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1 皇太后の動きとナギの帰還

「…そう、入ったの」


 はい、と少女はうなづく。


朱鷺トキからそう連絡が入りました」

「そう。ならいいわ。お茶を入れてちょうだい」


 すっと少女はそこから身をひるがえす。少しだけこの柔らかいジュータンに慣れるのには時間がかかったけれど、もう今は大丈夫だ。

 少女は無駄口は叩かない。訊ねられたことにきちんと答え、なおかつ自分の職務を確実にこなす。彼女の仕事は、この茶好きの主人にいつもいい加減のお茶を出すことだ。


「それでは丁重にお出迎えしてちょうだい。今駅だとしたら、ここへ来るのはいつ頃になるかしら?いつ頃になると思う? 藍」

「…いくつかの場合が考えられますが」


 藍と呼ばれた少女は、ミルクで煮出された茶をなみなみと入れたポットを銀のワゴンの上へ置く。そこには大きな厚手の、濃い赤の陶製のジョッキが置かれている。彼女の主人は、これで乳茶を呑むのだ。変わっている、と藍も当初は思った。


 尤も。


 藍は思う。


 この方御自身ほど変わっているものはないのだし。


 アイは二週間前から、その女性に仕えている。何でも「順番」が巡ってきたのだ、と言われて。藍の所属している集団には、やはり藍と同じ位の少女も居る。だがその中でこの女性に仕えることができるのはたった一人だった。

 ただし一年である。十六になった少女は十七のある時までそこで働かなければならない。その時が過ぎたら、また別の役目が与えられる。


 …いいよな女はよ。


 幼なじみのユカリは女の子みたいな綺麗な顔で、ぼそっとつぶやいていた。

 同じ集団に属する、同じ歳の少女は皆その人に仕えることを望んでいた。

 そして会った時には驚いた。噂と全く違わなかったからである。

 長い栗色の髪。そう美人という程ではないが、可愛らしいと十人中八人までが言うだろう姿形。ぱっと見には二十歳は越えていないように見える。

 だがその知識量と言えば、ただ可愛らしいだけの女性ではなかった。

 もともと第一中等で究理学関係を学び、嫁いだのちも、その夫君の影響で、国史にはずいぶん詳しいとのこと。その学校の時の習慣のせいか、未だに彼女は昔ながらの黒茶よりは辺境の習慣のような乳茶が好きである。

 そんなことだったら、「変わっている」範疇には入らないだろう。百年も昔ならいざ知らず、現在の帝国においては、知識欲盛んな女性も珍しくなくなってきている。確かに究理学と国史の両方に詳しいという組合せは珍しいかもしれないが、藍の考えることはそれではない。


「一番早い状態を考えてご覧なさい。彼女が何事もなく、私達の思う通りの方法でもってやってきた場合」


 彼女は重ねて訊ねる。さすがにこうなったらごまかしは効かないだろう。きちんと答えないときっとこの方はご機嫌が悪い。


「…でしたら、そうかかりません。せいぜいがところ、駅への到着時刻より四半日というところでしょう」

「そうよね。だとしたらそろそろ放っている誰かさんから連絡が来てもおかしくはないけれど…」


 満足げに彼女はうなづく。彼女は自分の周りの小間使をこうやって試すのが好きだ。それはもうずっと昔から。それはただ単に遊んでいる場合もあるし、その資質を見抜くための時もある。

 とりあえず、現在のこの会話は、ただ遊んでいるだけのようだ、と藍は思う。少しだけほっとする。


「もしかして藍、あなたまだ結構緊張していない?」

「え」


 思わず声を立てる。―――それは当然だと思う。


「何もそんな、顔色変える程」


 そう言って微笑む。


 だって仕方ないじゃない!


