エミカと、そしてママの独立記念日
せみの声がうるさい。耳にこびりついて、離れない。
暑い日差し。見上げると、いっぱいの緑の葉っぱの間から、まぶしい空。
全部、聞こえる。見える。感じている。
エミカの頭の中はぐるぐる回っていた。
今は夏休みで、学校はない。私は宮平小学校の五年、何組だっけ。担任の先生は。仲のいいクラスの友達は。習い事もしていたはず。塾?じゃない、ピアノ?ダンス?学校が休みの日は、いつも、何をしているっけ。好きな科目は。委員会は。クラブは。
エミカには何一つ思い出せない。どうしても。
(どうしてあんなことを言うの?お兄ちゃんも、ママも。)
気がつくと、真っ暗になっていた。
夜。
でも、家には帰らない。
いじわるなおにいちゃんがいるから。
ママが怒っているから。
エミカはとぼとぼと歩き続け、気がつくとゆかりの家に向かっていた。
団地の階段を上り、ドアの前まで来ると、チャイムも鳴らさず、ノックもしないで、勝手に入った。
ゆかりは一人で、奥の部屋で、ぽつんとひざを抱えていた。
突然、足元の携帯電話が光ってメロディが流れ、ゆかりはあわてて手に取った。
「・・・はい。ママ?・・・うん。わかった。そうする。じゃあね。」
それだけ言って電話を切ると、ゆかりは小さくため息をつき、エミカの方にすたすた歩いてきた。
「ゆかりちゃん。」
エミカが声をかけると、ゆかりはゆっくり振り向いた。そして、エミカを見て、
「いらっしゃい。」
と言って、にっこり笑った。
「どうして、びっくりしないの?なんで、勝手に人の家に入ってるのに、怒らないの?」
エミカがたずねると、ゆかりは困ったような顔で笑った。
「ゆかりちゃんには、私が見える?」
ゆかりははっとして、いっとき口ごもった。
そして、エミカを見つめてしっかりとうなづいた。
「うん。ちゃんと、見えるよ。」
エミカはへなへなと床に座り込んだ。
「どうしたの?何かあったの?」
ゆかりはびっくりしてエミカのそばにしゃがんだ。
「私って、なんなんだろう。」
ほんとうは、もうすっかりわかってしまっていたけど、誰かに答えてもらわなければ、それが本当だとは思えない。
「エミカちゃんでしょ。上原エミカちゃん。」
ゆかりの声は優しかった。
ゆかりには、最初からわかっていたんだ。エミカはようやく気がついた。だから、時々、びっくりしたような顔をして、何かを言おうとしては言わずに口ごもっていた。
「私、知らなかったの。ずっと、知らなかったの。」
エミカは膝に顔を埋めて、泣き出すしかなかった。
「うん、気がついた。そうなんだなって。」
ゆかりの手が、エミカの髪をなでるのがわかる。
どうしてだろう。体なんて本当はないのに。
体なんてない。そう、はっきり思ってしまった、自分で。
「こわいよ。ゆかりちゃん、私ってなんなの?」
「こわくないよ。私がエミカちゃんを、こわくないんだから。」
ゆかりは、優しく、そっとエミカの髪をなで続けた。お母さんから無理矢理離されて、ひとりぼっちで捨てられてふるえている子犬を拾って、大丈夫だよ、となでるみたいに。
そうされていると、エミカは少しずつ、心が落ち着いてきた。
「電話、なんだったの?」
ふと気になって、たずねた。
「ママ、今日は泊まりだって。だから、コンビニでお弁当買って来ようと思って。」
「いっしょに行っていい?」
「もちろん。」
ゆかりが財布を持って、窓を閉めるのを待って、エミカはゆかりと連れだって外へ出た。
川から夜の風がそうっと吹いてくる。空を見上げると、町の灯りに反射してぼうっと明るい雲の切れ目から、星が二つ三つ顔を出していた。
「ゆかりちゃんのママ、泊まりでお仕事もあるの?」
「よくわかんない。でも、時々あるみたい。」
あとは黙って、踏切の前のコンビニまで並んで歩いた。
コンビニの青白い光が、入り口の外までのびていて、エミカはふと足元を見た。
ゆかりとエミカの足元には、黒い影が一人分。
やっぱり、とエミカは目をつぶった。
目をつぶると、本当に自分はいないような気がする。
気がつくと、ゆかりは買い物を済ませて、エミカの前に立っていた。
「あんまり気にしない方がいいよ。って、これ、この間のエミカちゃんのせりふじゃん。」
そう言って、ゆかりは笑った。
川沿いの道をゆっくり歩きながら、二人はいろいろな話をした。
ゆかりのうちが、春休みにパパとママが離婚して、ゆかりとお母さんだけこの町に引っ越してきたこと。ゆかりは一人っ子で、ママはずっと仕事をしていて、ゆかりが小さい頃からいつも帰りが遅かったこと。
エミカもじぶんの話をした。エミカが生まれる前に、どうやら神様がキャンセルしてエミカをこの世に送るのをやめたらしいこと。でも、寂しがり屋のママが、エミカをあきらめきれなくて、ずっとママのおなかに居続けてしまったこと。エミカはママの想像の中で心だけ成長して、お兄ちゃんが大学生になって家を出たとき、ようやくママの外に出て、一人歩きを始めたようだった。
