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ママの一歩 エミカの一歩

それからまもなく、ママはうちから駅の間ぐらいのところにある、ちょっとおしゃれなパン屋さんで働き始めた。

 天然コウボの自家製パンのお店だ。看板も木彫りの手作りで、お店の中にテーブルと椅子が少しあって、買ったパンをそこで食べることもできる。パンだけじゃなくて、コーヒーの香りもただよってくる。大人の好きそうな、ママらしいお店だとエミカは思った。

 仕事は、月曜日から水曜日まで、週三日。

「月曜日は、どうせいつも夕方エミカとお買い物して、お茶するでしょう。パパは休みの日に、ママにごちゃごちゃ言われるより、一人で好きなことをして、ゆっくりしたいみたいだから。」

 ママはすっきりした顔で言い、エミカはうなずくしかなかった。

 パパとママの映画やデートは、これで完全になくなってしまうということだ。それはちょっと心配だけれど、誘ってもママはふられっぱなしなんだから、仕方がない。何より、ママが誰かに言われたのではなく、自分で決めたことなのだから、エミカは何も言わずにママを見守ろう、と思った。

 『ポルカ』という名前のそのパン屋さんを、エミカは一度学校の帰りにのぞいてみた。川沿いの遊歩道ぞいに、そのお店はあった。

ママはきちんとお化粧をして、白い上下おそろいのぱりっとした服に、ピンクと白のストライプのエプロンをつけて、頭に真っ白な三角巾を結んで、お店のカウンターの内側に立っていた。

エミカが学校から帰る四時頃はけっこうお店が混んでいて、ママはてきぱきとお客さんの注文通りのパンをお皿にのせて袋に入れていた。エミカが大好きな笑顔で。その姿は、前よりずっと元気で楽しそうに見えた。

 ママが仕事の日は、エミカはランドセルに家の鍵を入れていき、誰もいない家の鍵を自分で開けて、ただいまも言わずに入った。

 ちょっぴり大人になったみたいで、エミカは嬉しかった。

(これで、犬かネコがいて、出迎えてくれたら完璧なんだけどな。)

 ママの仕事が落ち着いた頃に、ちょっと提案してみよう。クリスマスの頃なんかがいいかもしれない、とエミカは思った。


 初めてパン屋さんのお給料が入った日に、ママは駅前の高いケーキ屋さんでおいしいケーキを二つ買ってきてくれた。

 そのお店は、雑誌にものっている有名なお店で、夕方に行くと、ほとんど売り切れてしまっているらしい。ママは朝銀行でお金をおろして、売り切れる前にいちばん高くて有名なのを買ったのだ。

「自分で働いた自分のお金で、好きなケーキを買うなんて、何年ぶりかしら。」

 ママはうっとりした顔で、おいしそうにケーキを味わった。

 エミカはママのとなりでケーキを食べながら、どうして二つなの、と聞こうとして口をつぐんだ。

 パパは、甘い物がきらいなんだった。お兄ちゃんが小さい頃は、誕生日やクリスマスにきっとケーキを食べたんだろうけど、中学生になってあまり家に寄りつかなくなってからは、誕生日もクリスマスも、うちではケーキを食べなくなってしまった。

「ママ、今度、晩ごはん回転ずしに行きたいな。」

エミカは、ためしに言ってしてみた。エミカは回転ずしに連れて行ってもらったことがない。時々お店の窓の外からのぞいてみたことがあるだけだ。お皿がベルトコンベアでぐるぐる流れてくるのがおもしろくてたまらなかった。

「そうね、こんど、二人で行こうか。」

「やったあ!」

エミカは嬉しくてはしゃいだが、よく見るとママは泣き笑いみたいな顔をしていた。なんだか、やけになっているみたいだ。仕事を始めて楽しそうに見えるけど、パパとの問題は片づいたわけではなさそうだ。一緒に過ごす時間が少なくなった分、ひょっとしたら、前よりひどくなっているのかもしれなかった。

本当は、いつもエミカと二人だけじゃなくて、やっぱりパパとも出かけたいんじゃないかな、ママは。そう思うと、エミカも少し寂しくなった。ママが寂しければ、やっぱりエミカも寂しい。

 