 藍は内心叫ぶ。


 だってこの方は。


「皇太后さま」


 女官長が開いている戸を脇からノックする。何、と彼女は答える。


「市内通信が入っていますが、こちらへ回しましょうか」

「そうね、お願い」


 彼女はすっと立ち、部屋の隅の、高速通信の前に座った。ぴ、と音がして、通信回線が開く。


『ご機嫌うるわしく、カラシュ様』


 藍は驚く。この現在の彼女達の頭領は、この方を名前… しかも愛称で呼ぶのだ。藍は、それが伝統だということは知らない。


「あなたこそ朱鷺。それで彼女は?」

『はい。真っ直ぐホロベシ男爵の家に入りました。確認致しました』

「よろしい。では予定通り、きちんと彼女をお招きして」

『判りました』


 簡単な会話が終わる。くるりと椅子を回して、彼女は藍の方を向く。


「どうやら上手くいきそうだわ」


 

 さてこの女性、名はエファ・カラシェイナと言う。帝国の名家クドゥル伯爵家の末流にあたる家の末娘だったという。

 藍が教わった通り、彼女は少女の頃、まだ女子部ができたばかりの第一中等学校の高等科まで進んで、主に究理学を学んだという。そしてその卒業後の進路を決めかねていたところで、いきなり鶴の一声が飛んだとのこと。

 それが後宮入りだというから人生は判らない。

 ただの学問命、の少女が一転して宮中の新妃、そして皇后となってしまったのである。

 先帝六代帝の時代のこと。現在の今上は七代皇帝である。つまりは彼女の息子である。従って彼女の現在の称号は皇太后であり、皇后のいないこの後宮における、最高権力者と言える。

 この帝国は、女性が政治に参加することを法律で禁じていたので、いくら後宮で権力があろうが、直接的にその力を外側へと出す訳にはいかない。

 …まあ表向きである。

 裏に回れば、何かと方法はあるのだ。例えば藍も所属する集団。

 皇太后カラシュは、その手のうちに「残桜衆」と呼ばれる集団を有していた。この集団もなかなか歴史がある連中である。その昔、三代帝の時代に、帝国に併合された藩国「桜」の忍び(現在はそれに相当する単語は帝国にはない)の残党だとも言われている。

 現在もその構成員は、帝国国籍の他に、真名を持っている。真名は「桜」の習慣である。彼ら小隊の場合、その真名は伝統的に「色」の名であった。

 さてその残桜衆をどうやって手に入れたか詳しいことは当の本人と、彼女の夫六代帝と、親友で現在も名門とされている私立の女子高等教育機関「紅中私塾」の創設者コンデルハン夫人と、当時の小隊長「朱」の四人しか知らない。

 だがそれはもう百年近く過去のことであり、三人までが鬼籍に入った今、当の本人が何も言わないから判りようがない。


 百年近く過去。


 つまり藍が驚いたのもその辺りである。

 その百年近く過去、に嫁いできた彼女が、未だに二十歳過ぎには見えない、という現実である。

 それが皇太后… 皇后だった女性だ、と言われれば仕方がないが、藍は未だにこの女性の前に出ると緊張してしまう。

 皇太后カラシュは、そういう所が可愛いと思っているのだが。



「何ですって!ここにいない?」


 アルトの声が、玄関から奥へ、一気に響いた。さほど大きな声ではないのに、そこに居た全ての家人がびくりと身体を震わせた。

 高い天井の、シャンデリアが落とすそう明るくない光の中に、「旦那様」の遺体を迎えに、全ての家人が集合していたのだ。

 彼らはこの遺体を連れてきた少女についてよくは知らない。聞かされていたのはただ、「頭の良い少女を旦那様が引き取ってシラお嬢様の勉学相手になされた」ということだけだった。

 無論「旦那様」とナギが何処で出会ったとか、「お嬢様」とナギがどういう関係かなんて、全く知らない。知らない筈である。

 したがって、どうしてこの「勉学の相手」の少女がこうも怒っているのかまるで判らないのである。


「それで、何処へ行かれたのです!」


 ナギはひときわ声を高める。金色の目が燃えるようにきらきらと光る。その剣幕にこの屋敷の使用人達は息を呑む。


「…何処と言われましてもナギマエナさん… 当初からここにはお嬢様はいらっしゃらなかったのですよ」

「当初から」


 ナギはこの帝都のホロベシ男爵邸の執事をにらむように見る。…さすがに彼は副帝都本宅の執事とは比べものにならないくらい神経が太そうだ。灰色の髪と、やや険しそうな青の瞳。瞳は青でも、全体的に灰色という印象がある。