「どうして、自分では気がつかなかったんだろう。私、ずっと自分がふつうの五年生の女の子だと思っていたよ。」
と、エミカがしょんぼり言うと、ゆかりはくすっと笑った。
「びっくりしたよ。名前もちゃんと言うし、うちがどことか。同じ学校だね、とか、ママがポルカで働いてる、なんて。話し方もふつうの同級生みたいで、私の方がどうかしてるのかな、って思った。」
「ゆかりちゃんにはどうして私が見えるの。」
「どうしてかなぁ、私にもわからないけど。」
ゆかりは空を見上げた。
「なんかね、ずっと前から、私っていなくてもいいかも、って思ってた。いると迷惑なんじゃないか、とも思ったりして。」
「迷惑って、だれの。」
「パパやママや、おばあちゃんや、周り中の人だよ。」
「どうして?」
エミカはびっくりした。パパやママから迷惑がられているなんて、どうしてそんなことを思ったりするんだろう。
「みんな、よくゆかりがいるからどうとかこうとか、ゆかりはどうすんのよ、とかなんとか、言い争ったり、ふきげんになったり。」
「それはひどい。」
「それで、こっちに来てからは、私を知っている友達も近所の人もいないし、このまますうっといなくなっちゃうのが私にとっても世の中にとってもいいかな、と思ってたら、時々いるはずのない人とかが見えるようになって。」
はじめは、きれいな服を着た女の人が道ばたにしゃがんでたり、スーツを着た男の人が大人のくせに塀の上に座っていたりして、変だなと思っていたら、よく見ると半分透き通って見えて、他の人は全然見えていないようで、踏んづけたりぶつかったりしてもそのまま気がつかないですたすた歩いて行くのを見たこともあり、ゆかりはようやくこの人たちは生きて体がある人たちじゃない、と気がついたらしい。
「最初、エミカちゃんが私に笑いかけてくれたときは、もしかしてついにお迎えが来たのかな、って思った。」
「やだ、私、悪い幽霊?」
エミカは思わず泣き笑いした。幽霊、か。私、そういうものなんだ。
「ううん。いい幽霊・・・って、ごめんね。」
ゆかりはあわてて否定したが、エミカは気にしない。
「どうして、私がお迎えに来た幽霊だなんて思ったの。」
「もう何だかすごく疲れちゃってて、毎日がおっくうで、よくテレビや学校で生きてるのはすばらしい、命は大事だ、とか言ってるけど、本当はそうでもないんじゃないのって思って。自殺とかされると、警察や残った家族や、周りが迷惑するから、誰でもなるべくめんどうなことはいやだから、しんどくてもなんでも、とにかく人に迷惑かけずに生きてなさい、って洗脳しようとしてるだけじゃないかって思って。ちょうどそんな時だったから、エミカちゃんが毎日姿を見せるようになったの。」
「すごい考え方をするねえ。」
エミカは思わず感心してしまった。
二人はいっしょにゆかりの家に帰って、エミカはゆかりがお弁当を食べるそばに座っていた。
「この間のジュース、やっぱり飲んでなかった?私。」
答えはわかってたけれど、一応聞いてみた。
「うん。エミカちゃんが帰ってから、私が飲んじゃった。」
「わかってて、ちゃんと出してくれたんだ。気がきくねえ。」
じょうだんまじりにエミカが言うと、ゆかりはあわてて、
「お弁当、半分食べる?」
と聞いた。
いいよいいよ、とエミカが笑い、ゆかりはふと真顔で
「いつ、気がついたの?」
と聞いてきた。
「今日ね、お兄ちゃんが帰ってきて、暴露されちゃった。」
いきさつを話すと、ゆかりはふしぎそうに、
「じゃ、誰かがあなたは本当はいませんよ、って言ったら、とつぜんわかっちゃうんだ。」
と言った。そして、
「私はいくらおまえなんかいなくていい、とか、死んでいいよ、って言われたり机に書かれたりしても全然そうならないから、やっぱり生きているんだなあ。」
と言った。
「ソウゼツだね。今のクラスの子?」
「まあ、前からもちょこちょこあったけどね。時々ママにも言われるし。たぶん本気じゃないんだろうけど。いらいらしてるときなんか、平気で言うからね、あの人は。」
ママのことをあの人というゆかりが、エミカにはすごく大人びて見えた。
「言い返さないで平気な顔してると、いくらでも言ってくる。でも、なんかさ、それが呪いの言葉になって本当にそうならないかなって期待してるところもちょっとある。」
「期待かぁ。じゃ、私もだれかにあなた生きてるよ!ここにいて!って言ってもらったら、とつぜん本物の体があらわれたりして。」
そうなったら、どんなにいいだろう。
すると、ゆかりはエミカを見つめて、言った。
「エミカちゃん、ここにいてよ。私と一緒に。」
「いいよ。今夜はここに泊まる。一緒にねよう。」
エミカがそう言うと、ゆかりはぱっと笑顔になった。
その夜、エミカはゆかりのママのふとんをしいて、ゆかりと手をつないで仲良く眠った。
次の日の朝早く、エミカはどうしても確かめたいことがあって、まだ眠っているゆかりを起こさずにゆかりの家を出た。
