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花咲くマラエ  作者: 秋主雅歌
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海のノアノア

第四門で消えたるは 輝く星の胸飾り


 珊瑚礁の海は灼熱の太陽に愛でられ、華やぐ緑色に染まっていた。

 美しき珊瑚虫の死骸たちによって造られた白い島は、どこまでも透明な遠浅の海に囲まれ、さまざまな色の緑の水をその腕に抱え込んでいる。そして、珊瑚礁の彼方には底が見えない深い青の大海原。海と空の境界線は見えず、両者とも力比べをするように深い青に覆われている。

 朝の光は、一日で一番砂浜を美しく見せる。海から吹く風は、ひんやりとした夜の冷気を僅かに残し、心地よく髪の間をすり抜けていく。

 一人のポリネシアンの青年が、魚でいっぱいになった籠を背負い、風と戯れるように白い海岸を歩いていた。

 背は高く、がっしりとした体つきをしているが、まだ顔立ちに少年の名残を残している。青年が身にまとうのは白いズボン一枚。裸の上半身は日に焼けて赤銅色に輝き、その肌にはさまざまな幾何学模様の刺青が施され、しっかりとした骨格や引き締まった腰を際立たせる。背中まで伸びた波打つ黒髪は後ろで一本に束ねられ、大きな瞳は髪と同じつややかな黒。濃い睫がその周囲を縁取っている。

 青年の名は、タラトアと言った。だが、彼のことを誰もが「ノアノア」と呼ぶ。

 ノアノア、その意味は「馥郁たる香り」。

 彼からは、常にえもいわれぬ甘い香りが漂ってくるからだ。耳元に差した純白のティアレの蕾のためだけではない。彼の体が、咲き誇る花のような香りを放つのだ。彼は、色鮮やかな南国の花そのものだった。強い光を宿す黒い瞳は原始的な生命力をたたえ、常に歌を口ずさむ唇は滑らかで厚く、情熱があふれるようだ。

 ノアノアの背負った籠には、虹色に輝く魚でいっぱいだった。若き漁師である彼は、朝の漁を終え、市場にやって来たのだ。

 市場はノアノアのような漁師たちで賑わっていたが、同じような若者たちの中にあっても、ノアノアの姿は一際目立つ。

「ノアノアが来たぞ!」

 見かけた人たちは皆、嬉しそうに彼に声を掛け、ノアノアもまた、太陽のように眩しい笑顔で応える。

 ノアノアが籠を降ろすと、太った気の良さそうな中年の男が近寄ってきた。市場の馴染みの仲買人であるツオマだ。

「ノアノア、今日は大漁だな」

「ああ、嵐の後だからな」

 ツオマは籠の中の魚を受け取ると、ノアノアに金を渡した。そして大きな魚を二匹、ノアノアに渡す。

「ノアノア、これはお前の分だ」

「多すぎるよ、ツオマ」

「なに、余ったら、あの神父様に渡せばいいさ」

「…神父様か」

 ノアノアの顔が歪んだ。だがツオマは構わず魚を押し付ける。

「何だ、その顔は。確かにあのお説教は勘弁してほしいものだが、お前を育ててくれた恩を忘れちゃいかん。それにな、宣教師に良くしてやると、天国とやらに行けるって言うぜ」

「天国か…。確かにな」

 ノアノアは片頬で笑うと、仕方なく藁でくくった大きな虹色の魚二匹を受け取った。

 魚売り場の裏には、やや高級な布を張ったテントがあり、赤や桃色の珊瑚や、黒真珠をはじめとする色鮮やかな石を商っていた。ノアノアは見るとはなしに、石を覗き込んだ。だが、きらきらと光る石たちの中には、彼の心を捉えるものはなかった。

「欲しいものは無かったのかい?」

 フランス語で声を掛けられ、ノアノアは振り返った。

 そこには、浮浪者のような痩せた欧米人が立っていた。四十代くらいだろうか。背ばかり高く、赤毛の無精ひげで見苦しく顎は埋まっている。手足は長く痩せ細り、まるで蛙のようだ。落ち窪んだ灰色の目だけが、飢えたようにギラギラと光っている。

 ノアノアは男を一瞥すると、若者らしい残酷さで汚いものでも見るかのように顔をしかめ、ついとそっぽを向いて歩き出した。

 男はついてきた。

「待っておくれ、楽園のアダム」

 ノアノアは耳も貸さずに歩いていく。だが、男はなおも追いすがる。

「君にあげたいものがあるんだ。そのために海の果てからやってきた」

 男の言葉を無視して、ノアノアはひたすら歩く。

「待ってくれ。フランス語、分かるんだろう?君が気に入りそうな石を、俺は持っている。君につけて欲しいと言っている石があるんだ。ほら」

 男は強引にノアノアの腕を掴むと、その目の前でもう一方の手の平を開いた。その中から現れたのは、珊瑚礁の海の色をそのまま形にしたような、深い緑色をした丸い石だった。だが、その中に何か赤黒いものが見える。まるで卵か、人の目玉のようだ。それが濡れたようになめらかに輝いている。ゾッとするほど、美しい石。