 梅雨に入ると、また少し涼しくなった。毎日少しずつ、道ばたのあじさいの花が大きく、色も濃くなってきた。

 学校の入り口の両側に、大きなあじさいの茂みがある。

 ある日の学校の帰りにその茂みを何となく見たとき、エミカは葉と葉のあいだにあじさいの葉っぱより鮮やかな緑の何かがくしゃくしゃになっているのを見つけた。見覚えがあるような気がして、そっと取り上げてみると、学校のプールの授業で使う、水泳帽だった。緑だから、エミカと同じ五年生のだ。

 白い部分に、大きく名前が書いてある。

「5—3 前田 ゆかり」

 聞いたことのない名前だった。

 学校に戻って職員室に届けるのもめんどうだったから、すぐわかるように、こんもりと丸い茂みのてっぺんにきちんとしわをのばして、名前を上にして置いておくことにした。こうしておけば、持ち主の子が気がついて、拾っていくだろう。

 それでも何となく気になって、しばらく帰らずに入り口のあたりでぶらぶらしていた。

 たくさんの生徒が帰っていったけど、だれもあじさいの茂みで立ち止まったり、帽子を見つけて声を上げたりしなかった。

 でも、この学校は人数が多いから、全部の生徒が帰るまで見張っているのも大変だし、もしかしたら持ち主の子のほうがエミカより先に帰ってしまったかもしれない。

 ひとしきり、下校の生徒の波がとだえて、エミカがもう帰ろうと歩き出したとき、とぼとぼと下を向いて歩いてくる、見覚えのあるすがたにを見つけた。

 あの子だった。手ぶらだったから、いったん家に帰ってからまた来たようだった。

 学校の門の近くで立ち止まり、しばらくじっとしていた。何をしているのかと思ったら、アジサイの茂みを見つめていた。

 そしてのろのろと茂みのてっぺんから、今さっきエミカが置いた水泳帽を取り上げた。

(この子が、前田ゆかりちゃん?)

 エミカは心臓がどきどきした。

 きびすを返して、足早に帰ろうとするその子を、エミカは呼び止めた。

「前田、さん。」

 驚いて振り返ったその子は、黙ってじっとエミカを見つめた。

「その帽子、あなたの?」

 エミカが重ねて聞くと、その子はゆっくりうなづいた。

「よかった。それね、私が今見つけたの。しげみのなかに押し込んであった。」

「・・・ありがとう。」

 ゆかりは、小さいかすれた声でそう言って、ぺこりと頭を下げた。

「私、エミカ。上原エミカ。」

 自分も名前を言った方がいいと思って、そう言うと、なぜかゆかりはびっくりした顔をした。

「上原・・・エミカ、ちゃん。」

「はじめまして、じゃないよね。よく会ってるよね。」

 エミカが言うと、ゆかりはおっかなびっくり、うなづいた。

「なんで、そんなにびっくりしてるの?」

 エミカがたずねると、ゆかりは照れたように、

「声をかけてくれると、思ってなかったから。」

 そう言った。

エミカは嬉しくなった。今までよく目が合っていたのは、やっぱり偶然やエミカの勘違いではなかったのだ。それがわかってほっとすると、エミカは急にゆかりが身近に感じられた。