エミカはまっすぐ家に帰って、玄関のドアをすり抜けて、大きな声で「ただいまぁ。」と言った。
返事はなかった。
キッチンに入ると、ソファにつっぷして、ママが寝ていた。
「ママ、起きて。」
ゆすぶろうとしたエミカの手は、ママの体を突き抜けた。
ああやっぱり。エミカは悲しくなった。
気づいてしまったエミカは、ママにはもう見えない。エミカはもうママにさわることも出来ないし、エミカの声はママには聞こえない。
階段を下りる音がして、パパがキッチンに入ってきた。
エミカは今までとぜんぜん違う気持ちで、パパを見つめた。
(パパには、本当はずっと、見えてなかったよね。パパ、私に一度も話しかけてくれたことがないし、私を見てくれたこともない。)
どうして気がつかなかったのか、今となってはふしぎだけれど。
「おい、ちょっと起きろよ。」
パパは少し乱暴に眠っているママの肩をゆさぶった。ママは目を覚まして、のろのろ起きあがった。
「ちょっと話させろよ。」
パパの声が少し怒っている。何も出来ずに、エミカははらはらした。
(パパ、ママをそんなに怒らないで。)
聞こえるなら、そう言いたかった。パパにエミカが見えるなら、パパの前に立ちふさがって、パパの腕をつかんで、やめて、ママがかわいそうだよ!と叫びたかった。
「何?」
ママはパパの顔を見ようともしなかった。パパはかまわずママの前に座って言った。
「おまえ、貴之、追い返したんだってな。」
「別に、追い返したりなんか。」
「あいつ、傷ついてるぞ。しばらくこっちにいるけど、友達の家に泊まるって。うちにはもう当分帰らないって。」
「そう・・・。」
ママは、きょうみなさそうな顔をしている。
「いいかげんにしろよ。」
パパは、ぼそっと、低い声で言った。
「貴之もおれも、ずっとおまえに悪いと思っていたんだ。」
「私、に?」
「もちろん、死産した子供にもだ。」
パパの声が少しふるえた。
「あの日、貴之の小学校の運動会だったよな。おまえは体調が良くなくて、おれに仕事を休んで運動会に行ってくれって言ったけど、おれはどうしても休めなくて。貴之はだだをこねて泣いて、それでしかたなくおまえが運動会に行って・・・。」
(そうか。それで私、だめになっちゃったんだ。)
エミカは初めて自分が死んだときのことを知って、どきどきした。
「貴之は自分のせいで妹が死んじゃったって、子供ながらにずっと罪の意識を抱いていた。なのに、おまえはまるで赤ん坊が生まれてそこにいるように、名前を付けたり、服をそろえたり、貴之にずいぶんとひどいまねをしたよな。おれはいい、毎日仕事でほとんどいないし、大人だから受け流すことも出来る。でも、貴之は、がんばっておまえのままごと遊びにつきあって・・・。」
「ままごと遊びじゃないわ。」
「おれや貴之から見ればままごとと一緒だよ。」
パパは冷たく言い放った。
「貴之が、大きくなるにつれてだんだん家に寄りつかなくなって、おれがおまえにこうやって注意して、それでおまえも少しはこりて、ようやく子供のことを言い出さなくなった。」
(そうだったんだ。)
エミカは今まで見えてなかった、この家のことが少しずつわかってきた。
「それでも、わだかまりはとれなくて、貴之がわざわざ遠くの大学を受験して家を離れたのも、そのせいだ。おれもそうしろと貴之に言った。貴之が家を出たとたん、おまえ、急にさびしくなったんだろう、またぶり返して・・・。」
「ずいぶん私を責めるのね。」
ママはパパ以上に冷たい声でつぶやいた。なんだか、いつものママじゃないみたいだ、とエミカはぞくっとした。
「私、いつもだれかに言われたとおりにしてきた。期待どおりに、めいわくかけずに、人にいやな思いをさせずに。それで、エミカをなくして、それでも毎日を続けなくちゃいけなくて、どうしてもつらかったから、少しぐらいじぶんにつごうよく生きたっていいじゃないかと思ったの。でも、それもあなたや貴之はだめだって言う。そんなに、百パーセント人の期待どおり、言われたとおりに生きられる人っているのかしら。でも、もうどうでもいいの、そんなことは。」
ママは、起きあがって、パパを見つめた。
(もう、おしまいなんだもの。エミカは、もういなくなってしまったんだもの)
ママの心の声が、エミカにはよく聞こえた。
「私ももうエミカを引き留めておくのはやめるわ。だけど、あなたや貴之の期待どおりに生きるのもいや。私は、私の好きなようにさせてもらいます。貴之が家によりつかなくたって、あの子ももう大人なんだから、自分の居場所は自分で見つけるでしょう。もう、おたがい家族に期待したり、頼るのはやめましょう。それでこわれてしまうような家庭なら、こわれてしまえばいいわ。」
パパは見開いた目をぎょろぎょろさせて、何も言えずにいる。
ふと気がつくと、ママがエミカを見つめていた。
(ママ、まだ私が見えるの?)