 とはいえ、ナギもただ引き下がる訳にはいかない。知りたいことは幾らでもある。

 彼女は大きな猫を頭からかぶってみせる。大人しいフリをしていれば、自分は大抵の男の目からは綺麗な少女で通ることをナギは知っていたのだ。


「…怒鳴ったりしてごめんなさい。では誰がシラさんを連れていったのかしら?判る? ええと」

「それは判ります」


 執事は彼女と同じくらいの背の高さであり、まだその職にしてはずいぶん若かった。おそらく四十は行ってないだろう。青い目が時々意味もなく細くなる。名は… 名はなんと言ったか。

 名を思い出せないような、突っかかる言い方をする彼女に、執事氏は親切に言葉を促す。


「コレファレスです。イルゼン・サートゥン・コレファレス」

「ああごめんなさい、コレファレスさん。どうかしら」 


 言っておくが、もちろんナギは彼の名くらい知っている。だがコレファレス氏は、どうやら本当に彼女が忘れていたと思ったようで、やや勝ち誇ったような笑みを口の端に浮かべる。


「…市内通信が入りまして」

「発信元は?」

「ミナセイ侯爵家です。…どう転んでもそこからお嬢様をお預かりしていると言われては」

「…」


 ミナセイ侯爵家。黒夫人のところだ、とナギは記憶をひっくり返す。

 格が違うから、下手に口出しはできないという訳か。ナギは表情を殺す。


「ひとまずせっかくお越し頂いたのですから、まず休まれたらどうです。貴女の部屋も用意してありますし、お食事も言われればすぐに。そう大層なものは用意できませんが」


 女中の一人が声をかける。やり手とは縁がなさそうだが、やや太めの、優しそうな女性だった。コルシカ夫人と名乗った。


「ありがとうございます… ああ別に私のことは構わないで下さい… 食べられれば十分ですから…」

「だがどうにも貴女今、気が抜けていそうだ」

「気は抜けています、十分。ああそうだ。とにかくこちらの方はおまかせします、コレファレスさん。葬式のこともあるでしょう。貴方に任せるしか私にはできませんから…」

「でもすぐに葬式は出せないのですよ。それで我々も困っているのです」

「どうして」

「喪主がいないのですよ。喪主になれるのは、お嬢様しかいないではありませんか」


 ああ、そうだ。ナギは唇を噛みしめる。自分もそうだった。母親の、あの簡素で簡素で簡素な葬式の時にも、喪主は必要だった。自分がするしかなかった。

 ああ面倒だ。内心ナギはつぶやく。


「とにかく旦那様の方はしばらくお嬢様が戻られるまでそのままにしておきましょう。その辺りは私に任せてください。貴女はずいぶん疲れているようだ」


 ナギはうなづく。大陸横断列車の往復時に起きた事件のあれこれは、その時には疲れを感じる暇もなかったが、通り過ぎてみると、確かにその分がかかってきていた。


「コルシカ夫人、お食事の用意をしてやってくれ」

「はいはい。すぐに暖めますからね。こっちへいらっしゃい」


 動揺しているのは同じだろうに、心配してくれる。どうやら様々な思惑などとは無縁そうなコルシカ夫人の笑顔に、ナギは何となく肩の力が抜けるのを感じた。



 食事は暖かいものだった。


「私たちのと同じものしかないけど」

「いいえ十分です。寮舎のよりずっと美味しい」

「そう言ってくれると嬉しいねえ」


 コルシカ夫人はにこにこと笑いかける。

 通されたのは、家人達が集まる食堂だった。

 シラから以前に聞いた話では、この帝都の屋敷には、全部で十名程度の使用人が居るということだった。その十人が一度に食べるテーブルだったから、なかなか大きい。その一辺にナギは座り、出される食事を次々に平らげている。

 どうやら、この家の主及びその客人に関しては専用のコックがその都度やってくるが、そうでない時はこのコルシカ夫人が食事の用意はするらしい。

 たっぷりと煮込まれた茶色のシチュウ、もう冷めてはいるが、ちゃんとこの家で焼いたらしいかたまりのパン、パスタ入りのサラダは新鮮な野菜を正確にサイコロ状に切ってあるし、浮き身を散らしたスープは琥珀色に綺麗に澄んでいる。