 二人は、ならんでゆっくり歩き始めた。

「その帽子なくしたの、いつ?」

「今日、授業があった時にないのに気づいたから、今日かな。でも、先週雨でプールが中止で、教室にプールバッグ置きっぱなしだったから、もっと前かも。」

「だれかにいたずらされたの?」

「・・・かもしれない。だって、先週ちゃんと帽子もバッグに入れたの、覚えてるもん。」

「ひどいね。男子かな。」

「わかんない。」

 ゆかりちゃんは首を横にふった。

「一度家に帰って、家に忘れてないか確かめて、やっぱりなかったからもう一度探しに来てみたんだ。見つけてくれて、ありがとう。」

「うん。」

 それっきりゆかりの答えはなく、会話がとぎれてしまい、黙々と歩いているのが気詰まりだったので、エミカは話を変えてみた。

「私のうち、三丁目の坂の真ん中へんなんだけど、ゆかりちゃんちは川の方?」

 さすがに、前にあとをつけて団地も部屋番号も知っているとは言えなかったので、さりげなく聞いてみる。

「うん。川に面した土手にある、団地。」

 そう言って、ゆかりはちょっと不思議そうな顔をした。

「家、近いんだ。」

「そりゃそうだよ。同じ学校じゃん。」

「そう・・・だよね。」

 何だかはっきりしない子だなあ、と思いながら、エミカは、

「私のママね、『ポルカ』で働いてるんだ。知ってる?天然コウボの手作りパン屋さん。」

 と言った。また会話がとぎれる前に何とか話をつながなくっちゃ、と思ってのことだが、誰かにママの新しい仕事のことをさりげなく自慢したい気持ちもあった。

 ゆかりはまたちょっとびっくりして、何かを聞きたそうに口をあんぐり開いた。でも、ゆっくり口をとじると、下を向いた。

「うちのママは、電車で遠くの会社に通ってる。」

 そう言うと、ゆかりは歩きながら小石をけっ飛ばし始めた。

 エミカはこれはもうこれ以上話したくないサインかな、とちょっとむっとした。

 しばらく黙って歩いて、踏切のところまで来たので、じゃあバイバイ、と言おうとしたら、

「うち、寄ってく?」

 といきなりゆかりに言われて、エミカはびっくりした。

「いいの?」

「うん。ママは夜遅くならないと帰ってこないから。」

 そう言って、ゆかりは初めてちょっと笑ってまっすぐエミカを見た。

 きっと、黙っていた間に、いろいろ考えていたんだな。それがわかって、エミカは嬉しくなって、うん、とはずんだ返事をした。


 ゆかりの家の中は、思っていたより小さかった。

玄関を入ってすぐに、板の間の台所があり、真四角のテーブルと椅子が二つ置いてあった。

そのむこうにガラス戸があって、すりガラスの向こうにタンスや机らしいものが見えた。

 家の中はむっとした熱気がこもっていて、蒸し暑かった。

 ゆかりはまず台所側の格子のついた窓をいっぱいあけると、ガラス戸とその向こうの掃き出し窓もあけた。

窓の向こうのベランダから、さあっと風が入ってきた。

「ジュース、飲む?」

 ゆかりはランドセルを椅子に置いて、エミカに聞いた。

「ありがとう。」

 エミカは椅子の一つに座った。

ゆかりは、冷蔵庫から紙パックのオレンジジュースを出して、流しに伏せてあったコップに二つ入れて、テーブルに置いた。

エミカは奥の部屋に目をやった。

奥は畳の部屋で、洋服ダンスと机と椅子が壁側にあった。エミカの家の「女子部屋」に少し雰囲気が似ていた。

ベランダで洗濯物がはためいている。その向こうには、背の高いいちょうの木の緑と、隣の建物の灰色の壁が見えた。

ゆかりは椅子に座って、ゆっくりジュースを飲み始めた。

「学校と家、二回も往復したから、疲れちゃった。」

「だよね。」

 エミカは大いに同情した。いたずらする方はかんたんで、される方はうんと大変な思いをする。そういうこと、やっている人間はちゃんとわかっているのかな。わかっていないなら悔しいし、わかっていてやっているとしたら、すごく悪意があるということだ。