エミカは思わず顔をほころばせてママにそっと手を振った。
「ねえ、そこに、エミカがいます。ほんとうにいるのよ。目に見えないだけ。ずっと私たち家族を見守ってくれているの。あなたも一度ぐらい名前を呼んであげて。」
ママはエミカを指さして、パパに言った。
パパは眉をひそめた。そして、何か言おうとしたがそれより早く、ママがきっぱりと言った。
「あなたがエミカをきらって、いない、いないって言うのは、本当はあなたが自分を責めているからでしょ。もういいの、自分を責めなくて。あの子が生まれて来られなかったのは、運命なんだから。だれのせいでもない。だから、そんなにむきにならないで。
あなたや貴之にはわからないけど、ちゃんといたのよ。まだそんなにおなかも大きくなってなかったけど、かすかに動くのは感じてた。だから、やっぱり魂は宿っていたんだと思うの。それを、なかったことにはしないで。」
(たましい。そうか、私、たましいなのか。ママのおなかの中で、確かに生きていた証。)
エミカはほっと息をついた。体はもうないけど、私はいたんだ、この世界に。そう思うと、エミカは少し安心した。そして、おずおずとパパのそばに行って、パパの膝に頭を乗せた。パパに、自分から歩み寄るのは、これが初めてのことだ、と思いながら。
パパの膝がびくっとした。
「え、えみか。」
パパのぎこちない震えた声がエミカを呼んだ。
(パパ、こわがらないで。私、パパやお兄ちゃんをうらんだりしてない。生まれて来られなくて残念だったけど、またいつかきっと会えるよ。)
エミカはパパを見上げてそう言った。
パパはいっしゅんエミカをしっかり見つめて、ふうっとため息をついた。優しい目だ。エミカは嬉しくなって、パパの膝に顔を埋めた。
「い、今、ここにいたぞ。女の子だ。十才ぐらいの。」
パパのうわずった声がして、そのとたん、エミカはいきなり空気のように軽くなって、空中にふわりと浮かんだ。
目をぱちぱちさせてうわごとみたいにつぶやくパパに、ママはにっこり笑った。
「あなただって、心のどこかでエミカの年を数えていたんじゃない。もう、肩の荷を下ろしていいのよ。」
パパは少しの間何か考えていた。
そして、ゆっくり顔を上げて、ママに言った。
「そうだな。」
パパはゆっくりママの手に自分の手を乗せた。
二人は照れながら、笑顔になった。
エミカはそれを、浮かんだまま、天井から見下ろしていた。そして、とても優しい満ち足りた幸せな気持ちになって、少し寂しいけれど、えへへ、と笑った。
エミカは家を出て、風のように空を飛んでいた。自分がこんなことが出来るなんて、考えたこともなかった。今なら、雲にも風にも、川の水にも、何にでもなれそうな気がした。
パパとママはもうだいじょうぶ。お兄ちゃんも、そのうちまたふらっと帰ってくるだろう。
エミカはずっと気にしていた。自分をなくして、悲しんでいるママのこと。エミカが死んでしまったのは自分のせいだと、心の底でずっと苦しんできたパパとお兄ちゃんのこと。
体もないのにどうしてずっとここにいたのか、わかったと思った。
もう、行こうかな。
でも、あと一つだけ。
ゆかりは、蒸し暑く薄暗い家の中で、扇風機の風に当たりながら、ごろんと寝そべってマンガ雑誌を読んでいた。
「ゆかりちゃん、外に行こう!」
エミカは誘った。
「外へ?何しに?」
ゆかりは眠そうに目をしばしばさせて、生あくびをした。
「お願いがあるの。」
エミカはゆかりをせきたてて、家を出て、川に向かった。
遊歩道から広い階段が河原に続いていた。
雲ひとつないお天気で、何もさえぎるもののない河原に、夏の日差しが照りつけていた。
「ねえ、ゆかりちゃん、少しの間、私を中に入れて。」
エミカはゆかりに手を合わせてお願いした。
「体が本当にあるってどんなものか、一度確かめてみたいの。」
「い、いいよ。でも、どうやって?」
ゆかりはちょっとこわそうに顔をしかめた。
「大丈夫、目をつぶって深呼吸してみて。」
ゆかりがそうすると、エミカはゆかりを抱きしめた。
ゆかりの体にエミカがとけ込んだのがわかった。
ゆかりにも、エミカが中にいるのがわかったみようだ。
エミカは、ゆかりの右手で、左手をそうっと下から上になぞった。
左の手の甲がくすぐったい。すべすべの暖かい左腕が、上の方に行くと少しひんやりする。それを右手が感じている。
なんておもしろいんだろう!エミカが右手に気持ちを集中させると、右手の感覚がほとんど全部になる。ためしに、左手に注意をうつすと、生あたたかい、汗ばんだ右手になでられているのがよくわかる。
「へえ、両方いっぺんには感じないんだ。」
エミカは感心してつぶやいた。声。のどがふるえてる。ママのちょっと上ずった声とは違う、軽くてちょっと鼻に抜ける子供の声。そうか、子供と大人と、少し声の出し方が違うんだ。のどが違うのかな。
歩き出した。右、左、あれ、足の裏がごつごつする。河原の石だ。急に頭のてっぺんが暑いのに気がつく。じりじり日差しに焼かれている感じ。わあ、日射病になっちゃう。
エミカは急いで橋の下の日陰に走った。
「走ると、歩くより息が苦しくなるんだね。」
エミカははあはあ息をはずませた。胸の奥がひりひりする。心臓がどっきんどっきんと脈うっている。
「私、体がないって忘れてたから、ぜんぶふつうに感じてると思ってた。でも、本物は全然ちがう。」
川の縁まで行って、手で水をすくってみる。
「あんまり冷たくないな。でも、やっぱり冷たいかな。」
エミカは水に両手を突っ込んだ。
ぬるぬるした石がてのひらにさわった。
「きゃあ。」
エミカは気持ち悪くて、あわてて手を出して、ぶるぶる振った。
(飲まないでよ。飲んじゃだめだよ、川の水!)
