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6 ナギ、皇太后カラシュと対面する

 馬車の迎えが来たのは朝早くだった。ホロベシ男爵邸から、たった一人、上等な馬車で帝都内を突っ切り、そしてまだ入ったこともない皇宮へやってきた。黒夫人がここに滞在していると聞いたからだ。

 長い長い道、森を幾つか抜けて、ようやくたどり着いたのが、その赤煉瓦の館、芙蓉館だった。

 そして通された間で待っていたのは、黒夫人ではなく、皇太后だったのだ。

 もちろんナギは当初その正体を知らなかった。皇太后については、まだ彼女が皇后だった頃から、その絵姿、写真、一つとして市中には出回らなかったのである。

 皇帝にしても、皇太子が生まれてからその姿を描きうつしたものを公表したくらいだから、仕方がないと言えば仕方がない。現在の皇帝に関しては、皇太子がいないものだから、中央から送られる映像にも、ぼんやりとした姿しか映されない。


「よく来てくれたわ、イラ・ナギマエナ」


 皇太后カラシュはにこやかにナギを出迎えた。


「…初めまして」


 とりあえずナギはそう言う。そして辺りを見回し、黒夫人らしき女性がいないことに気付く。


「…確か私は黒夫人… ラキ・セイカ・ミナセイ侯爵夫人のご招待を受けたはずですが」

「ええその通りだわ」

「なのに夫人はいらっしゃらない。これはどういうことですか?」

「確かに黒夫人が貴女を呼んだのよ。でも彼女に貴女を呼ばせたのは私。用があったのは私だわ。よろしくナギマエナ。私はエファ・カラシェイナ」


 途端、ナギは眉をひそめた。その名は知っていた。そして誰よりもナギは、その名の人物がどういう姿をしているか、考えやすい者だったのだ。


「ただね、単にただの貴女を呼び寄せるとなるとやや問題があるのよ」

「問題?」


 そしてその時、ドアがひどい音を立てた。思いきり、こぶしで殴っているのが判る。扉の真ん中。時には下の方からも。どうやら蹴りを入れたらしい。


「ナギ! 居るんでしょ!」


 ナギはその声に、心臓が止まるかと思った。


「あたしよ!」


 ひどく切羽詰まった声で叫んでいる。名など言わなくとも判る。相棒だ。アヤカ・シラだ。

 あの猫かぶりが自分などよりずっと上手い彼女が、そんなものを脱ぎ捨てている。扉に蹴りを入れるなんて、男爵令嬢のすることではない。第一中等の学生のすることではない。そんなのは、自分の前だけでしていることだった。

 それなのに。

 立ち上がろうとする。扉を、開けてやらなくちゃ。だけどそれは、急に肩に掛かった重みによって妨げられた。気配はなかった。だが誰かが自分の肩を、後ろから押さえつけている。そう力を込めている訳ではないのに、立ち上がれない。


「な…」


 扉を叩く音が消えた。声が途切れた。

 やがてこつん、と扉を軽く叩く音が聞こえた。カラシュはそれを聞くと、ナギの背後にいる者に向かい手を上げて合図した。途端、肩が軽くなった。そして振り向く。誰もいない。

 カラシュはゆっくりと扉に近付く。ぎい、と音を立てて扉が開くと、そこには、ぐったりと目を閉じて、黒髪のやや大柄な女性に抱き上げられているシラが居た。

 頭に血が上った。慌てて駆け寄った。

 相棒は目を開かない。軽く薬品の臭いがする。眠らされている。


「別に命に別状はないから安心して」


 カラシュはあっさりと言う。慣れた口調だった。


「安心?」

「別に危害を加えようというつもりはないのよ。彼女にも、貴女にも」

「…これが危害を加えてないというんですか」


 声が震える。頭に血が上って、それを押さえるのに精いっぱいである。


「加えたうちに入らないでしょう?眠らせただけよ。むしろ彼女がうちの一人にしたことの方がひどいんじゃなくて?」

「彼女がしたこと?」

「うちの新しく入った娘にずいぶんなことをしてくれたようで」

「…」


 ナギはシラがその「新しく入った娘」に何をしたのか、何となく予想がついた。それはおそらく自分が同じ立場に立ったら、同じことをしただろうことだった。

 そしてこの家の主が、それに対してずいぶんと怒っていることも。怒り、そして、やや混乱しているのだ。

 ナギはそれに対して何らかの言い訳も反論もしようとは思わなかった。おそらくその点について、この目の前の人物は決してそれに対するどんな理由も弁明も通じない。それは直感的に判ったのだ。

 そもそもナギもさほどにそこに罪悪感は感じていないのだ。少なくとも、むこうはこちらを拉致している以上、抵抗は覚悟しておくべきである。不当な拉致に対する抵抗は、如何なる手段であれ、ナギには何の罪悪感もない。


