第五話:草葉の陰で
「ふう、ふう・・・」
俺は苦しい息を殺して、隠れている木の陰から顔を出した。
慎重に辺りを見回し、危険なものが無いか確認する。
よし・・・何もいないな。
「ふっ!」
思い切って、木陰から飛び出す。
全力ダッシュで森を駆け、次に身を隠せる巨木の場所まで一気に走る。
木と木の間の距離は20mも無いのだが、その間の俺の心境は、弾丸飛び交う戦場を駆ける一兵卒の如しだった。
回転せよ、俺の脚!火を噴くまで~ッ!
「だあっ!」
そしてまた、次の木陰にすべりこんだ。
巨木の根元にある茂みの中に身を隠し、息を整える。
「は―――っ、は―――っ」
し、しんど!
いい加減、限界が近くなってきた・・・
転生した草地で巨大なゴリラに襲われてから、かれこれ2時間余りが経過している。
その間、俺は木々の合間に隠れながら、こんな感じの本意気タッチアンドゴーを繰り返していた。
正直きつい。
でもこれくらい慎重じゃないと、マジでこの森、何が出てくるか分からないもんな・・・
俺は絶対に魔物に見つからないよう、慎重に慎重を重ねて森の中を進んでいる。
俺を襲ってきたゴリラの魔物は、早くもトラウマと化していた。
もう二度と、あんなバケモノに出くわすのはごめんだ。
このまま隠れながら進んで、絶対にこの森から逃げ切ってやる!
そう思い、次の木陰まで走るために立ち上がろうとする。
だがすでに2時間以上全力で走り続けている俺の脚は、もうなかなか言うことを聞いてくれなかった。
一秒でも早く脱出したいが、あとどのくらいこの森が続いているのかも分からない。
俺は体力回復のため、仕方なく小休止に入ることにした。
「はあ~~~~~~っ」
疲れた・・・
この新しい身体は相当タフみたいだけど、こんだけ酷使すればそりゃ限界も迎えるか。
足を伸ばしてストレッチする。
相当疲れが溜まっているけど、まだ頑張ってもらわねば。
腿やふくらはぎをマッサージして回復させながら、俺は2時間前に起こったことについて考えた。
結局、分からずじまいになっているからだ。
俺を襲ってきたゴリラを倒した、巨大な火の玉。
あれを出したのは、誰だったのか。
できれば俺がこの異世界に来た最初、一瞬だけ見かけた謎の少女―――“天使”がやったんだと、思いたいんだけど。
でも結局、その姿はあれから一度も確認できていない。そもそも、彼女が本当に実在しているのかどうかさえはっきりしないのだ。
俺が天使を見たのは転生直後の一回きり。しかも見たと思った途端、霞のようにその場から消え去ってしまった。とっさに隠れたとか、そんなことは絶対にできない状況だった。
実在してほしいとは思うけど、確証はない。哀しいかな、確証があるのはこの森に、デカくて凶暴なクソゴリラが生息しているってことだけだ。
あともう一つ、天使とは別の可能性として、あの火の玉がヨエルから渡された “力”の効果だったってことも考えられる。死にかける直前、俺はヨエルにあの魔物をやっつけてくれと心の中で呼びかけた。ギリギリだったけど、ひょっとしたらヨエルがそれに応えてくれたのかもしれない。ギリギリだったけど。
ただこちらも一応あの後検証してみたが、やっぱり自分の意志で火の玉を出したりすることはできなかった。結構本気で「ファイアボール!」とか叫んでみたんだけどね。あんなシーン誰かに見られてたら頓死するわ。結局検証は失敗し、あの火の玉がどこから来たのかは分からずじまいになってしまった。
いるかいないか分からない天使を当てにすることは出来ず、ヨエルの“力”も正体不明のまま。
魔物の森の真っただ中で、完全な丸腰状態。
俺が着ている皮鎧の腰には剣の鞘がぶら下がっていたけど、中身は空だったし。
仮に剣1本あったところで、あの4m級ゴリラをどうしろって話だし。
そんな訳で、俺はこうして魔物に見つからないよう、茂みの中に隠れながら森を進んでいる。もう2時間以上さ迷っているが、まだ出口らしきものは見つからない。果たしてこれが本当に出口に向かっているのか、現状ではそれすら分からないんだけどね・・・
クソ、ヨエルめ。
とんでもない所に人を送り込みやがって・・・
ズズン!!
