ママのゆううつ
少し長いので、初めての連載形式にしました。
主人公は小学5年生の女の子です。童話ではありませんが、子供でも楽しめる内容です。
月曜日の夕方、いつものようにエミカとママが駅前で買い物をしていたとき、ママがふと花屋さんで足を止めた。
明日お休みのパパが、朝ゆっくり食卓に着いたときにお花があったらすてきじゃない?と言って、ママはパパがどんな色の花が好きか、エミカにテストしてきた。
エミカはパパがいつも青い服を着ているので、とっさに「青!」と答えた。
「ブブーッ!」ママは首を振った。「パパはああ見えて、ピンクが好きなのよ。ピンクとか薄い黄色、水色とか。パステル系の色が好きなんだよね。」
そうだったかな?とエミカはパパを思い浮かべた。無口でぶっきらぼうで、手の甲に毛がはえていて、指の関節が太くてごつごつしているパパ。そのパパと、ピンクや水色の花がどうもぴったりこない。パパはいつも濃い青の服を着て、車に乗って出かけていく。パパいわく、「ゲンバ」がパパの会社みたいなところなんだそうだ。
それで、ママは色とりどりのブーケの中から、ピンクのバラと白いマーガレットと、水色の名前はわからないけれどアジサイが小さくなったようなかわいらしい花の組み合わせを選んで買った。
そのあとで、エミカとママは駅前のアイスクリーム屋さんで、二人でダブルコーンアイスを一つ食べた。これは、このごろの二人の決まり事になっている。パパが休みの前の日は、仕事の人と一緒にご飯を食べに行って帰りが遅くなるからだ。月曜日の夕方、ママとエミカはちょっとぜいたくで大人の時間を過ごす。今日はダブルコーンアイスだけれど、別の日はクレープアイスだったり、ドーナツだったり、たまにはハンバーガーとポテトだったりもする。それでけっこうおなかがいっぱいになってしまうので、晩ご飯はお茶漬けとか、残り物で簡単にすませる。パパがいないとママはご飯の支度が楽でいい、と言う。
パパは土曜日や日曜日、学校が休みの祝日などは絶対休みにならない仕事をしているので、ママとエミカはきずなが深い。運動会や学芸会などの学校の行事にパパが来たためしはないし、町内会のお祭りや地域のイベントなども、いつもママと二人だけで行く。
そうそう、もう一人。エミカのうちには年の離れたお兄ちゃんがいる。この春、遠くの大学に入って、家を出て大学のそばのアパートで一人暮らしをしている。でも、もっと前から、お兄ちゃんはあまり家やママに寄りつかなくなっていた。
「男の子ってそういうものよ。」とママはため息をつく。「小さい頃はあんなにママ、ママってうるさかったのにね。」
エミカはその頃のお兄ちゃんを知らないので、ふうん、とうなづくしかない。
ママは、いつもたいてい一人で家にいる。エミカが生まれるときにとても大変な思いをして、体の無理がきかなくなったのだそうだ。エミカが学校から帰ってくると、いつも「おかえり。」とキッチンから顔を出す。
何していたの?と聞くと、「いろいろよ。」と答える。ママがするいろいろなことって何だろう。朝ごはんの後かたづけと洗濯と掃除をしたら、うんと時間が余るんじゃないだろうか。
結局、ママが選んだブーケは、一週間ぐらいリビングのテーブルに飾られていたけれど、エミカがママに聞いたところ、パパは全く花を見もしないし、きれいだね、と口にすることもなかったらしい。かわいそうに、ママの気持ちは空振りに終わってしまった。そして、ママはそのあともう二度とリビングに花を飾ることはなかった。
「今度はママが好きな色の花を飾ればいいのに。」
と、エミカが言っても、
「ママは別に好きな花とか、ないもの。」
と、ママはちょっとすねたように首を振るだけだった。
エミカは毎朝、遊歩道から大通りに出て、信号をわたるとその先の踏切もわたって学校へ行く。
最近、踏切の近くで、よく目が合う女の子がいる。
エミカの住んでいる町は、新しいマンションがたくさんある。ここ十年ぐらいの間に、どんどん建ったらしい。それも、十階以上の建物が五棟ぐらいでひとつの「○○タウン」になっていて、そういうのが町中にいくつもあるから、ほんとうにたくさん人が住んでいる。そして、子供もたくさんいるので、世の中は少子化だというのに、この町の小学校は、一学年六クラスもある。だから、友達どころか知っている子も、同じ学年でも半分もいない。
