がった観客が祭壇を囲む。
彼らは待っている。今宵、何かが起きると信じて。待ち望んでいた、何かが。
風のようなヴィヴォの音が、トッエレに混じる。
数十人の男女の歌声も加わり、熱帯の濃い空気をうねらせる。力強い地声と軽やかな裏声を交互に掛け合い、太古の神々を復活させるかのように恋の歌を交し合う。
その時、一羽の夜鳴き鳥が森から飛び出し、悲鳴のような声を上げた。唐突に魔法のような時間が破られ、すべての音が消える。
耳の奥が痛くなるほどの沈黙。
ティアレの花の香りが漂ってきた。幾千もの花を煮詰めて、野性の獣に飲ませたような濃厚な甘い香り。
その時、篝火に照らされた舞台に一人の男が飛び出し、仁王立ちした。人々に背を向けているが、赤銅色の筋肉に覆われたその背中は…。
「ノアノアだ!」
誰かが歓声を上げた。
シダの葉に覆われたしなやかな腰。香油をまとって輝く、匂い立つような若い肢体。神に愛された体、いや、神そのものの体。ノアノア以外の誰でもなかった。
彼の腕が天に向かって高く上げられた。途端に、トッエレが再び激しく、早く打ち鳴らされる。
ノアノアの体が跳んだ。
猛禽類のような大きな跳躍で正面に向き直ると、早いテンポに合わせ、体を揺らす。大地の鼓動そのままの、力強いリズム。ノアノアの膝頭が、目にも留まらないほど早く打ち合わせられる。
篝火の明かりを浴びて、ノアノアの目が光る。ココナツミルクのように真っ白な白目と、闇そのもののように沈む黒目。そして、その胸元は星のように瞬いていた。螺鈿を複雑に組み合わせた胸飾りが、鎧のように肩から胸を覆っている。無数の南洋の貝の皮膚をこそげ取って生まれたその飾りは、銀とも青とも紅ともつかぬ、硬質で高貴な光を放っていた。それは天上の星か、夜光虫で光る波のようだった。
誰もが言葉を失い、ノアノアの神のごとき肉体と、その胸飾りの美しさに見とれていた。
「あれは王家に伝わる胸飾りだ…。この国に代々伝わる、星の守りだ…」
隣の島からやって来た、年老いた長の一人が呟いた。
「王が帰ってきたのだ!」
その老人は感極まって叫んだ。熱に浮かされたように、彼は続ける。「王が、我らの王が、再び降臨したのだ!皆の者、聞け!耐える時代は終わったのだ。我らの王が帰ってきた。我らの時が再び来るのだ!」
しわがれたその声を合図に、集まっていた人々はノアノアに向かって跪き、頭を垂れた。
「我らが王!我らが王!」
「この国の真の主、王の降臨だ!」
「もはや、この国をヨーロッパ人どもの好きにはさせぬぞ!」
ウワアアア、と大きな歓声が巻き起こった。人々は狂ったように手を叩き、ノアノアを讃える言葉を叫ぶ。
だが、当のノアノアはひたすら踊り続けていた。周囲の喧騒など耳にも目にも入っていなかった。ただ激しく、トッエレに合わせて踊り続ける。跳躍するたびに、汗が背中や長い髪から飛び散る。
祭壇の正面に置かれた玉座には、かつての王の弟イエテが穏やかな顔で座っていた。いや一見、穏やかだが、笑顔は仮面のように強張って張り付いている。
予定では、イエテがノアノアに祭りの王の証であるシダの王冠を授け、そこで人々の歓声が上がるはずだった。だが、もはやそんな偽りの王冠などは必要なかった。イエテの権威など無くとも、ノアノアはすでに彼らの中で「王」になっていたのだ。彼らはノアノアだけを見、彼のために熱狂の声を上げる。誰もイエテなど見てはいない。
ノアノアは踊り続けた。いや、踊るのを止められなかった。
かつてない大切なヘイヴァゆえ、気持ちが高揚しているのは自分でも分かっていた。だが、それだけではない。いつもと何かが違っていた。
楽器の音がどんどん遠くなっていく。どこか別の空間に迷い込んだかのようだ。
胸飾りのせいだ。この、王家に伝わる、星の欠片を集めたような胸飾り。この胸飾りが踊らせるのだ。
誰かの気配が、背後にあるのをノアノアは感じた。
赤い目がじっと胸飾りを見ている。岩のように大きな気配。
赤い目?まさか、呪いのティキか?