エミカの頭の中にあせったゆかりの声がひびく。
「わかってるって。」
何だか足が気持ち悪い。じわっと冷たいような、何かにさわられているような。
「あっ、靴のまま川に入っちゃった。」
(きゃあ、やめてえ、靴がくさくなるよう・・・。)
ゆかりの泣きそうな声に思わずふきだした。
鼻とのどがつながって、胸から何かがわき出すみたい。
これが、笑うってこと?
(いいから、早く出て出て!)
ゆかりに言われて立ち上がると、何だかおしりのあたりがひやっとした。
(もう、スカートまでぬれちゃってんじゃん!)
ゆかりは文句を言いながら、エミカがくつくつ笑っているので一緒になって笑っている。
スカート。ピンクと白のしましまの、すべすべしたスカート。内側がパンツになってる、短いひらひらのスカート。すそからレースがのぞいてる。二段になってるんだ。おしゃれ。
(どうだっていいじゃん、そんなの)
エミカがしみじみ着ている服を見たりさわったりしているので、ゆかりはあきれていた。
「よくないよ。私、はじめてなんだよ、ほんとに服着たの。女の子だもん。うれしいよ。」
上に着ているのは、クリーム色に銀色でうっすらクマのぬいぐるみがプリントされているTシャツ。クマの絵の首のところに、きらきらしたビーズが縫いつけてある。
「ゆかりちゃんのママが買ってくれたの?かわいいね。」
(服なんて、あまり気にしないけど、それはまあ、気に入ってるかな)
「かわいいのを選ぶところみると、やっぱりゆかりちゃんのママはゆかりちゃんが好きだな。」
(あたりまえじゃ。)
つうん、と胸が鳴った。これは、ゆかりの気持ち。気持ちが、体にも伝わるなんて。
「すごいね。心と体はつながってるんだ。」
エミカが感動しているのに、ゆかりは黙っていた。照れくさいに違いない。
「そういえば、私って、どんな服を着てたっけ。まさか裸じゃなかったよね。」
改めて考えてみると、自分が服を着ていたり、着替えたりした記憶がない。
(大丈夫、ちゃんと服着てたよ。どんなのかって言われると、ぼんやりとしか思い出せないけど、紺とかグレーとか、わりと地味っぽい感じだったと思う。)
ゆかりの説明を聞いて、エミカはやっぱりママの好みだ、と納得した。本当にママは若い頃からまじめで地味で、かたぶつなんだ。
そういえば・・・。エミカはつばを飲み込んだ。
「ね、もう一つ、お願い!」
エミカが頼むのにはわけがあった。これは、体があるだけじゃ、出来ないことだ。
(わかってるよ。たぶん。)
ゆかりの声は、ちょっとむすっとしていた。でも今は、それはふりだけだってよくわかる。
(何かおいしいもの、食べたいんでしょ。)
「正解。」
エミカはにっこりした。
食べたいものが、頭のあちこちに浮かんでは消えた。
「おすしでしょ、アイス、ドーナツ、ハンバーガーとポテト。」
(じゃ、買いに行こう。)
二人はいったん家に戻り、食器棚の奥の四角いお菓子の缶をあけて、千円札を2枚取り出した。
「いいの?勝手に使っちゃって。」
(いいの、いいの。何か必要な物があったらここから出して買いなさいって、ママが言ってた。)
「へえ、ゆかりちゃんのママって太っ腹!」
(ほったらかされてるだけだよ。)
「そうかな。だったら、ほったらかされてるのも、たまにはいいことあるね。」
(エミカちゃんたら、さっきから私のママの肩ばかり持ってる。)
「そりゃ、そうだよ。このすてきな体を生んでくれたゆかりちゃんのママのおかげで、私は今こんなに楽しい思いをしているんだもん。」
エミカが大まじめで言うと、ゆかりは何も言わず、小さくため息をついた。
そして、ぬれた服を脱いで洗濯機に入れ、新しい服を選んだ。今度は、デニムの短いパンツに、肩の出た大人っぽい黒のタンクトップと白いレースのボレロ。そして、大きな長いおさいふにお金を入れ、ハンカチとティッシュと携帯電話といっしょに赤い水玉模様のエナメルのポシェットに入れた。どれもみんなかわいくて、エミカはわくわくした。できることなら、ゆかりの持っている服や靴やバッグを、全部見せてもらいたいぐらいだった。
(準備完了!)