「そのことについて私は何も言えません」

「そうね。紅、彼女を部屋に戻して」


 紅はシラを抱き上げたまま、一礼すると、階段を上っていく。女性としてはかなりの力だ。ただ者ではない。

 だとしたら、自分を後ろから押さえつけた者もまた、ただ者ではないとナギは思う。女ではない、と感じた。手が大きいのだ。指と指を広げた時の感触が違う。それは制服の襟ごしにもよく判った。


「いったい貴女は私に何の用なんですか!」


 怒りに声が詰まりそうになるのをこらえて、ナギはこの一見実に大人しそうな女性を見据えた。


「ああようやく判ったみたいね。そう。私は貴女に用があったのよ。そのためにまず彼女を引っぱり出させてもらった」

「私のために彼女を? それは尋常じゃない。どうして貴女が私に、ただの男爵令嬢の勉強相手に用があるというのです? 皇太后様!」

「私はただの『男爵令嬢の勉強相手』を捜していた訳ではないわ。逆よ。貴女を捜していたら、たまたまそれが男爵の家にぶつかっただけだわ」


 カラシュのその理屈臭さは少女の頃から変わらない。例え百年経っても基本的な部分はそう変わるものではないのだ。


「私を捜していたというんですか?」

「ええそうよ。ずいぶん苦労したわ。男爵が話を持ち出すまでは雲を掴むようなものだったわ」


 ということは。ナギは上った血が引くのを感じる。彼女は自分の正体を知っている!


「ホロベシ男爵は何を」

「私と取引がしたいと言ってきたわ」

「取引」


 カラシュはうなづく。そして掛けたらどう、と再び椅子を勧め、自分はさっさと座り込んだ。そしてナギが掛けるかどうかなとどちらでもいいかのように、そのまま話を続けた。


「うちに私の捜している女性が居る、と。証拠は幾らでも見せられる。渡してもいい。だが条件がある、と」

「どんな条件ですか?」


 ナギは眉をひそめる。あの男は。


「青海区からの航路独占権」

「青海区からの? そんな」


 航路は帝都本土の極側にある北海区がわのルートと、赤道側にある南海区側のルートが現在の主流である、とナギは「家庭教師」の一人から学び、学校でも学んでいる。

 何故か。それは付近は気候条件的には最も良い青海区側の海が、「進めない海」だったからである。

 海も、大陸棚のあたりまでなら良い。だがある一点を越えると、異常が起こるのだ。

 まず一つは気象異常である。霧が異様に多い。かつてその海に迷い込んで、ほうほうの体で帰還した船長は、その時の霧を「手を伸ばしたら、その自分の指が見えないんだ」と表現した。

 もう一つは計器異常である。技術が発達した現在、いくら霧が深くとも、計器が大丈夫ならよいだろう、と誰もが思った。だがそれも甘かった。計器も狂うのである。磁場が狂っているのだろう、と教師は言っていた。だがその狂う原因が判らない。そしてその件を研究する者は近年、不穏分子として捕まる者が多い。結局研究は進まないのだ。


「そう思うでしょう?」

「青海区から船を出すなど自殺行為」

「そうよ。実際遭難した船が大半だわ。だけど、その磁場の狂う原因が判って、それを撤去できたらどうかしら」

「航海が可能になる?」


 即座にナギは答える。


「そう。そうしたら、青海区からの航路は、直線距離的に見て、連合首都に最短距離になるわ。そこを独占したらどうかしら。ホロベシ社団はとんでもない利益を上げることにはならないかしら」

「でも」


 ナギはそこでようやく腰を下ろす。


「その原因と、その撤去法が判るというのだろうか」

「実際ははったりかもしれない」


 カラシュは傍らのポットから茶を自分のカップに注ぐ。乳茶だった。一杯如何、と彼女はナギに訊ねる。結構、とナギは手をひらひらと振る。


「だけどマキヤ・ホロベシが何かと反体制的な学者達を自分の手元に置いていたことは事実。それは貴女もご存知でしょう?」


 ナギはうなづく。何せ自分はその学者達から学んだのだ。


「無論あれがその本当の意味に気付いたとは思えないけれど、ただそれが完全にただの自然の条件でないことには気付いたようね。もちろん自然の条件などではないわ」


 ナギは顔を上げた。カラシュは海の異常は自然のせいではない、と断言しているのだ。


「さてそこで私は考えたわ。そしてホロベシへの返事は保留にしておいた。ねえひどく不思議だと思わないかしら?何故彼は私にそれを持ちかけるのかしら?私には何の政治的権限はないわ。皇帝陛下に進言することはできても、現在の陛下に私の意見を通すことはできないでしょう」

「無理なのですか?」


 カラシュはそれには答えなかった。ただにっこりと微笑んだだけだった。


「そして保留にしておいたところでホロベシが殺されたという知らせが入ったわ。さて辺境民族の流れ弾と報告は受けたけれど」


 カラシュはカップを置く。そして極上の笑みをナギに向ける。


「あなたが殺させたんでしょう? イラ・ナギ」


 ナギは形の良い眉を片方吊り上げた。


「あまり私の部下を甘く見ないで」

「でも証拠はないですね」

「ええそうね。証拠はないわ」


 さすがに心臓がやや躍り出すのをナギは感じた。


「だけど貴女がカラ・ハンに居たことがあるなんてことは調べれば判る。そこの現在の族長カドゥン・マーイェとも浅からぬ仲であるというのも判る。あいにく私は、ホロベシほど若くはないから心配性なのよ。イラ・ナギ、貴女のことは調べされてもらったわ」