「気にしない方がいいよ。」

 エミカは、なるべく明るく、そう言ってみた。

「大丈夫、気にしてないよ。いつものことだもん。」

 え?エミカは、まじまじとゆかりを見た。ゆかりちゃん、いじめられてるの?そうはっきり本人に言うのはいけないような気がして、言葉を探していると、

「五年生になって、こっちに転校してきたから。」

 と、ゆかりは言って、ジュースを飲み干した。

「転校するの初めてで、恥ずかしくてあまりしゃべらなくなったし、友達作らなきゃ、って思うのもめんどうくさくなったから、別にいいんだ。」

「ふうん。」

玄関の方から、ぐっと西日が差し込んできた。

「ここから川の音、聞こえる?」

エミカは耳を澄ませて、聞いてみた。

「聞こえないよ。どっちかっていうと、鉄橋を渡る電車の音の方がよく聞こえる。夜はうるさいぐらい。」

「そっか。でもいいよね。自分の家から川が見えるなんて。」

エミカがそう言うと、ゆかりは目をぱちぱちした。

「そんなこと、考えたこともなかったな。そういえば、そうかも。」

「海だったらもっとおしゃれだよね。」

「そうだね。」

二人で顔を見合わせて笑った。

「ゆかりちゃん、いつも何時頃まで一人でいるの?」

「そうだな、遅いときは十時ぐらいかな。」

 エミカはびっくりした。十時って、もう寝る時間だ。

「寂しくないの?」

「うーん、少しね。」

 ゆかりはそう言ってジュースを飲み干した。

「じゃ、早いときは?」

「八時頃。晩ご飯のおかず買って帰ってきたら晩ご飯。その前におなかがすいたら、買い置きのカップラーメンを作って食べる。」

 エミカの家の感覚からしたら、八時でもじゅうぶん遅い。

「それじゃ、栄養ないんじゃない?そうだ、ママのパン屋さんのパンにしなよ。こんど一緒に行こう。野菜とか、お肉とかいっぱい入ってるやつ。」

 エミカがそう言うと、ゆかりは驚いたようにエミカを見た。

 時々、何かのスイッチが入ったみたいにゆかりはエミカをびっくりした顔で見る。

 いったい、エミカの何がおかしいんだろう。

 ゆかりは、何か言いたそうにしたが、口をつぐんだ。あまり、社交的なタイプではないようだ。さっきも、人と話すのがめんどうくさい、と言っていたし。

 でも、それならどうして初めて会ったエミカを、家にまで呼んでくれたんだろう。エミカがそう思っていたら、ゆかりはさらに大胆な提案をしてきた。

「夜までいる?」

 同じクラスでもないのに、名前もおたがいさっき知ったのに、不思議な子だ、とエミカは思う。

「ママが心配するから、今日は帰る。そうだ、明日から、踏切のところから一緒に学校に行こう。」

 ゆかりはまた何か言いたそうに口を開きかけたけれど、何も言わずににっこり笑った。

「うん、そうしよう。ありがとう。」

「じゃ、私、帰るね。ジュース、ごちそうさま。」

 ゆかりは玄関の外まで送ってくれた。二人で通路から川を眺めた。

 夕日が川の流れにきらきら反射してまぶしかった。

「この川って、やっぱり海まで流れていくんだろうね。」

 ゆかりがつぶやいた。

 エミカははっとして川面を見つめた。そうか、今ここを流れている水は、明日にはもううんと遠くに行ってるんだ。川はずっとそこにあるけど、水は一瞬もそこにじっとしていない。

 エミカは空を見上げた。まぶしい空に、すじ雲がかかっている。そういえば空気も、風になって、どこまでも遠くへ運ばれていく。

 エミカはふっと体が軽くなって、透き通ったような気がした。

 すると何だかちょっとこわいような気がして、エミカは思い切り肩をすくめて大きく息を吸った。なんだろう、誰かに呼び止められたような、この変な気持ち。

 (世界って本当はいつも動いていて、変わっていくんだ。それなのに、いつも何も変わらないで同じ毎日が続いているような気がしているから、ふしぎ。)

 そんなことを考えてしまう自分が、違う自分になった気がして、エミカはまた少しこわくなり、ぶるっとふるえた。


 約束通り次の月曜日の夜、仕事が終わってからママは車でエミカを回転ずしに連れて行ってくれた。

 お店の中はけっこういっぱいで、エミカとママはカウンターに二人で並んで座った。

 エミカはあれこれ目移りしながら決められないでぐずぐずしていたが、ママはさっさと手元のタブレットで注文した。

「ママ、何にするの。」

「茶碗蒸しと、おみそ汁。あと、卵と納豆巻き。」

 せっかくおすし屋さんに来たのに、ママったら興ざめだ。エミカはゆっくり回っているおすしを見た。

 色とりどりの、新鮮なお寿司は、ライトに照らされて今にも飛び跳ねそうに光っている。

「なんだか、生きてるみたいだね。」

「そこが気持ち悪いのよ、ママは。」

 ママはちょっとしぶい顔をした。

「テレビで、オオカミやライオンが、ウサギやシカをつかまえるじゃない。かわいそうだなあって思うけど、考えてみたら、オオカミやライオンには、今エミカやママの前にある動いてるおすしの、好きなのを選んで手を伸ばして取るのとおんなじ感覚なのかもしれない。そう思ったら、なんだかかわいそうになってきちゃって。」