「最初に、どこに行くの?」
(決まってるじゃん。回転ずし!)
ゆかりはしっかりもののお姉さんみたいだった。
(エミカちゃんに、本物の体を、思い切り味わわせてあげなきゃね。)
「ありがとう。」
(うん。)
靴もちょっとヒールのサンダルにはき替えて、なるべく大人っぽい格好で、二人でまた外に出た。
子供一人で回転ずしの店に入るなんて、きっと学校では禁止されているに違いない。
でも、夏休みだから、お店の中は子供がいっぱいいた。だから、目立たなくてすんだ。
エミカとゆかりはカウンターにすわった。
(何にする?)
「まずは、まぐろ。いくら。サーモン。あ、あと、ママが食べてた茶碗むし。」
流れてくるおすしを取るのって、すごくスリルがあった。
ゆっくり流れてくるお皿も、まよっていると早く感じる。
「まさに、狩りをするライオンだね。」
エミカはテレビで見たサバンナをかけるライオンを思い浮かべた。ママと一緒にげらげら笑ったことを、つい昨日のように、それでいてうんと昔のことのように思い出す。
おしょうゆをつけて、まぐろのおすしを口に入れる。
何これ!エミカは目をつぶった。
これが、食べるっていうこと?おいしいっていうこと?
途中で舌がひりっとして、何かがのどから鼻の上までかけぬけた。
(わさびだよ。エミカちゃん、テレビのグルメ番組のレポーターみたいに大げさに感動してるね。)
ゆかりはおもしろそうにエミカのおなかのほうでくつくつ笑った。
「大げさじゃない。本当に感動してるんだよ。ゆかりちゃんがうらやましい。いつも、こんなにすてきな思いをしてるの?」
(いつもおすしばっかり食べてるわけじゃないけど。給食とか、けっこうはずれもあるよ。はずれの食べ物を残さず食べなきゃいけないのは、けっこうきつい。)
なるほど、と思ったけれど、今のエミカはゆかりのおかげで、おいしいものばかり食べていられる。なんて幸せなんだろう。
いくらは口の中で次々とぷちぷちはじけて、中からとろとろの甘い汁が出てきた。茶碗むしを口に入れてはじめて「熱い」がわかった。舌とのどがすったもんだしている。はき出すわけにもいかなくて、無理にのみこんだら、のどの奥からおなかにかけて、熱のかたまりがすうっとおりていった。エミカは感動を通り越して、ただただびっくりした。
(さあ、次はドーナツ屋さん。)
五皿ぐらい食べて、お金を払って外に出ると、ゆかりが言った。
「ハンバーガーとポテトが先じゃないの?」
(しょっぱいもののあとに甘いものを食べて、それからまたしょっぱいもの。最後に冷たいアイスでしめると、あきずにたくさん食べられるんだよ。)
さすが、ずっと体を持って生きている人は違う。そんなしくみがあったのか。エミカはすっかり感心した。
エミカたちはそれから、駅前のドーナツ屋さんでドーナツを二つ食べ、ハンバーガー屋さんでハンバーガーとポテトを食べながらコーラを飲み、最後にアイスクリーム屋さんでダブルのコーンを食べた。
エミカがママと毎週月曜日の夜に食べた、アイスクリーム。どうしてママとエミカと別々にシングルをふたつ注文しちゃいけないのかな、と時々思っていた。
本当は、ママがダブルを一つ、一人で食べていたんだ。ママが好きなチョコミントと、エミカが好きなストロベリーの組み合わせが一番多かったと思う。
「ねえ、こうして食べていて、ゆかりちゃんは味とか、感じてる?」
(う~ん、感じてるような、見ていて想像しているだけのような。でも、エミカちゃんがあんまりおいしそうに食べるから、たぶん一人で本当に食べているときより、うんとおいしく感じてると思う。)
エミカが今まで感じてきたことは、もしかしたら、テレビを見ているようなものだったのかもしれない。自分が生きていることを少しも疑いもしなかったから、そういうものだと思っていたけれど、本当は全然違う。
今までのエミカにとっての世界は、本当はママが見て、感じたことが全てだった。だから、学校のこととか、習い事のことなんて、なんとなくしか頭になかった。ママが体験していないことは、エミカは体験できなかったのだろう。
あれ?でも、だったらどうしてエミカはゆかりと出会えたんだろう。どうして今、すっかりママを離れて、こうしてゆかりといられるんだろう。
(ママから独立し始めてるんじゃない?)