よく目が合うその子は、ランドセルにつけている学年のリボンがエミカと同じ緑色なので同じ五年生なのだが、一度も同じクラスになったことがない。なのに、いつからか、踏切のそばに来るとその子がいて、じっとエミカを見て何か言いたそうにしているので、気になって顔を覚えてしまった。それでも、名前はまだ知らない。
名前も知らないのによく知っているような気がするって、なんだか変な感じだ。たとえば、あの子が何かを落としたとする。それでエミカがあとからそれを拾って、「ねえ!」と声をかけても、その後でいったいなんと言えばいいのだろうか。ママに話すときも困る。「それでね、その子がね・・・。」と言いかけると、ママは困って顔をしかめて「その子ってどの子?」と聞くのだ。本当に名前を知らないって不便なことだ。
今朝も踏切の前でたくさんの人に交じって踏切があくのを待っていると、その子がしゃ断機のすぐそばで振り返ってエミカのことを見ていた。
エミカは無視するのも感じが悪いと思ったので、ちょっとにっこりしてみた。するとその子が何倍もにっこり笑い返してくれたので、エミカはどぎまぎして下を向いてしまった。
本当にエミカに笑い返したのか自信がなかったし、すぐに目をそらしたのを、どう思われただろうと思うと、ちょっと気まずくなった。
踏切があくと、たくさんの人がいっぺんに歩き始めたので、エミカも下を向いたまま歩き出した。あの子は先に行ったのだろうか、それともエミカが追い抜いたのだろうか?エミカはこわくて学校に着くまで顔が上げられなかった。
六月に入ると、毎日曇り空で元気のない雨が思い出したように少しずつ降った。
ママはこのごろ、何となく元気がない。キッチンのテーブルに腕を枕に顔を伏せていたり、両手で顔をおおったりしながら、時々長いため息をついてぼんやりしていることが多くなった。
その日もエミカが学校から帰って「ただいま。」と言っても返事がないのでキッチンをのぞくと、ママはほおづえをついて壁と天井の間あたりをじっと見つめたまま、おかえりも言わず、エミカの方も見ずに、
「なんかね、このままだと良くない気がするのよ。」
と、ひとり言のようにつぶやいた。
「良くないって何が?」
エミカはリビングのソファにランドセルを置いて、ママのとなりにすわって聞いてみた。
「パパとママがね。」
「パパとママが?」
「最近、あまりお話ししてないと思わない?」
ママはじっとエミカを見つめて、たずねた。
エミカは答えにつまってしまった。
パパは毎日帰りが遅くて、エミカが寝てから帰ってくることも多いし、土曜日と日曜日、それに祝日は朝早く仕事に出ていって、一日いない。パパがお休みの日はエミカが学校へ行っていて、いない。
「火曜日と水曜日は、パパとママは何をしているの?」
「パパは趣味の熱帯魚のお店に行ったり、お友達と夕方から飲みに出かけたり・・・。」
パパは熱帯魚が大好きで、玄関とリビングに大きな水槽が一つずつあって、きれいに植え付けられた水草の茂みの中を赤や黒や青の小さい魚が見え隠れしながら、涼しそうに泳いでいる。
確かにパパは休みの日は、水槽の掃除とか水替えや水草の手入れをして忙しそうだ。 時々、あんまり大がかりになりすぎて、テーブルの上もリビングの床もぐちゃぐちゃで、
ママが晩ごはんにしようとしても「今いらない。」と言うので、仕方なくエミカとママは二階の部屋にごはんを運んで行って食べたりすることもあって、ちょっと迷惑している。
「パパとママとふたりで、一緒に出かけたりしないの?」
「そういえば、しないわねえ。」
ママは天井を見上げて、またため息をついた。ママは長い髪を後ろで一つに結んで、地味な茶色いレースのシュシュをつけている。いかにも、大人しい奥さんという感じだ。服装もチェックのシャツか無地のTシャツに、ジーンズ。そういえば、ママがおしゃれをして出かけるところを、エミカは見たことがない気がする。
「それは、確かに良くないかもね。」
エミカも小さくため息をついた。ため息って、あくびと同じで、伝染するみたい。
「そういえば、お兄ちゃんは連休に帰ってこなかったね。」
ふとエミカは気がついて言った。
「そうなのよ!」
ママはとつぜん怒ったように大きな声で言った。
「アルバイトを始めたんですって。そりゃ、大学生だもの、アルバイトして自分のおこづかいぐらい稼いでもらわないと困るわ。大学の学費だけじゃなくて、アパートの家賃とか、生活費も親が全部払っているんだからね。でも、地の果てじゃあるまいし、長距離バスで二時間なんだし、一日でも二日でも、あっちでどんな様子か、帰ってきて報告するのがふつうじゃない。」