「何が?おすしにのっかってる、お魚が?」

「うん。」

「ママったら、すごい想像力!」

 エミカはテーブルにつっぷしてげらげら笑った。

 エミカは、ハンバーガーやケーキやおすしが、まるで生きているみたいにアフリカの広い草原を全速力で必死に逃げて走っている姿を想像していた。

「おすしが、つかまらないように一生けんめい走ってるの、おかしい!」

「エミカの方がすごい想像力よ。」

 ママも思わず手を口に当てて笑った。

 笑いはいつまでも引きずって、なかなか止まらなかった。

 ママはお店の中で恥ずかしいわ、と言いながらもどんどん笑いのつぼにはまってきて、しまいには涙まで流していた。

エミカは久しぶりに、ママがあふれるほど笑っているのを見て、とても嬉しくなった。

(ママの笑顔、やっぱり好き!)

 おねだりして、連れてきてもらってよかった。


夏休みに入ってすぐ、お兄ちゃんから二、三日帰ってくる、と電話があった。

「全くもう、いきなりなんだから!」

ママはそうぶつぶつ言いながらも、嬉しくてたまらないようで、電話がかかってきてからは家の中で一日中、ふんふん鼻歌を歌っている。

 お兄ちゃんの部屋は、すでにパパの物置になりかかっていて、ベッドの上もぐちゃぐちゃだった。

「うちには男の子が二人もいたかしらねぇ。」

 ママはため息をついて、いつの間にか荒らされていたお兄ちゃんの部屋を元通りに片づけ始めた。

 エミカはふだん入らないお兄ちゃんの部屋をものめずらしげに見回した。見たことのないものがたくさんある部屋だった。

 リモコンでほんとうに空中に浮かぶ小さいヘリコプター、銀色のサッカーボールのトロフィー、もう何年も開いていない動物や魚の分厚い図鑑、ほこりをかぶって色あせた地球儀。

 エミカがあれこれ物色している間にママはてきぱきと片づけていった。仕上げに机の上をぞうきんでふいているとき、水色の表紙の古いアルバムを見つけて、ママはそれを開いた。エミカもわきからのぞきこんだ。

 エミカの知らない、赤ちゃんの頃のお兄ちゃんの写真がびっしり貼ってある。

 赤ちゃんのつなぎの服でベビーカーに乗って笑っている姿からはじまって、幼稚園の制服を着て、入学式にぴかぴかのランドセルをしょって、と、だんだん成長していくお兄ちゃん。

 お兄ちゃんのアルバムだから仕方がないけれど、どの写真もみんな、学芸会とか運動会とか、お兄ちゃんが活躍している写真ばかりだ。

 それにしても、パパとママとお兄ちゃんが写っているのに、エミカがうつっていないって、いったいどういうわけだろう。

(私が生まれたのって、お兄ちゃんがいくつのときだっただろう。)