 一瞬で、ノアノアは目を奪われた。

「綺麗だ…」

「フランス語、やはり分かるんだな。この石は『王の涙』と呼ばれている」

「フランス語は神父に習った。でも、王様なら大分前に死んだ。もうこの島には王様はいない」

「この島の王様という意味じゃないよ。この石は、たくさんの王に仕えていたんだ。遠い砂の果ての国で幾百の矢を受けて死んだ王や、雪に覆われた国で目の前で愛する人を亡くした王。そうした数多の王の涙で、この石は出来ている」

「いや、違う。こんな綺麗な石は、この島の海で生まれたはずだ。そうに決まっている」

 石に目を奪われたまま、きっぱりとノアノアは言った。男は否定するかと思いきや、素直に頷いた。

「どちらでもいいさ。これは君のものだから」

「どういうことだ?」

「この石は、持つべき主が近付くと、震え、燃えるような熱を持つという。そんな迷信は半信半疑だったが、君が現れた時、この石が熱く息づいたように感じた。だから、これは君のものだ」

 そう言って、男は再び石をノアノアの前に近づける。「ほら、今も熱く震えている。君に会えて良かったと…」

 ノアノアは怪訝な顔で男を見た。けれど好奇心には勝てず、その石に手を伸ばした。だが、すぐにガッカリした。熱くなんてない。

「あんたの体温で熱くなっただけじゃないか」

「…そうかもしれないな」

 男はニヤリと笑う。

 ノアノアは男と、石を見比べた。胡散臭い男だが、石は妖しく美しい。

「…くれるって言うなら、もらうぞ。でも、涙の石ってのは、あまり縁起が良くない。俺は泣きたくなんかない」

「だが、君は石に選ばれたのだ。仕方がない」

 うっとりと呟く男を、ノアノアは不審そうに見たが、考えたところで仕方がない。

「何だかよく分からないけど、これだけ綺麗な石なら、まあ、いいや。本当にもらうぞ」

「勿論、そうしてくれると光栄だ。ええっと…。ああ、楽園のアダム、君は何て言うんだい?」

「タラトア。だが、皆、ノアノアと呼ぶ」

「ノアノア…。『馥郁たる香り』か。なるほど、君からは確かに…誘惑の匂いがする」

 男の声は低く、ノアノアはよく聞き取れなかった。

「ヨーロッパ人、あんたは何と言うんだ?」

「ビンセント」

 ノアノアはビンセントの瞳をまじまじと見た。灰色のそれは、全てを諦めたようでありながら、なおかつ何かを求めてやまないように血走り、底光りしている。

「ビンセント、あんたは何をしに来た?」

「絵を描きに来た」

 ビンセントは答えた。彼は今朝、船でこの港に着いたばかりだった。

 生まれたのは、寒いばかりでジャガイモしか採れない北の国。昔から絵がうまいと褒められ、その気になって芸術の中心地パリに出た。だが、かの地では彼はまったく相手にされなかった。パリの重苦しい空を捨て、長い放浪の末にマルセイユを出港したのがいつだったのか、もう彼は覚えてもいない。その旅の途中で、ある商人からこの緑の石を手に入れた。

 美しい石だった。見たこともないくらい、深い緑をした石。

 この石のような海を描きたい。

 だが、石の真の持ち主は、自分ではないとビンセントは最初から感じていた。

 ならば、誰かにこの石を捧げたい。それは男か女か、老婆か若者か、王か乞食か。石が選ぶという伝説が本当ならば、この石の真の持ち主に会いたい。

 憑かれたようにビンセントは赤道を越え、南回帰線の下までやってきた。南太平洋のタヒチ島パペーテの港から、さらに一日半船に乗ってたどり着く、ここ、マンサレアという名の小さな島に。

「絵描きなのか?」

 ノアノアは珍しそうに問う。

「まあ、そんなところだ」

 ビンセントは片頬を歪めて答えた。絵は一枚も売れていないが。

「どんな絵を描くんだ?」

「美しい、絵だ。そう、俺は美しい絵が描きたい」

 ビンセントの目が、飢えた獣ように鈍く、物狂おしく光る。

 一体、いつになったら納得のいく絵が描けるのか。それとも一生、描けないのか。

「美しい絵なら神父も描いている」

「神父?教会があるのか?」

「案内してやるよ。同じ国の奴が来たら、あいつの気も晴れるだろう」

 ノアノアはそう言うと、ビンセントについて来るよう目で合図した。



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