ママのため息の原因の半分は、どうやらお兄ちゃんらしい、とエミカは気がついた。
いくらもともとあまり家にいなかったとはいえ、一つ屋根の下で暮らしていたのと別々に暮らすのとは、ママにとっては大違いなのだろう。大学生のことは、エミカにはわからないけど、きっと友達もたくさん出来て楽しくやっていて、うちのことなんか忘れてるんじゃないかな、とエミカは思ったけれど、ママには言わなかった。
「パパはもう子供じゃないんだからほっとけ、何かあったら向こうから連絡してくるだろうっていうけど。」
ママは何度目かのため息をついて、両手を組んだ上にあごを乗せた。
「何かあってからじゃ、遅いのよ。」
ママは真剣な顔でそう言った。
何かって何?とエミカは聞き返そうとしたけれど、そういうことをへたに聞くと、きっとママのことだから、悪い想像がどんどんふくらんで、ますますゆううつになるに違いないと思ったから、やめた。
それより、今一緒に暮らしているパパとの問題の方が大きいに違いない。
「パパとママと、たまにはデートすればいいのに。私が学校に行ってる間にさ。私、たまには学校に鍵を持って行って、誰もいない家に帰ってきても平気だよ。もう五年生なんだから。」
クラスの友達の中で、家の鍵を持ってこないのはエミカぐらいだ。そういえば、お兄ちゃんもずっと家の鍵を持っていなかったなぁ、とエミカは思い出した。
高校の文化祭の打ち上げや、塾の授業が長引いたりして、どんなに遅く帰ってきても、ママは起きて待っていた。キッチンに灯りをつけて、家の鍵は開けたままで。エミカはもちろん、パパさえ先に寝てしまうこともあったようだ。
ママがどうしてそこまできちんと一生懸命に「お母さん」ができるのか、エミカは不思議だ。疲れたから早く寝たい、とか、ちょっと遠くに出かけて、遅くまでいたいから子供に鍵を持たせよう、などと思わないのだろうか。お兄ちゃんがそれで、ママにとても感謝したり優しくしているところは、エミカは一度も見たことがない。お兄ちゃんはどちらかというとぶっきらぼうで、パパによく似ている。
自分はお兄ちゃんに比べて手がかからない方だとエミカは思う。上を見ているから、下はしっかりするのよ、なんて近所のおばさんたちが言ってるのを時々聞くけど、そんな感じだ。
ママがお兄ちゃんを心配してため息をつくたびに、エミカはこんなため息をママにつかせちゃいけないな、と思ってきた。何がいけなかったのかはお兄ちゃんが何をしたかでよくわかっているから、たとえば電話もしないで何時に帰るとも言わないでいつまでも帰ってこないとか、ざあざあ雨が降っているのに自転車で出かけたり、などということは、絶対にしないように気をつけている。
エミカがそう言うと、ママは「考えてみる。」と言ってにっこり笑った。
エミカはママが笑っているとほっとする。エミカを見て笑ってくれると、すごく嬉しい。
次の火曜日の夜、晩ごはんをほぼ食べ終わった頃、ママはパパに言った。
「ねえ、明日、一緒に映画見に行かない?」
「え、何?」
パパは見ていたバラエティ番組のビデオをリモコンで停止して、ちょっと迷惑そうな顔でママを見た。
「何の映画?」
「それは、まだ決めてないけど・・・。」
「今、何かおもしろいのやってたっけ?」
「いつでも何かしらそれなりにおもしろい映画なんて、あるんじゃないの?」
ママの声が少しいらついてきた。エミカはちゃんとわかったが、パパは気がついていないようだ。
「何を見るか、決まったら言えよ。オレも見たいのだったら行っても良いけど、興味がないのだったらおまえ一人で行って来いよ。」
ああ、パパ、だめだよ。エミカはひっそりため息をついて、黙って成り行きを見守った。
ママの顔が、みるみる曇ってきた。
でも、パパには見えていない。もうパパはビデオの続きを見ている。
パパはいつでも、山ほどのテレビ番組を録画して、コマーシャルやつまらない部分を時間がもったいないからとリモコンでスキップして見ている。
エミカが知っている限り、パパは家にいるときはたいていテレビか熱帯魚の水槽を見ている。
そして、ママはそれを見るでもなく見ている。
パパは夢中でテレビを見ながら、時々げらげら笑ったり、水槽を、次はどんな風に水草を植え直そうか、なんて考えながら目をきらきらさせながらじっと見つめているけれど、ママはそんなパパをただぼうっと黙って見ている。
(ねえママ、ママは何が好き?何をおもしろいと思うの?)