 思い出そうとして、エミカは急に頭がぼんやりしてきて、うまく思い出せなくなってしまった。

年が離れているから、お互い一人っ子みたいなのは仕方がないけれど、エミカとお兄ちゃんの思い出って何だろう。

 お兄ちゃんとけんかしたこと、あったっけ。お兄ちゃんと一緒に出かけたこと、あったっけ。

「ねえママ、私とお兄ちゃんって・・・。」

 エミカがそう言いかけたとき、玄関のチャイムが鳴った。

 ママは大急ぎで階段をかけ下りた。

「ただいまぁ。」

 玄関に、めがねをかけて黒いTシャツに破れたジーンズ姿の若い男の人が立っていた。

お兄ちゃんが、四ヶ月ぶりに帰ってきたのだ。

「おかえり。」

 ママはつとめてそっけないふりをしたけど、もしエミカぐらいの年だったら、きっと抱きしめてほおずりして、頭をなで回していたに違いない。

 貴之お兄ちゃんは、エミカが一瞬、知らない人かと思うくらい、少し大人びて、背も何だか伸びたみたいだった。

「久しぶりじゃない。元気にしてる?大学はどう?」

「ああ、てきとう、てきとう。」

 ママの質問を受け流しながら、お兄ちゃんは靴を乱暴に脱ぎ捨てて、どたどたとリビングに入っていった。

「おみやげ。」

 と、お菓子の箱らしいものをママに渡してソファにごろんと横になると、お兄ちゃんは両手をうんと伸ばしてあくびをした。そして、

「なんだ、元気そうじゃん。」

 とママに言った。

「何がなんだ、なのよ。」

 ママは冷たい麦茶をコップに入れて、お兄ちゃんに出した。

「パ・・親父が、ん、お母さんが元気ないからたまには顔見せに帰って来いってわざわざメールよこすから、具合でも悪いのかと思って。」

「へえ。」

 ママとエミカはちょっとびっくりした。

 お兄ちゃんがパパを親父と呼び、ママをお母さんと呼んだのにもびっくりしたけど、パパがお兄ちゃんにメールしていたのにもかなりびっくりしたのだ。

「元気よ、仕事も始めたぐらいだし。」

「パン屋だろ。わざわざお父さんの休みの日に。」

 あ、親父をお父さんって言い直した。こっちの方が言いやすいんだな。エミカは笑いをこらえた。

(それにしてもパパったら、ママには無関心なくせに、いろいろお兄ちゃんに報告してたんだ。変なの。)

「パパが休みの日だからよ。どうせ一緒に出かけることもないんだし、家の中にふたりでいたらお互い気を遣うだけだし。」

 ママは、エミカに言ったのと同じことをお兄ちゃんにも言う。

「ふうん、ま、いいんじゃないの。」

 ママが何か話し始めると、すぐに無関心になる。お兄ちゃんったら、そういうところ、パパによく似てる、とエミカは思った。

「男同士、筒抜けなのね。知らなかったわ、あなたとパパがメールのやりとりをしているなんて。」

 ママはそれでも嬉しそうににこにこして言った。

「お父さん、心配してたよ。時々一人でぶつぶつしゃべってたり、笑ったりしてるんだって。」

「そんなことしてないわよ、失礼ねえ。」

「自分で気がついてないだけじゃないの?一日中一人で家の中にいるからさ。」

「だから、仕事も始めたんじゃない。」

「お父さん、本気で心配してたぞ。病院、連れて行こうかって相談されたときはビビったよ、おれも。」

 え?エミカは驚いた。何それ、ひどい。パパ、あんまりだよ。ママのどこがおかしいって言うの?エミカの胸の奥がざわざわする。

「ちょっと貴之。」

 ママは、せっかくの笑顔を引っ込めて、困ったような顔でお兄ちゃんを見つめた。

「もしかして、また始まったのかもしれないって、おれも思った、エミカのこと。」

「ねえやめて、今はそういうこと、言わないで!」

 ママは目をつぶって叫んだ。

 そして、エミカの耳にママの声が飛び込んできた。

(だめ!今、エミカが聞いてる・・・。)

「おれたち男にはわかんないんだよな。いつまでも死んだ妹のこと、引きずってるなんて。」

 死んだ、妹。

 エミカのこと。

(わああ!)

エミカは耳をふさいで、大声で叫んだ。

でも、ママもお兄ちゃんもエミカの方を振り返らない。

なぜなら・・・。

(これは、私が聞いてはいけないことだ。私は今、ここにいちゃいけない。)

 そう思ったのに、エミカは一歩も動けなかった。

「貴之。あんた、帰っていい!どうせもう、あんたは離れていくだけなんだから。私とエミカの生活、こわさないで!」

 お兄ちゃんの驚いて見開いた目。

 今まで見たことのない、険しい顔でお兄ちゃんをにらむママの顔。

(こわい。見たくない、こんなの!)

 どうして?せっかくお兄ちゃんが帰ってきたんだよ。楽しく、一家四人で過ごすんじゃなかったの?

(一家四人で。四人、だよね、私の家族・・・。)

 とつぜんエミカの体が自由になり、エミカはかけだした。

 外へ、まるで、風のように。


(私は、上原エミカ、五年生。の、はず。)


(私は、あの家で生まれて、大きくなった、はず。)


(私は・・・。)


 エミカの頭の中でいろいろなことが次々に浮かんでは消えていった。


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