エミカの疑問に答えて、ゆかりが言った。今、エミカの考えることは全部ゆかりちゃんにつつぬけらしい。
「そうか。独立か・・・。」
エミカはいつの間にか、自分にとってママの存在が少しずつ小さく、遠くなっていることに気がついた。そして、エミカにとって本当の独立が、きっともうすぐだという予感がした。
帰り道、鼻歌を歌いながら川沿いの道を歩いた。
歌うって気持ちいい。しゃべるより、ずっとうきうきする。
と、突然、背中がどん、と音を立てて、エミカは前につんのめって倒れた。
「バーカ。」
誰かがすり抜けていきながら、振り返ってそう言い捨てた。
エミカはぼうぜんとしていたのに、エミカの体が素早く動いて、足元の小石を拾って思いっきり投げていた。しかも、すごい大声でどなりながら。
「ざけんなよ、おらぁ!」
小石は、走っていく男の子の背中に当たった。
男の子は振り返ろうとして、前につんのめってはでにころんだ。
立ち上がろうとするその子は、立ち上がれずにまた地面にはいつくばって、わあわあ声を出していたかと思うと、起きあがり、そのままよろけながら走って行ってしまった。
そのときエミカは、体の中にゆかりの気配がないことに気がついた。
と、思ったら、次のしゅんかん、耳元でゆかりの声がした。
(ああ、すっとした。)
「え?ゆかりちゃん?」
エミカはびっくりして立ち上がった。
「今、いなかったよね?」
(ちょっと、試しにやってみた。体がないって便利だね。でも、気配は感じたみたい。あいつ、すごいびびって逃げてったでしょ。)
「いったい、何したの?」
(あいつの背中に乗っかって、肩を思い切り揺さぶってやった。悪霊かなんかだと思ってるよ、きっと。)
「ひょっとして、いつもいじめてくる子?」
エミカはようやく事情が飲み込めてきた。
(の、一人。一番手ってやつかな。やられてるのがエミカちゃんだと思ったから、頭に来てさ。いつもは相手にしてないんだけど。)
「意外とやるねえ。」
エミカはゆかりを見直した。はじめて会った頃は、内気で大人しく、いじめられても抵抗できない弱い子だと思っていたのに、本当はしっかり者で、かなり気が強いんだ。
ほっとしたら、両方のひざがひりひりしているのに気がついた。
「わあ、血が出てる。痛い!」
いちばんたくさん血が出ているところに指を当てたら、飛び上がりそうになった。
(そのくらいなら、洗ってカットバンはって、血が止まったら治るよ)
ゆかりは、平然として言った。
「川の水じゃだめ?」
エミカが聞くと、
(だめ!)
そくざにゆかりは答えた。
「川の水って、けっこう汚いんだよ。山の中の、きれいな川と違うんだから。」
そう、口に出して言ったのは、ゆかりだった。
エミカはいつの間にか、ゆかりの体から抜け出していた。
(ごめんね。けがしちゃって。まだ痛い?)
なんだか、いいところだけエミカが味わって、ゆかりに悪いみたいな気がしていた。
「いいの、いいの。本当の私はこっちだから。いやなことも、逃げないで受け止めなきゃね。」
そう言って、ゆかりはにこにこ笑った。
「私はあのしゅんかんが味わえただけで、じゅうぶんだよ。」
いじめっ子をやっつけた時のことだ。
「石も投げてやったし、思い切りおどかしてやった。そのうち、あいつには霊がついてる、なんてうわさになるかも。それで寄りつかれなくなるなら、めんどうがなくていいや。」
(そうだね。そうしたらきっと、ゆかりちゃんはもっと自由にのびのびやれる。そして、じきに、ゆかりちゃんのいいところ、自信があって優しくて、ちょっとのことじゃへこたれない強いところがきらきら光っているのを、たくさんの人が見つけるようになる。)
エミカが真剣にそう言うと、ゆかりは照れ笑いをして、くちびるをかんだ。
「さあ、それはどうだかねえ。」
川沿いの小さな公園の水道で、ゆかりは両ひざの血を洗い流して、たたんだティッシュでぎゅっと押さえた。
午後の日差しはまだまだ暑く、二人は木陰のベンチを探して座った。
「ねえ、エミカちゃん。」
ゆかりはきらきら光る川面を見つめながら、つぶやいた。
「さっき、エミカちゃんが私の中にいたとき、よくわかったよ。やっぱり、生きて体があるっていうのは、いいものなんだって。」
うん。エミカはうなづく。本当にそうだった。でも、きっといいことばかりじゃないよね。さっきの痛み。つきとばされた時の、いやな気持ち。そういうことも、たくさんあるんだろう。
「私、なんだかけっこうこのままうまくやって行けそうな気がしてきた。だから、エミカちゃん。」
となりにいるエミカをしっかり見つめて、ゆかりは言った。
「私が大人になったら、エミカちゃん、私の子供になって生まれてきなよ。そうして、また二人でこうして一緒にいよう。」
(ええ?そんなに、つごうよく行くかな。)
エミカは首をひねった。でも、期待させといていきなりキャンセルした神様に、お願いしてみる価値はある。もし、神様がどこかにいるのなら。
(うん。そうなるといいと思う。でも・・・。)
「エミカちゃんが全部忘れても、大丈夫、私が覚えてる。たとえ、男の子になってても、きっとわかる。」
(そしたら、犬かネコ、飼ってもいい?)
「両方飼おうよ。約束しよう。」
(やった!)
