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花咲くマラエ  作者: 秋主雅歌
10/14

祭りの贄

 ヘイヴァ(祭り)が近付き、島の人々の熱気は今や沸騰寸前になっていた。

 だが、誰も表立ってヘイヴァのことは話さない。もちろん開催を告げるお触れ書きなども無い。フランスから来た役人たちに気付かれぬよう、人々の口から口へとひそやかに伝わっているのだ。

 …新月の夜にマラエに集まれ。そこで我らが王の降臨を見るだろう…


 丘の上の教会は、夜ともなれば、しんと静まり返る。

 ペールは礼拝堂の奥にある自室で、荷作りをしていた。フランスに帰る船は、一週間後にやって来る。本来ならば引き継ぎをしなければならないが、さすがに急過ぎて後任はいまだ決まらなかった。しばらく無人となる教会のあれこれを信心深い住民らに伝えていたら、あっと言う間に月日が流れてしまった。

 ずっと後回しにしてきた自分の荷物の整理に、やっとペールは着手した。

 身の回りの物など、ほとんど無いと思っていた。

 けれど、棚の整理を始めたペールは苦笑せざるを得なかった。

 棚の奥からは、ノアノアがまだこの教会で暮らしていたころに使っていた皿やスプーンが大事そうに布に包まれて出てきた。机の横の衣類入れには、幼いノアノアが着ていた礼拝用の白い上着が何着も保管されていた。小さな木箱に入っていた物は、まさに笑うしかなかった。ノアノアが持ってきた、正体の分からない植物の種やハートの形をした珍しい葉、虹色の貝、白色の石。彼が捧げてくれた、名も無い美しい物たちを、ペールはずっと捨てられずにいたのだった。

 その一つ一つを、ペールを押し抱くように額に捧げた。

 出会った時、ノアノアはまだ八歳だった。両親を失い、教会に預けられた子供。いたいけな少年はやがて美しい若者になった。今年のはじめ、教会から巣立って自立した生活をするよう勧めたのは、彼が成長したからだけではない。全身全霊で無償の愛を捧げてきたつもりだったのに、いつか罪を犯してしまう予感がペールの中にあったからだ。そして、それはその通りになってしまった。

 罪を十分に自覚しながらも、それでも、ノアノアにいつか、また会いたいとペールは願っていた。

 (またノアノアと会いたい。彼と一つになりたいと願う、この嵐のような欲望が身中から去った暁に。年を重ねたならば、何もかもが漂白されたように振り返れる時がきっと来るはずだ。ともに白髪になり、老いたその時に、再び会いたい。命が果てる直前に)

(それで、いい)

(そうしなければ、いけない)

 ペールは大きく息を吐いた。もう決めたのだ。後戻りはできない。

 再び荷作りの手を進めていると、机の中から布が出てきた。中を見ると、あの緑の石があった。

「ノアノアの…」

 ノアノアがビンセントからもらったという石だ。「王の涙」とかいう。海よりも深い緑をしているが、中に何か赤黒い塊が見える。人の目玉のような石。美しいというべきか、禍々しいというべきか。いずれにせよ目が離せない。

(これはノアノアに返さなければ。いや、ビンセントの方がいいのだろうか)

 何気なく手に乗せると、石は急に熱くなった。

 再び、石が熱を放ち始めたのだ。やはりこの間のことは気のせいではなかったのだ。

 ペールは慌ててその石を手離そうとした。が、もう遅い。石はまるで彼の掌に張り付いたように離れない。

 どこからか声がする。


 …すべてを、壊せ…

 …破壊しろ…殺してしまえ…

 …お前を、踏みつける者たちを…


 目の前で、蝋燭の炎が風も無いのに揺らぐ。ペールは思った。

(これは、夢だ。夢を見ているのだ)

(早く目覚めなければ!主よ!主よ!主よ!)