エミカはママに聞いてみたいと思う。ママが何かに夢中になっているところって、見たことがない。
エミカの予想通り、結局次の日ママとパパは映画を見に行かなかった。
そして、日曜日になると、ママの昔からの友達が家に遊びに来た。
ママは朝から張り切って掃除をして、珍しく手作りのくるみ入りのケーキを焼いて、ランチに色とりどりのちょっと変わった野菜を入れたサラダと、厚切りベーコンを入れたトマトソースのパスタと、ほうれん草のキッシュを作った。
そしてずっと使っていなかった、花模様の高そうな外国製のコーヒーカップを出した。
「いいねえ、ママ、お客さんってうきうきするね。」
エミカが言うと、ママはほほえんだ。
「何年ぶりかしらねぇ。うちに誰かが訪ねてくるなんて。」
そういえば、エミカは友達を家によばないし、パパが家に誰かを連れてくることもない。お兄ちゃんも、エミカが覚えている限りでは、友達を家に連れてきたことはない。
「ママがお客さんが好きなら、今度私も友達を連れてこようかな。」
そう言うとママはちょっとびっくりしたようだった。
「エミカ、いるの?うちに連れてきたいお友達が。」
エミカの頭にふと浮かんだのは、なぜかあの踏切で会うあの子だった。
「まだ、わかんないけどね。」
エミカがそう言ったとき、玄関のチャイムが鳴った。
「はぁい。」
ママと一緒にエミカも玄関に出ていくと、そこにママよりちょっと背の低い、ママより色黒でショートヘアの、筋肉できゅっと引き締まった腕が半袖のTシャツから出ている、うっすら日焼けした女の人が立っていた。
「ゆきちゃん、ひさしぶり!さあ、どうぞあがって。」
ママは子供みたいにはしゃいだ声で言った。
「のんちゃん、元気そう・・・って言いたいところだけど、最近ちょっとやせた?体調悪いんじゃない?」
ママの友達のゆきちゃんは、そう言って調べるようにママの全身を見回した。
ゆきちゃんは、スポーツジムのインストラクターをしている。だから、健康のことにとても詳しく、とても厳しい。
「まぁ、あがってよ、話はそれから。」
ママはちょっとうろたえて、あわててゆきちゃんをリビングに案内する。
リビングのソファに座ると、ゆきちゃんは今度はリビングをあちこち点検し始めた。
「相変わらず、完璧にきれいにしてるわねえ。」
「朝から掃除したのよ、もちろん。」
ママは紅茶をいれながら、笑った。パパの熱帯魚関係のものやテレビ雑誌やたくさんのビデオのリモコンは、全部二階の部屋に隠してある。だから、本当に今は、お客さんを呼ぶのにぴったりな、すてきなリビングに変身しているのだった。
ゆきちゃんは結婚しているけれど、子供がいない。そして、ずっとばりばり働いている。
ゆきちゃんとママは高校の同級生で、そのころママは生徒会の副会長で、ゆきちゃんは体操部のマネージャーだった。部員じゃなくてマネージャーというところが、ちょっと変わっている。もともとゆきちゃんは、人の健康管理が好きだったらしい。それが今の仕事にも結びついている。
ママは生徒会なんて堅いところできちんと仕事をして、成績も良くって、けっこういい大学に入り、卒業してからパパと結婚するまで銀行員だったそうだ。
そんなふうにあまり接点がなかったように見えても、ママとゆきちゃんはずっと仲がいい。高校生の頃からお互いの家を行き来して、一緒に旅行に行ったり、ショッピングしてランチを食べに行ったりしていたらしい。結婚して、ママに子供が出来てからは、少しずつ会う回数が減ってしまったけれど。
ママとゆきちゃんは、きっとお互いのいいところをたくさん知っていて、そこが大好きなのだろう。だから、今でもずっと友達でいられるし、こんなに大人になっても、ママが呼べばゆきちゃんは会いに来てくれる。