「!?」
突然、辺りに地響きが轟いた。
俺は茂みの中で、慌てて身を屈める。
こ、今度は何だ!?
何の音だよ!?
草に陰れて息を殺し、耳を澄ませる。だがその地響きは一回きりで、その後は何の音も聞こえては来なかった。
何分か経った後・・・
俺は草むらから顔を出し、恨みがましくつぶやいた。
「まただ・・・何なんだよ、この音」
実はこんな地響きが聞こえてくるのは、これが初めてではなかった。この森を進んできた2時間の間に、似たような音が何度も何度も遠くの方から聞こえてきたのだ。
巨大な何かが、地面に崩れ落ちたような音。俺はそれが響いてくるたびに小さくなって身構えたが、結局何も起こらない。
そんなシャレにならないドッキリが、ひたすら繰り返されたのだ。
俺の神経はもう、大分すり減ってきていた。
いつ魔物が出てくるか分かんないような状況で、そんな音立てるの止めてもらっていいすかねえ!?
何なんだよ、一体。
まさか俺の心臓をショックで止めようとする、新手の魔物の攻撃か?ずいぶん回りくどい上に、陰湿なやり口だな。
でも悔しいけど、効果はてきめんだよ!再稼働して、まだちょっとしか経ってないんだ。デリケートなんだよ、俺の心臓は!
くそったれ!いい加減、こっちから音のしてる場所に乗り込んでやろうか。
こういうのは、正体が分からないからこそ恐ろしいんだ。いざ確かめてみたら、てんで弱っちい野郎の仕業でした!ってのは、アニメとかだとテンプレだしな。
・・・いや、やっぱ止めとこう。
あんな巨大な地響きの正体を確認するとか、そんな度胸は俺には無い。
なんせ今の俺は、剣一本持ってない完全な丸腰状態なんだ。レベル1のまま、ラスボス手前の森の中にすっ飛ばされたようなもんだからな。
とにかく今は、ここから抜け出すことだけを考えよう。人のいる場所にさえ辿り着けば、きっと何とかなるはずだ。
ヨエル曰く、出会う人間を間違えれば命に係わるらしいけど。
知らん。命の危機なら、すでに絶賛直面中だ。ここから逃げ出すことが、今の俺には何よりも重要なのだ。
はあ。もう一刻も早く、安全な場所に辿り着きたい。
ベッドの上に思いっきり倒れこみたい。
頼む、この森。もういい加減終わってくれ・・・
内心でぼやきつつ、重い足を上げてダッシュの準備に入る。
これ以上体力が無くなっては危険かも知れないが、他の選択肢など無い。
森の切れ間が見えてくることを天に祈りながら、俺はまた次の大木まで走った。
【語り部】
この世界に生きる私たちにとっては、信じがたいことではありますが・・・
リンドはこの時、生まれて初めて魔物というものを見たそうです。
「スライム?キマイラ?・・・いや、聞いたことはあるよ。はは・・・」
と言っていたので、リンドが住んでいた異世界にも魔物はいるのでしょうが、それを一度も見ること無く生活できるほど、リンドは平和で豊かな国からやって来たようなのです。
そう考えると、とても不憫です。
この大陸で魔物を見ないまま成人を迎えるなど、よほどの大貴族でもない限りは考えられませんからね。
ましてや人生最初に見た魔物がB級上位の〈シベラスコング〉だったことを考えると、この時リンドが抱えていた恐怖は相当なものだったことでしょう。
ですが私は同じ時、そんなリンドのすぐ近くにいました。