「…結構よく食べるねえ」


 斜め前に座って給仕をしてくれるコルシカ夫人は意外そうにつぶやく。


「あ、そうですか?」

「だってねえ… うちのお嬢様が前に来た時なんかにゃ」

「だから私はお嬢さん育ちなんかじゃありませんから。出されたものはきちんと頂きます。それに美味しいものはやはり嬉しいし…」

「そう言ってくれると嬉しいねえ」


 何はともあれ、自分の作った料理を誉められることは嬉しいらしい。頬杖をつきながら、夫人はにこにことこの「綺麗な少女」を眺める。


「食後のお茶はどうする? えー…」


 先刻ナギが言いよどんだように、夫人は語尾をぼかす。


「ナギです。イラ・ナギマエナ・ミナミ」

「じゃあナギちゃん。何かお茶で好きなものはあるかい?」


 ナギちゃん。そう呼ばれるのは久しぶりだった。何となくくすぐったい。

 子供扱いされているみたいで妙に心地よい。外見年齢はともかく、カラ・ハン以来、彼女はそう呼ばれることはまずなかった。それは彼女の持つ雰囲気のせいかもしれない。


「あ、何でも。…というかあまり私知らないんですよ。おすすめはありますか?この家ならでは、とかコルシカさんのおすすめ、とか」

「お勧めねえ。…ああそうだ。じゃあとっておきを入れてあげよう」


 いそいそと、彼女は席を立って茶を入れ始める。

 嘘ではない。ナギは興味の少ないものはいちいち覚えていないのだ。

 何しろ基本的に貧しい育ちをしている。食事の内容だの服装だのに気を回せるというのは、とにもかくにも確実に日々の糧を得られるだけの余裕がある、ということである。ナギは、最近はともかく、歳を止めるまでの少女時代には余裕というものと無縁だった。

 まあそんな訳で、正直言って第一中等の制服、というのは非常に着ていて気楽だった。

 次第に良い香りがしてくる。果実酒みたいな香りだ、と彼女は気付いた。かりっとしたスープの浮き身を噛み潰してから、ナギはコルシカ夫人に訊ねた。


「いい香りですね」

「あたしの秘蔵もんだよ」


 何となくそれに、ナギは覚えがあった。


「サカーシュの… 酒? ジャムですか」

「あれ、あんたカラ・ハンの子かい?」

「…出身は違います。だけど少しそこで暮らしたことがありましたから」

「へーえ」


 サカーシュはカラ・ハンやその周辺で摘まれる野いちごの一種である。

 短い夏の間にその実をつけ、小粒で酸味きついが甘い。色は黒紫で、ぶつぶつした外見はぱっと見、グロテスクと言えばグロテスクではある。

 それはジャムにされる場合もあるし、酒にされる場合もある。酒にした場合も、甘みが強いので、カラ・ハンでは子供の祝いに使われる時もあった。だがカラ・ハンのお茶は基本的に乳茶なので、サカーシュジャムを入れるようなことはなかった。


「何か結構苦労してそうだねえ。お嬢様と一緒の歳だろう? 若いのにねえ」

「…」


 ナギは軽く笑っただけだった。その笑いを何ととったか、コルシカ夫人は更に雄弁になった。

 熱く濃い黒茶が深いガラスのカップに注がれる。そしてその中に、スプーンでたっぷりと取ったジャムが落とされた。それは茶の中でぱっとひろがり、湯気と混ざってよい香りを立てる。


「…へえ…」

「これはちょいとあたしがアレンジしたんだけどね」

「と言うと?」

「ジャムを入れるってのは、あたしの故郷の習慣なんだよ」

「どちらの方なんですか?」

「****だよ」


 コルシカ夫人は、北東の管区の都市の名を告げた。


「向こうでは、寒い日に、ジャムと、強い酒を入れた茶を呑むんだ。それで凍えそうな夜にも、身体を暖めて眠るんだ」


 カップがナギの前に置かれる。ああ懐かしい香りだ、とナギは思う。ナギはカラ・ハンに居たあの時点でもまだ「子供」の集まりに時々連れ出されていたから、この香りはその記憶を運んでくる。


「だけどうちの亭主にくっついて、こっちに来てから、ろくなジャムがありゃしない。…そりゃ帝都だから、パンにつけるようなジャムはいいさ。十分すぎるほどある。だけど茶に入れるジャムがありゃしない。結構あたしにゃ困ったねえ」

「そうでしょうねえ」


 茶に入れるようなジャムは、強烈な酸味と甘みが必要だった。パンにつけて食べるようなジャムではやや物足りないだろう。逆にこのサカーシュのようなジャムをパンにつけたらくどくてたまらないだろう。