ママが久しぶりにゆきちゃんをよんだのは、自分を好きでいてくれる、誰か大人に会いたくなったのだろう、とエミカは思った。やっぱりどうしても、エミカだけではママを支えきれない。それは、エミカが子供だから仕方がないことなのだろう。
ママは紅茶とケーキを持ってくると、ゆきちゃんの前に座った。
いただきます、と言って紅茶を一口飲むと、さっそくゆきちゃんは身を乗り出した。
「で、どうしたの?」
「どうしたのって、別に。」
ママは何から言い出そうか迷っているように口ごもった。
「そういえば、貴之君、家を出たんだっけ。ゴールデンウィークには帰ってきたの?」
ゆきちゃんは賢く、お兄ちゃんのところから探りを入れる。とても聞き上手だ。仕事できたえているのかもしれない、とエミカは感心した。
「ぜーんぜん。なしのつぶて。」
ママは力をこめて否定した。
「ふうん。じゃ、ダンナさんは?」
ゆきちゃんは順を追って、話を進めていく。
「それがさあ。」
ママはゆきちゃんの誘導に、心地よく心を預けた。
「なんか、今までと全然違うの。家の中が。」
エミカは大人の話の展開を聞こうと、リビングとキッチンの間のカウンターの椅子に座って、おとなしく聞き耳を立てた。
「そりゃ、家族が一人家を出たんだもの、当然じゃない?」
ゆきちゃんはケーキを口に入れながらさばさばと言った。
「でもね。このごろ思うんだ。私たち、これからだいじょうぶかなぁ、って。」
うわっママ、いきなりそこまで言っちゃう?エミカはどきどきした。
「ゆきちゃんちは、ずっとだんな様と二人で暮らして来たでしょう。二人の時間って、どうやって過ごすものなの?やっぱり、それぞれが別々のことをして過ごすの?」
「そりゃ、それぞれが好きなことに夢中になる時間もあるし、たまには二人で同じことをして過ごすこともあるよ。」
「同じことって?」
ママは身を乗り出した。
「買い物に行ったり、ごはん食べに行ったり。」
ママはうつむいて、ひっそりため息をついた。それは、ふだんエミカとしていることだ。
ママは、エミカと過ごすみたいにパパと過ごしたいのだ。だけど、パパはママの方を見ていない。ママはそれがさびしい。パパは、ママはどうせエミカと楽しくやっているんだろう、と思っているだろうけれど、エミカだけではお兄ちゃんの抜けた穴を埋められない、ということに気がつかないでいる。
「うちはいつもあの人はあの人の好きなことをして過ごしてるだけだわ。」
「のんちゃんも、好きなことをしないの?」
「好きなこと?」
それはエミカもふしぎに思っていた。ママは何か好きなこと、ないのかな。ママの答えが聞きたくて、エミカは身を乗り出した。
「そんなの、特にないな。」
しばらく考えて、ママは答えた。ゆきちゃんはぷっと笑った。
「そうだよね。のんちゃんはいつも、今やるべきことだけにむちゅうになるタイプだから。学校にいるときは、勉強や生徒会に一生懸命で、就職したら、仕事に一生懸命で、結婚して子供が生まれたら、子育てに一生懸命で。」
エミカは、なるほど、と思った。そうか、そういう人なんだ、ママって。さすが昔からママを知っているゆきちゃんだ。
ママはゆきちゃんの言葉をすなおに受け止めたようだ。
「そうかも。私って実は、いつも本当にやりたいことなんてないまま、この年まできたのよね。」
ゆきちゃんは、ママを軽くにらんで、宣言した。
「外で働きなよ。それか、犬かネコでも飼えば?」
「え・・・。」
気弱そうな顔でママはゆきちゃんを見つめた。
「やりたいことなんて、無理して見つけるものじゃないし、のんちゃんの場合、責任感だけは人一倍で、それがすべてのやる気のもとなんだから、そこを刺激するのが一番だよ。」