 そしてカラシュは手近にあった紙を幾枚か手に取る。何やら書き付けられている。


「イラ・ナギマエナ・ミナミ… これは半分偽名ね。本名はただのイラ・ナギ。父姓の無い子。今から三十六年前に、イラ・ケシュ・クーダンの私生児として生まれた。その十四年後に母親が死亡。その頃住んでいた娼館で貴女は最初の客を取らされる。そしてあいにくその客が特別だった」

「…」

「二十二年前。そうね、あの頃と言えば。あの子は第三夫人エガタ・ファンサの死が余りにも大きかったらしいわね」


 今上のことを「あの子」と呼ぶ。


「この帝都を空座にして数年間、あちこちを忍びでふらつき回っていた。もちろん皇帝を殺すことはできないから、必ず戻ってくると判っていれば私達は何か言うことはできない。何かと周りには隠密の警護は居たし、何はともあれあの子は唯一不可侵の皇帝陛下だから」


 ナギは押し黙る。


「似ていると言えば似てなくもないけれど」

「…そのエガタ・ファンサ様にですか」

「淡い色の髪と目。さすがに金色などではなかったけれど。それに、亡くなった時既に三十は越えていた筈だけど、いつまでも少女のようなひとだったわ。綺麗で可愛らしかった。綺麗は一緒だけど?」


 可愛いは違う、というあたりをカラシュはあえてぼかす。


「ファンサから最初に生まれたルーサは女の子であったけれど、ファンサにだけには皇帝陛下も固執したわね。ずいぶん好きだったのでしょう。さてその彼女が再び身ごもった時、さすがに皆反対したわ。もうどうせ彼女は女子しか生めぬのは判っているし、しかも他の夫人達のこともある。二人目の女子など『誰の子とも知れぬ』と言われかねない、とか。皇帝陛下も、まだ生まれぬ、女の子と判っている子供よりは、ファンサ自身の方がよほど大切だったし」

「そうなのですか?」

「あら結構不敬ね」


 くす、とカラシュは笑う。


「まあ実際のところは判らないけれど。とにかくそれでもエガタ・ファンサはその時、子供は生むと言い張ったのよ。でもそう強いひとではなかったし、もともと皇帝の子供を生む、というのは、子供が女子であっても身体にはかなり負担がかかるわ」

「…」

「私や貴女は特別、というより異常なのよ」

「異常、ですか」

「そう。異常。そんな大したものじゃあないわ。…さて、その異常ではないファンサから、子供は無事に生まれたけれど、彼女はそれと引き替えのように亡くなってしまった」

「それがマオファ・ナジャ様ですか」

「そうよ」


 ナギもその名は聞いていた。黒夫人の名を聞くのと同じ感覚である。男装の麗人、というものはいつの時代においても、少女の憧れの的となるものだ。だいたいナギにだってややそう思われる傾向はある。それに皇帝皇后の姿はぼかされても、何人も居る皇女がたは、「女子学生通信」などでもよくその姿を見ることができる。


「そのファンサが亡くなったことがずいぶんと大きかったみたいね」

「つまり割り出しは、私をさかのぼるよりも、皇帝陛下の行状をたどった結果ということですか」


 感傷抜きでナギはずばりと言う。


「両方ね。向こうとこっちが上手く合った、ということ。でも貴女の足どりはときどきぷっつり消えてしまう。やや私の手の者達も苦労したようね」

「…それで判りましたか?」

「あなたができてしまった子供を堕ろしてしまったあたりから時々判らなくなっているわね。でも結構いろいろな事件に巻き込まれたようね」

「おかげさまで」

「でも金と銀の狭間の髪、金色の目の美少女をあちこちの娼館で探ったら、結構出てくるものね。あまりさすがにいないわ。それに名前はずっと変えていない。それにカラ・ハンではあの方々に会ったでしょう」

「…どなたでしたっけ」


 もちろんナギも気付いている。自分に自分の正体を突きつけた二人。初代と三代の皇后。もう幾つになるのか、想像もできないのに、その姿はやはりこの目の前の皇太后同様、若いままの。


「知らないふりなんかしても駄目よ。あの方々は気まぐれだから、たまにしかこちらへもお寄り下さらない。だけどつい何年か前にいらして、告げられたわ。カラ・ハンで見つけた、と。その時貴女の特徴を聞いた。…まあこんな髪になっているとは思わなかったけれどね」

「似合うでしょう」


 ぬけぬけとナギは言う。だがカラシュはくすくすと笑って動じない。


「ええ全く。で、そこで貴女がカドゥン・マーイェと浅からぬ仲になっていることは判っているのよ」

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