魔法で透明化して、近くの木陰に隠れていたのです。
恐怖を堪えて森を進むリンドの様子を、私はただ、草葉の陰から眺めているだけでした。
魔法で先回りして、近寄ってくる周辺の魔物を駆除しながら。
リンドにしてみればすぐにでも、すでに自分が安全な状況にあるということを知りたかったはずです。
しかしそんな彼の前に名乗り出ることが、この時の私にはどうしてもできませんでした。
色々と、抱えていた事情があったのは確かです。
ですが一番の原因は、心情的なものでした。
ここで少し、その様子をご覧ください。
これはリンドとの邂逅を果たした直後の、私自身の記憶です。
【Sideピコ ‐魔の森‐】
「ゴルルル・・・」
巨大な獅子の前足を地面に食い込ませ、その魔物は警戒態勢で唸り声を上げた。
腕は獅子。頭も獅子。だがその獅子の首の隣には、雄山羊の首もついている。
二股に生えた尾は、大蛇だった。大きく開いた2つの口が舌をちろつかせ、外敵の居場所を探ろうとせわしなく動いている。
首が2つに尾が2本。その全長は5mを超える巨体。
冒険者組合制定討伐難度A級の魔物〈キングキマイラ〉は、合計8つの眼を森の暗がりに凝らして私の居場所を探っていた。
しかし、見つかるはずもない。
私は今、【透明化】の魔法を使って姿を消しているんだから。
おそらくは蛇のしっぽが私の存在に感づいたんだろうけど、この距離であれば正確な位置まで特定することはできないはず。
私の詠唱を阻止できない時点で、勝負は決まったも同然だ。
「!?」
キングキマイラの8つの眼が、同時に真上を見上げる。
そこには私の作り出した、緑色の魔方陣が空中に描かれていた。
【風刃】!
魔方陣から放たれた風の刃が、キングキマイラの胴を両断する。
ズズン!という地響きを立て、2つに分かれた上半身と下半身が地面に崩れ落ちた。
「・・・・・・・」
それを見た私は―――
じゅるり、とよだれが出てくるのを感じた。
キングキマイラの背ロース・・・
極上の霜降りの乗った、最高級の魔物肉。
噛むたびに広がる深い旨みと、舌の上でとろけるような甘みのある脂のハーモニーは、半年に一度出会えるかどうかという、至高の・・・
――――はっ?
いけない、何考えてるの。
今はそれどころじゃない。
早く、彼のところに戻らなきゃ。
滅多に出会えない特上ステーキに後ろ髪を引かれつつも、私は次の魔法の詠唱を開始した。
ほどなく、透明化した私の前に薄紫色の魔方陣が現れる。
【転移】の魔方陣だ。
それをくぐって森の中を転移した先に、1人の青年の姿が見えた。
2時間ほど前、私の背後に突如として現れた謎の青年。彼は変わらず木の根元に隠れたまま、肩で息をしている。
・・・魔物に見つからないよう森を進んでいるってことは、よく分かるんだけど。
でもこの人は、一体どこに向かっているんだろう?
そっちに行っても森の深部に入るだけで、人間が欲しがるようなものなんて何も無いのに。
私は木陰に隠れたまま、もう一度彼についての考察を再開した。別に透明化しているから木に隠れる必要はないんだけど、なんとなくだ。
この人、一体何者なんだろう・・・
魔法とか全然使えない人だってのは、もう分かったんだけど。
でもそれならなぜ、この危険な魔の森に入ってきたの?
何より・・・
なぜ、【転移】の魔法で私の後ろに現れたの?