だが、背後には誰もいない。何も無い。
<やっと見つけた。それは、その胸飾りはわらわの宝ぞえ>
ノアノアの頭の中で声がする。雷鳴のような低い声。
<その胸飾り、炎にくべよ。わらわに捧げよ。おぬしの舞とともに>
ノアノアは踊りながら、天空を見た。
はるか頭上の闇に、真っ黒な影が見えた。それは、伝説で聞く竜のようだった。
ノアノアの踊りは終わらない。打ち合わせの時間をとうに過ぎても、何かに憑かれたようにノアノアは踊りを止めない。
「私の出番は、なかなか来ぬな」
イエテは笑顔を張り付かせたまま、指を組んで眉間を押さえて言った。笑ってはいるが、左手の薬指に嵌められた黒真珠が小刻みに震え、怒りを隠しきれない。
「イ、イエテ様、申し訳ありません。ノアノアが調子に乗って…」
ノアノアの仲間である年長のヨテファが、真っ青になって頭を下げた。イエテが何かを言おうとしたその時、
「いいじゃないか」
口を挟んだのは、イエテの後ろに控えていたビンセントだった。スケッチブックを持っているが、描いている気配はない。
「おや、画家先生はちっとも描いていないようだ」
イエテが片頬を引き攣らせて言う。
「当たり前でしょう。目を離すのさえもったいない」
勿体付けてビンセントは言う。「ノアノアは今、神に舞を捧げ、神によって踊らされているんだ。それを止めてはいけない。神に選ばれた踊り手とは、そういうものでしょう?ほら、御覧なさい。イエテ様が授けた胸飾りと相まって、なんと輝かしい光景か」
「それは、私の胸飾りのおかげということか?」
「もちろん。あれなくして、この盛り上がりはないでしょうよ」
ビンセントの言葉に、イエテは少し機嫌を良くした。
「ならば、今しばしノアノアの独り舞台を見ているとするか」
「もちろん」
ビンセントは頷くと、再びノアノアを食い入るように見詰めた。
(まさにノアノアは虹色の星をまとって踊る神だ。彼は天であり、海であり…)
だが、ビンセントは少し不満を感じた。何かが足りない。彼の頭の中のキャンバスに、何かの色彩が欠けている。
そして彼は思い至った。緑が、無いのだ。
(あの石だ。あの緑の瞳のような「王の涙」。深い森のような色の石。ノアノアはあれをつけるべきだ。胸飾りの上に。あの石さえあれば、ノアノアは天であり、海であり、森であり、この楽園のすべてになる)
ビンセントは眉を寄せた。
(そういえば、あの石は、どこに行った?なぜノアノアは身につけていない?)
一方、イエテの機嫌が良くなったことで、ヨテファはホッと胸を撫で下ろし、顔を上げた。
「イエテ様、広い御心に感謝申し上げます」
「良いのだ、ヨテファよ、予定通りになっただけのこと。そう、予定通りに…」
イエテの目が一瞬、つい、とジャングルの茂みの中を見た。そして、謎めいた笑みを浮かべた。
茂みには、トゥアール提督をはじめフランス軍の精鋭部隊数十人が身を潜めていた。
その中には、両手を縛られ、猿轡をされたペールの姿もあった。
トゥアールはニタリと笑うと、ペールの耳元で囁く。
「神父殿、これからが祝祭の本番ですよ」
トゥアールはおもむろに立ち上がると、空に向けて銃を一発撃った。
「動くな!ここにいる者たちは皆、フランス国家への反逆罪で逮捕する!」
同時に、茂みに隠れていたフランス軍の兵士たちが一斉にマラエに踏み込んだ。