授業 壱
担任は連絡事項を伝え終わった後、俺に視線を向けた。多分、美鈴のことを伝えろと言っているのだろう。拒否することはできないし、それに全員に知っておいてもらえば、困ったことにはならないかもしれない。そう思って美鈴を見たとき、少女は机に頬をくってけて眠っていた。俺は起こしたくはないが、事情を知ってもらわなくてはいけないので、お姫様抱っこをして前に出た。
「今日はこいつの妹さんが学校で面倒を見なくてはいけないらしい。迷子など問題は起こさないようにとは言ってあるが、もし妹さんが困っていたら皆、助けてやるように。以上でホームルームを終わるぞ」
それが終わったと同時に教室の女子たちが騒ぎ始める。可愛いだのなんだのとうるさい。しかし、その声で美鈴が起きることはなかった。もしかしたらいつもはもっと遅い時間に起きているのかもしれない。もしそうなら、熟睡しているのは仕方のないことだろう。そう思いながら席に戻った。
机に戻ると美鈴は起きているのかいないのか、また机に頬をくっつけて眠っていた。
「子供の寝顔って癒されるわね」
隣の席の茜がにへらと笑っている。樹も同じような風で、なんかほんわかした空気が漂っていた。俺もその中の一人ではあるのだが。
しばらく寝顔を眺めていると数学の教師が入ってきた。一時間目の授業が始まる。
号令で俺は立てなかったが事情を知っているのか何も咎められなかった。もしかしたら普段の行いが悪いから気にしなかったのかもしれない。それから、全教科の教科書が入っている机から数学の教科書を取り出した。しかし、さぼっていた分、どれくらい進んだかはわからず茜の開いているページを盗み見て、それと同じページを開いた。さぼっていたがこの問題がわかるのかどうか、腕試しにやってみた。例題を見てその通りに問題を解いていく。意外と簡単で、時間はそんなにかからなかったと思う。正解かどうかはわからないので、茜に訊いてみた。
「茜、これで会ってるか」
「何、あんた。勉強してるの? 珍しいわね」
「暇なんだよ。外に行くわけにもいかないし。それより、これで合ってるか」
「そうね、合ってるわ。ちなみに今やってるのはそこから二ページ先よ」
どうやらページを見間違ったらしい。言われたページを開いて、先ほどと同じように問題を解いた。そうしているうちに授業は終わっていた。
「あんたが勉強するとはね。それにまだなら習ってないところもすらすら解けてるようだったし。普段からまじめに授業受けてたら、赤点ぎりぎりなんてことないんじゃないの」
授業が終わった後、俺は数学の教科書をしまいながら話を聞いていた。
「というか授業に出てないのに赤点じゃないところがすごいだろ」
その会話に反応したわけではないだろうが、美鈴が体を起こして目をこすっていた。それからあたりを見回して学校とつぶやいた。多分、寝ぼけている。それから俺の方に目を向けてきた。
「のど、かわいた。お水」
一番近い水飲み場は少しだけ歩かなくてはいけない。
「わかった。少し歩くけどいいか」
「あ、待って」
少し浮かせた腰を下ろして、彼女に目をやった。
彼女は水稲から、紙コップにお茶を注いだ。紙コップは彼女がいつも持ち歩いているものだ。なぜかはわからないが。それを美鈴に渡すと少女は一気に飲み干した。そして、それを茜にお礼を言って返した。
「そういえば、唯斗。バイトは何時に終わるの」差し出された紙コップを受け取りながら言った。
「そうだな。大体、八時から九時の間だと思う」
「そう、分かったわ。美鈴ちゃんは私に任せなさい」彼女は胸を張って言った。
もともとしっかりしている奴だから、そんなに心配はしていない。なんだかんだ言いつつも、わざわざ俺に注意しに来るぐらいだからな。
それから、化学の授業が始まった。美鈴は用意したパイプ椅子を窓の方に寄せて、窓の外を真剣な顔をして眺めている。何かそんなに真剣になれるものがあったかと思って外に視線を向けると、他のクラスが体育の授業をしていた。サッカーやテニスなど、もはや休み時間では思えるほどいろいろな競技をやっている。少女はその人の動きが面白いのか、おーとかあーとか小さな声を出していた。
それを眺めていたら肩をつつかれた。そこには教師が立っていた。
「久しぶりにいるんだったら、授業を聞く。妹さんが心配なのはわかるが」
そうはいわれても授業なんて受けなくても満点近い点数を取っているのだから大丈夫なのだ。しかし、そんなことを教師に言えばさらに注意が入るに違いない。だから、俺は化学の教科書を開かずに机の上に出した。ささやかな反抗とでも言っておこう。なんとも幼稚な発想だと自分で心の中で笑った。そうしても暇なことには変わりなかった。樹で遊ぶか。
「今から背中に文字書くから当てろよ」
彼に耳打ちした後、俺は最初に書く言葉は決めていた。それは、バカだ。その一画目を背中に書いた瞬間彼はこっちを向いていった。
「バカだろ。カタカナでな。ベタなことすんなよ」
そう言いながら正面を向いた。よし、じゃ次は馬鹿にしよう。俺は彼の背に一画目を書く。彼は振り向かない。それから次々と漢字の画数を増やしていく。しかし、彼は反応しない。馬という字を書き終わっても反応がないので少し待つと反応があった。
「さっぱりだ。全然わからない」
「正解は漢字で馬鹿って書いた」
「漢字なんてわかるわけないだろ」
そう言って彼は前を向いた。
横から視線を感じてその方向を見ると、茜がジト目を向けていた。それから、目が合うとため息をつかれた。何を考えているのかわからないので無視した。それからまた樹の背中で遊んでいた。そうしているうちにチャイムが鳴って、授業は終わった。外の人たちも引き上げたのか、美鈴がこっちに来た。
「美鈴、面白かったのか」
その言葉に少女はうんと頷いた。それはよかったなと言いながら俺は少女の頭を撫でた。
この二時間はなんとか順調に進んでいた。
問題も特に起きず、美鈴の高校生活は順調に進んでいる。美鈴はいい子だから問題は起こさないと思うけど。
次回 授業 弐