【転移】はこの大陸にも数えるほどしかない、特別な“力”の一つ。
その使い手は私を除けば、11年前に戦死したパパしかいなかったはず。
魔物に殺されかけたのに、魔力を溜める素振りも見せないこの人が、そんな最上位の魔法を使いこなせるはずはない。
きっと別の誰かが、彼をこの場所に送り込んだんだ。
でも、一体誰が・・・
彼は何のために、ここにやって来たんだろう?
何度も繰り返した疑問だけど、答えは見つけられない。
ただ自分以外にも【転移】の使い手がいたという事実は、私にとって非常に重要な問題だった。
何とかして、突き止めたい。
この人の事情が知りたい。
誰があなたをここに送ったの?
あなたの目的は?
知りたい・・・どうしても。
どうしよう、何かいい方法は・・・
<直接、本人に聞いてみればいいんじゃない?>
心の声がした。
「・・・・・・・・・」
だが私は、何も聞こえていないことにした。
・・・観察を続けよう。
このまま様子を見ていたら、彼の意図が何か分かるかもしれない。
<いや、無理だから>
<話を聞かなきゃ分かりっこないよ>
さっきから、心の声がうるさい。
私は集中して、彼の目的を読み取ろうとしているのに。
<だから、そんなの無理だって>
<そもそも、最初に隠れたのが失敗だった>
<あれで話しかけるタイミングを逃したんだよ>
姿を消したのは、驚いたからに決まってる。
何の前触れもなく、いきなり背後に転移してくるなんて。
<でも彼が危険な人じゃなさそうだってことは、もう分かったでしょ?>
<だったら声をかけて、直接話を聞いてみればいいのに>
<もし敵だと分かったら、やっつけちゃえばいいんだし>
私は周辺にいる魔物を駆除しながら、魔の森の奥へと入っていく青年の後を尾行していた。
その間、何度もこんな感じの心の声が聞こえてきたが、私はずっと無視していた。
でもいい加減、それも難しくなってきたみたいだ。
<シベラスコングを倒した時なんて、声をかける絶好のチャンスだったのに>
あ、あれは・・・
だって、そこは慎重にいかなきゃいけないでしょ。
私以外に【転移】の使い手がいたなんて、一大事だ。
もしあの人が【転移】の力を独占したい誰かの手先だったりしたら、私はこの森にいられなくなっちゃうかもしれない。
ここにいられなくなったら、もう私の行く先なんて、どこにも無いんだし・・・
<だからもしそうだと分かったら、報告される前にやっつけちゃえばいい>
<慎重に彼をストーキングしても、これ以上は何も分からないよ>
<声をかけなきゃ、始まらないでしょ>
<ほら、頑張って>
うううるさい。勝手なこと言うな。
私は自分の内心と格闘しながら、また木の間を駆け出した男の人を追った。
足音が立たないよう、透明化したまま【飛翔】の魔法を使って森の中を飛ぶ。
実際の所、もう彼に話しかけるしか道は無さそうな気はしている。
ただ・・・
どうやって話しかけたらいいのか、そのイメージがさっぱり湧いてこなかった。
・・・もう少し、もう少しだけ様子を見た方がいいかもしれない。
うん、そうだ。まだ早い。
現状維持だ。彼の観察を続行しよう。
<根性無し>
心の声は断固無視して、私は【探知】の魔法でこの場の周囲を探ってみた。
魔力を使って、半径2㎞圏内にいる危険な魔物を察知する。
この2時間ほど、私はこんな感じで魔物を見つけては、【転移】で飛んで行って、瞬殺。ということを繰り返していた。
彼はどうやら、戦えないみたいだったから。
―――あ、いた。またシベラスコングだ。
多いな、近くに巣でもあるんだろうか?
また彼に接近されたら面倒だし、早めに行って倒しておこう。
そう思い、私はもう一度【転移】の魔法を詠唱する。
<・・・いつまでこんなことを続けるの?>
<早く彼に、ここはもう安全だって教えてあげなよ>
心の声はもう一度無視して、私は逃げるように【転移】の魔方陣をくぐった。