エミカは両手をぎゅっと組んで、叫びたいのをがまんした。ゆきちゃん、ナイス!どっちもすてきなアイディアだ。
ママが外で働く。きれいにお化粧して、毎朝さっそうと家を出ていく。そして、夕方は生き生きした顔で帰ってくる。お金もちょっと余裕が出来て、エミカのおねだりもかなりの確率で成功するかもしれない。
うちで、犬かネコを飼う。犬がいいな、散歩が出来るから。ネコもかわいいな、だっこできるし。わあ、すてき。どんな種類がいいかな。ママと一緒にペットショップで選ぶ姿が目に浮かぶ。でも、捨てられたかわいそうな子を拾ってくるのもすてき。お兄ちゃんの代わりに、また家族が増えるんだ。ママはきっと、生き生きと世話を焼くことだろう。ごはんはかりかりのフードじゃなくて手作りで、服なんか作ってあげたりして。
どうせなら、全部がいいかもしれない。仕事と、犬と、ネコと。ママはてんてこまいの忙しさで、ため息をつく暇もなくなるだろう。
そこで、エミカはふと思った。パパの生活は、変わるだろうか。結局、パパとママの問題は、解決しないままなんじゃないだろうか。
ゆきちゃんがうちでお昼を食べ、たくさんいろいろな話をして帰っていくと、ママはぽつんと一人でソファーに座ってしばらくぼうっとしていた。
エミカはそんなママに声をかけづらく、黙ってそっと見守った。ママ、決められないのかな。ママはいつも人の意見を聞いて、たいてい自分じゃなく他の人の意見でものごとを決めるから。
(ママ、外で働きなよ。どこがいい?お花屋さん?スーパーマーケット?昔みたいに、銀行で働くの?ママ、犬飼おうよ。私、柴犬がいいな。茶色いの。ネコだったら、真っ白か真っ黒がいいな。)
エミカはママにいろいろ言いたくてたまらなかった。でも、がまんして言わないでいた。
ここは、ママが決めるところだ。ここでエミカがいろいろ口を出したら、またママは「自分で決める」ことが出来なくなってしまう。
ママが何をどう決めるか、エミカにはわからないけれど、きっと少し何かが変わるだろう。それでママの笑顔が増えるなら、エミカは嬉しい。
雨がやんで、急に真夏のように暑くなったある水曜日の午後、学校の帰り道、エミカはあの子に会った。
朝登校の時ではなく、帰りに会うのは初めてだった。
その子は、一人でずんずん歩いていた。 踏切をわたると、その子はエミカの家と反対の道を曲がった。エミカは、声をかけることもせずに、でも、そのまま家に帰ることもできずに、その子の後ろをだまってついていった。
その子は時々、右手をぐいっと曲げて上に回した。
それが、涙をふいているんだ、と気がついたら、エミカはもう磁石みたいにその子から離れられなくなってしまった。
川沿いの遊歩道をしばらく歩いて、灰色のコンクリートの団地の入り口を、その子は入っていった。
その団地は、建ってから三十年もたっている古い団地で、住んでいる人の半分以上がお年寄りだとママが言っていた。駅の近くの新しいマンションに比べて、五階建てでこぢんまりしていて、エレベーターもない。
その子は五棟ある建物の真ん中の、三号館の階段を上り始めた。
エミカはいっしゅんどうしよう、と思ったけれど、その子に吸いついてしまったみたいに、そっと足音を忍ばせて階段を上った。
四階でその子は廊下に出て、二番目のドアの前で立ち止まった。そして、ランドセルから鍵を出して、銀色のドアノブにつっこんでがちゃがちゃ乱暴に回して、ドアを開けると中に入ってばたん、とドアを閉めた。
エミカは階段の踊り場に一人で取り残されてしまった。
(私ったら、何してるんだろう、こんなところで・・・。)