 ペールは手を伸ばして十字架を探した。が、そこはもうペールの部屋ではない。


 荒野にペールは立っていた。

 冬だった。冷たい霙が降っていた。

 夢だと、幻覚だとペールは気付いていた。夢だと分かっているのに、その夢から逃れる術がない。そして、この場所の、この光景は知っている。

 ここは…私の故郷の村だ。

 思い出してはいけない。もう見てはいけない。

 けれど、すべて覚えている。私の家も、隣人の家も、すべて焼かれた。そして皆、殺された。

 ああ、掌が焼けるように熱い。重い。そうだ、あの緑の石を持っているからだ。手離さなければ。

 ふと自分の手を見て、ペールは愕然とした。

 持っているのは、石ではなく剣だった。血まみれの。血が固まって、剣を離せない。

 そして、ペールは振り返った。霙の道に倒れているのは、愛する母や兄、隣人たちだけではなかった。見知らぬ兵士たちもまた、首をかき切られ、腹をえぐられ、事切れていた。生きている者は自分以外にいない。

 誰が、殺したのだ?

「神様!神様!助けて!神様!」

 そう叫んだ、記憶はある。そう叫んで自分が振り下ろしたのは…剣だ。

「お前たちが、悪いんだ!」

 私のせいじゃない。神様が手を下さないから、私が。

 そうだ。そうやって…殺したのだ。「敵」という名の見知らぬ者たちを。何の躊躇いもなく。

 …すべてを壊せ…

 …お前を踏み躙る者たち、すべてを…殺せ…

 手の中で、石の声がした。

 あの時の自分と同じ、声。まるで、世界中の狂気が乗り移ったかのような時間が蘇る。

「主よ…」

 ペールの口が、祈りの言葉を呟く。

 だからこそ、私は神の道に入ったのだ。再びあの声に耳を傾けぬために。


 礼拝堂の扉を荒々しく叩く音がして、ペールは我に返った。

 目の前にあるのは、いつもの自分の部屋だ。凍てついた故郷の村ではない。ペールはホッと息をついた。悪夢から戻ってきたのだ。

 だが、扉を叩く音はやまない。苛立ちが滲んでいる。

 ペールは慌てて石をポケットに入れると、急いで扉へと向かった。

「すみません、遅くなり…」

 ペールが扉を開けると、目の前に笑顔の形の仮面が浮いていた。ペールはギョッとして一歩後ずさった。

 だが礼拝堂の明かりでよく見ると、そこにいたのは完璧な笑顔を浮かべた欧米の男だった。五十代くらいで恰幅のよい中肉中背。提督のトゥアールだった。

「夜分遅く申し訳ない、神父殿」

 供も連れず、普段着で夜更けに訪れたトゥアールを訝しく思いながらも、ペールは恭しく一礼した。

「い、いいえ、大丈夫です。いつでも神への扉は開かれております。ですが、提督様、このような遅い時間に、何かお急ぎのご用件でも?」

「神父殿が本国へ戻られるとうかがったもので」

「はい、来週の船で。提督様までご存知でしたか…」

「勿論ですとも。今日はそのねぎらいも兼ねて参上したのです。昼間はなかなか時間が取れないもので。神父殿はお若いのに、このような野蛮な地で十年も過ごされたとか。さぞやご苦労も多かったことでしょう」

「…いえ、苦労など。ここは美しい島ですから」

 トゥアールは鼻で笑った。

「私もじきに、この蛮族の地から解放され、本国へと帰れることでしょう。とびきりの手柄とともに」

「手柄?」

「そうです。聞くところによると、今夜、島の蛮族どもが野蛮な儀式、ヘイヴァとやらを計画しているらしいのです。その輩どもを捕らえるのですよ」

 ペールの体がビクリ、と震えた。ノアノアたちの開くヘイヴァが、ついに提督の耳にも入ったのか。

「…ヘイヴァは、…ただの祭り、です。提督様の手を煩わせるようなものでは」

 努めて、平静を装いながらペールは言葉を返す。トゥアールは穏やかな笑みを崩さずに頷く。

「別に我々は野蛮な儀式を行うこと自体を、咎めだてする気は無いのですよ。下等な民が低俗な振る舞いに興じるだけのことならば。だが、このヘイヴァの首謀者は、どうやら王を名乗り、この島に君臨するつもりらしいのです。暴動を起こし、フランスから主権を奪い返そうとの企みで」

「そんな大げさな…」

「いいえ、大げさではありません。その首謀者の名は、タラトア。通称ノアノアという男らしいのですが、神父様はご存知ですかな?」

「ノ、ノアノアが?」

 思わず、ペールは叫んだ。トゥアールはニヤリと目を鈍く光らせる。

「やはり神父様は、反乱の首謀者をご存知なのですな」

「ノアノアのことは、私が一番よく知っております。提督殿は誤解しておられます。彼は幼いころ、この教会で暮らしていたのです。神の教えとともに育った、真面目で誠実なただの漁師の若者です。王になろうと反乱を企てるなど、とんでもない!そんな欲なぞ、生まれてこの方、あの子は持ったことはありません!」