 帝都や副帝都の茶は基本的にはストレートな黒茶である。ジャムを入れるような習慣はない。需要がないから供給もない。当然の論理と言えば当然である。


「黄いちごに赤いちご。ぶどうにオレンジ。ラガクチャにパンショ。…そんなのはいろいろあるのにね…ところがある時、このジャムがあったんだよ。副帝都に出掛けたときかな? 向こうの品をよく扱う店があってね」

「あ、そういう所があるんですか?」

「これがあるんだよっ」


 ふっふっふ、と自慢げに夫人は笑った。


「…いいな。私も今度行ってみたいですね。何処です?」


 自分の話に興味を持たれる、というのは嬉しいものなのだろう。それが初対面の人間だったらなおさらである。何しろ何を言ったところで、相手には珍しいのだ。話好きの者なら更にお喋りになり、そうでもない者も雄弁になる。

 コルシカ夫人は前者のようだった。かなり人懐っこく、お喋りの部類に入るだろう。

 だとしたら。

 ナギはお茶を呑みながらの世間話のフリをしながら、次々と話題を変えていく。

 草原の辺境地の物を扱う店のことから、彼女の故郷のことから、彼女の結婚したいきさつやら、現在のこの屋敷の状態まで…

 お茶は美味しかった。

 暖かいから、ジャムの酸味が一層引き立つ。それに懐かしい味でもある。香りでもある。

 カラ・ハンに居た頃、まだ「ちゃん」付けされていた頃、誘われてサカーシュ摘みに行ったことがある。その時エプロンに染み着いた濃い赤紫と、やや涼しい空気にぱっと広がった香りの記憶が瞬間、よみがえる。


「…まあね、ここは給料が良くなかったら、当の昔に辞めていたね」


 コルシカ夫人は愚痴ともあきらめともつかないような調子で話す。ナギはそれに対して曖昧で、だけど少しだけ同情的なあいづちを打つ。


「まあ」

「別に気楽は気楽なんだけどさ、どうも時々得体の知れない連中が入り込んでるようで、気持ち悪いったらしょうがない。全く… それでいて今度は旦那様が亡くなりなさって… 一体この家はどうなることやら」

「でもシラさんが、ここのお嬢さんが遺産は受け取るのでしょう?」


 いいや、と片目をつぶってコルシカ夫人は右の人差し指をぴっぴっと横に振る。


「実はね、ここの旦那様には隠し子がいるんだよ」

「え」


 それは初耳だった。ナギはいつもの作った驚きではなく、本当に驚いてみせた。思わず身体が前に乗り出す。


「そうなんですか?」

「そうなんだよ。あんたは知らなかったようだね?」

「知りませんでした。シラさんからもそんな話聞いたことはないし」


 夫人は首を横に振る。


「お嬢さんは知らない筈だよ。そうかもしれない、とは誰だって思うだろうよ。あの旦那様じゃ」

「…」


 確かにそうだ。ナギは思う。

 自分が「引き取られて」最初に住んだ松芽枝市の屋敷は、ここの「旦那様」、ホロベシ男爵が次々変わる愛人のために作らせたものだった。

 その屋敷に取っ替え引っ替え女が住み着いていたとすれば、子供の一人や二人間違いでも何でも、できてしまったところで何らおかしくはないのである。


「…じゃその隠し子ってのは男の子なんですか?」

「女の子だったら何にも問題はないのにねえ」


 夫人は嘆息する。彼女はナギがずいぶんショックを受けたようだったので、露骨にしまった、という表情をする。


「ああだけど、お嬢様だって、別に一文無しになるという訳ではないのだし、あんただってお嬢様が望まれれば、きっとそのままでいられるよ。心配しなさんな」

「そうですね」


 夫人はぽんぽんとナギの背中を叩く。多感な年代の少女が身の上に起きた出来事に途方に暮れているものだと夫人は思っていた。それではせめて気を落ち着かせてやろう。

 だがナギはもちろんそんなことでショックを受けているのではなかった。

 考えて然るべきだったことである。実際考えなかった訳ではない。だがそれでも、そうなって欲しくない未来からは目を逸らしがちである。

 そういうことから目を逸らしていた自分にショックを受けていたのである。


 …不覚!

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