エミカとゆかりはゆびきりをした。エミカの小指に、ゆかりのあたたかい小指がからまるのがわかった。ゆかりにはどう感じているか、それはもう聞かなくていい。
ゆかりと別れて、エミカは日が落ちた藍色の空を一人で飛んでいた。
あおむけになると星が少しずつ光を増していくのがわかった。
このまま、真夜中になるまで、こうしてのんびりしていよう。月が昇るまで。そうしたら、エミカはこの町にさよならする。神様の気配がするところを、探して探して、ずっと一人で旅していこう。なんだか、わくわくしてくる。今のエミカは、世界中のだれよりも自由だ。
(エミカ。)
不意に、ママの声が空から降ってきた。
(ママにはもう、あなたが見えないし、あなたがもう帰ってこないこともわかってる。でも、まだ聞こえてるなら、聞いて。)
ママの声は続けた。
(エミカ。ほんとうは、ママが一番、エミカにごめんなさいって思っていた。
お兄ちゃんの運動会、いくらパパが出られなくたって、お兄ちゃんが泣いてかわいそうだと思ったって、エミカの命がかかってるってわかってたら、ママは家で休んでいるべきだった。ママはいつもの悪いくせで、自分ががんばれば、自分ががまんすればって思って、エミカにがんばらせて、がまんさせてしまったの。エミカをなくしてからそれに気がついて、ママが一番、エミカのことを考えていなかったんだって、一番わがままで人に自分の都合を押しつけていたんだって、自分のこと、うんと嫌いになった。)
ママの声は、優しく、強く、まっすぐエミカの心にひびいてくる。
(最初は、自分をきらいなのをごまかすために、自分をかわいそうだと思うために、一生けんめいエミカのことを考えて、エミカを生み出そうとしていたの。
それが、いつの間にかエミカはママの手を離れて、生き始めていた。
エミカが本当にいるんだって信じられたのは、エミカがいつもママのことを心配して、大好きでいてくれたからだよ。だって、ママの空想だったら、エミカはきっとママのこと怒って、うらんでいるはず。生まれてこられなくて、悲しんでいるはず。なのに、エミカはいつも幸せそうに、ママの隣にいてくれた。それに、ママに意見を言ったり、アドバイスしてくれたり、どんどん成長しているんだもの。これは絶対にママの空想なんかじゃないって、どんどん思うようになってきて、そうしたらだんだん、ママの中から自分をきらいだと思ったり、かわいそうだと思う気持ちが消えていった。エミカはエミカの心で感じて、動いて、生きている。立派にこの世界にいるの。体がないなんて、たいしたことじゃない。見えないものでも、この世界にあるものはたくさんある。)
ママ。そうだったんだ。ママは、本当に私がいること、信じてくれているんだ。エミカは嬉しくなる。
(あのあと、お兄ちゃんにメールして、ちゃんと仲直りもしたよ。それで、パパと相談して、もう少し仕事になれたら、パンを作るほうの勉強もすることにした。
パン屋さんで働くようになって、ママは何かを作るって、まず心で思うところから始まるんだなって気がついたの。作ろう、と心に決めなければ、体は動かない。心に決めさえすれば、体が動いて思い描いたものを作り出すことが出来る。それが生きているってことなんだな、って。何かを作り出す仕事って、生きていることをすごくはっきり感じられる仕事だよね。何もないゼロから、意志の力で、体を動かして、物を作り出すんだもの。
毎朝、四時頃からパン屋さんに行って、作り始めるの。すごいでしょ。ママの時間は、もう百パーセントママが使っていいって、パパも言ってくれたから。)
本当にすごい。ママがパン屋さんの仕事を始めたのは、大正解だったんだ。エミカはママ以上にわくわくしてくる。
(ママは、ちゃんと独立するの。だれかの気に入るようにじゃなくて、自分の気に入るように生きてみる。そうしたら、何かあっても、だれかのせいにできないし、だれかがママにひけめを感じることもないでしょう。それで、おたがいにしんどいときは支え合って、また一人でがんばれるように助け合えれば、それが家族なんだって思うの。
ママは、エミカと過ごせて、幸せだった。この幸せは、一生わすれない。だから、エミカも安心して、自分の行こうとしているところへ、行ってください。)
そうか。ママは独立するんだ。
エミカもママから独立してきている、とゆかりが言っていた。
でも、本当の独立というのは、他の人からではなく、今の自分自身からの独立なのだ。自分を弱くしているものや、言い訳をして先にのばしていることから、自由になることなのだ。ママの話を聞くうちに、エミカはそう気がついた。
エミカは、ママが将来自分のお店で自分のオリジナルのパンを焼いて売っているところが見えるような気がした。
ゆかりが大人になって、すてきな優しい男の人と結婚して、ある日子供が生まれて、その子を連れてママのパン屋さんに行く。
そんな光景さえ、見えてくるような気がした。
エミカは川に出た。
川の水が、さっきよりもうんとまぶしく、明るくきらめいている。月が空の真上にある。雲が晴れたんだ。
この川をずっと下っていこう、海にたどり着くまで。
川はずっと遠くまで、暗くかすんでエミカを呼んでいるようだった。
世界が動いていること、変わり続けていることを確かめに行こう。全部、見てこよう。そうしたら、もし神様に出会えなくても、きっとエミカも変わることが出来る。
そう、願いさえすれば、何にでも。
エミカはすうっと息を吸い込んだ。
心のすみずみまで、見えない力が行き渡るのを感じた。