「教会で育った?それではさぞ彼は信心深いのでしょうな。今も朝晩の祈りも欠かさず?」

「…それは…」

 ペールは口ごもった。神の言葉を教えてきたはずなのに、いつしかノアノアの心はペールの神から離れていった。二人がはぐくんでしまった想いを認めない神などおかしい、と。そして、ノアノアは呼吸するように自然に、この島の神に心を寄せていったのだ…。

「ほう、ノアノアとやらは、神には従ってはいなかったのですな。ということはフランスへの恭順も怪しいものだ」

「で、ですが、彼の口から反乱など聞いたこともありません。ノアノアは、ただの踊りが好きな若者です」

「やはり神父殿はよく彼をご存知だ」

 トゥアールは目を細めた。その途端、今まで見せていた温厚な笑顔が仮面のように消え、代わりに口の端が恐ろしく上がった残忍な笑みが現れた。

「提督様…」

 トゥアールはゆったりと一つ指を鳴らした。途端に、闇に覆われたティアレの木の影から軍服の男たち数人が現れ、礼拝堂の中に踏み込むと、ペールを羽交い締めにした。

「な、何を…!」

「フランチェスコ会の神父ペール・デズモンド。お前を現地人の武装蜂起幇助の罪で逮捕する」

 重々しくトゥアールが宣言する。

「ええ?」

「神よ、お許しを」

 わざとらしくトゥアールは言うと、大げさに十字を切った。

 すると、ペールの腕を男たちはギリギリと締め上げた。痛みにペールの顔が歪む。

「提督様!どういうことですか、これは」

「なに、安心してください。神父殿を傷つけるつもりはありません。あなたはつまり、餌ですよ。ヘイヴァの首謀者を捕らえるための」

「ノアノアを捕らえる…?」

「神父殿、今夜はともにヘイヴァに参りましょう。あなたがいれば、ノアノアは簡単に投降するでしょう。私も手を汚さずに首謀者を捕らえることができる。フランス政府への最高のみやげです」

「私なぞを捕らえても、ノアノアは言いなりにはなりません!」

「いえいえ、ご謙遜を。ノアノアはあなたのためならば、どんなことでもすると聞いていますよ。愛しいあなたのためならば」

 トゥアールは「愛しい」の部分をわざと、強調して言った。ペールの頬が燃えるように赤くなる。

「…提督様…、あなたは一体何を…」

 トゥアールは残忍な笑顔を浮かべたまま、鷹揚に頷いた。

「私の手元には、ちょっとした『犬』たちがおりましてね。彼らが楽しい話も、聞きたくない話も皆、私に吹き込んでくれるのですよ。ま、私は神父殿と野蛮な祭りの首謀者との間に何があったかなんて、まったく興味はありません。そのような神を恐れぬ所業を、神父ともあろう方が行うはずもないでしょうしね。いや、行っていたとしたら、それは大変な問題になりましょう」

 今やペールの顔は紙のように青褪め、紫色の唇が小刻みに震えていた。両手の自由を奪われているペールは、蚊の鳴くような声で、やっと言葉を絞り出した。

「…ノアノアは、どうなるのですか?」

「何と言っても彼はフランス国家への反逆者です。本国政府の考えにもよるが、処刑されるか、もしくは罪人としてフランスへ移送されるかでしょうな」

「ノアノアは何もしていません!何も知らないはずです…」

「ほう、そうですか。ですが、私にはそんなことは何の関係もありません。重要なのは、彼がこの国の王になるという噂が人心を惑わしていること。そして彼を捕らえたならば、私はその功績でフランスに帰れること。それだけです。あとは神父殿、あなたのお好きになさればいい。首謀者を助けようと、陥れようと、あなた次第です」

 トゥアールはペールの顎を指で上向かせた。「美しい神父殿、あなたはこのヘイヴァの贄なのですよ。さあ、神父殿をマラエへお連れしろ!」

「はっ!」

 男たちはペールの両脇を抱えると、教会から引きずり出した。ペールは十字架とポケットの中の緑の石以外何も持てないまま、引っ立てられて闇へと消えていった。



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