エミカはゆっくり周りを見回した。ところどころにしみやひび割れのある灰色の壁があたりを囲んでいる。そしてかすかにいつもとちがう何かのにおいがした。
それぞれの家から、食べているものや、使っている洗剤や、たばこや香水や、いろいろな人が使っているものの、いろいろな家のにおいが少しずつもれて、漂ってくるのだ。
いやな感じではない。何となく、あたたかいにおいだ、とエミカは思った。薄暗い、ちょっと寂しい感じと、誰かしら人がいつもいる、ほっとする感じ。
エミカの家は一軒家なので、こういうにおいはしない。ここは、小さな窓や換気扇が廊下や階段に向かっていつもあいているから、きっといつもこんなふうなのだろう。
エミカは、思い切って踊り場から廊下へ進んで、その子が消えたドアの前に立った。
廊下に突き出た窓の格子に、傘が二本かけてあった。
表札があったけれど、何も書いていなかった。
さすがにチャイムを鳴らしてまで声をかける気にはなれず、エミカはこのまま家に帰ることにした。
(だいたい、おかしいでしょう、名前も知らないし、話をしたこともないのに。)
エミカは、何だか急に自分が不審者か何かになったようで、悪いことをしているような、恥ずかしくていたたまれない気持ちになってきた。
逃げるように戻ろうとした時、廊下の手すりの向こうに、久しぶりの青い空が見えた。 団地の向こうは川で、さえぎるものが何もないので、空がすごく広かった。
あの子はいつも、こんな空を見ているんだ。エミカはすっかり見とれてしまった。
こんど、あの子に話しかけてみよう。エミカはそう心に決めた。こんなふうに、こっそり追いかけてくるぐらいなら、よほどその方がいい。
家に帰って玄関のドアを開けると、いきなりママの上ずった大きな声がリビングから響いてきた。
「それじゃあ、私の好きなようにさせてもらいますから!」
「ああ、そうしろよ。いちいちめんどうくさいな。」
パパの太い声もちょっといらついている。
エミカはそうっと「ただいまぁ。」と声をかけると、二階の自分の部屋に引っ込んだ。夫婦げんかのとばっちりを食ったらたまらない。
ママのたんすが一つと、ドレッサーも置いてある、いわば「女子部屋」のそこは、家の中でいちばんしずかなところだ。
エミカは床にごろんとあおむけに横になって、目をつぶって耳を澄ました。
緑の葉っぱの柄のカーテンの隙間から、まだ少し日が差し込んでいる。
この部屋は、リビングの真上にあり、こうして寝ころんで床に耳をつければ、パパとママのやりとりが、筒抜けで聞こえるはず。
でも、かすかに聞こえてきたのは、食器を洗うがちゃがちゃという耳障りな音だけだった。
なんだぁ、もう終わり?けんかにしちゃ、やりとりが少ないんじゃないかな。エミカはひょうしぬけしてしまった。エミカが帰ってくる前にさんざん言い合った後だったんだろうか。それとも、パパとママはもうけんかでさえも、二人で話をするのがいやになっているのだろうか。そう思うと、エミカは悲しくなってきた。
ママはゆきちゃんに言われて、何か仕事を始めようかと思って、パパに相談したんじゃないかとエミカは思った。そしてパパに、いつものようにどうでもいいような、そっけない返事をされたのだろう。
エミカは犬かネコの方がよかったので、ちょっとがっかりした。ひょっとしたら、ネコにパパの大事な熱帯魚をいたずらされると思って、ママはあきらめたのかも。犬はどうしてかな。ひょっとして、ママは犬やネコがきらいなのかな。あれ?ママは好きなことはなくてもきらいなものはあるのかな。でも、ママは優しいから、犬もネコもきらいじゃないはず。じゃ、やっぱり、きらいなのはパパの方かもしれない・・・。
なんだかきゅうに眠くなって、エミカはそのままとろとろ眠ってしまった。