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京都にての物語

恵美須神社~笑顔のご利益~

作者: 不動 啓人

――お父さんもえびす様もなにが楽しくて満面の笑みを浮かべているのだろう。

 葛城千里かつらぎちさとはその笑顔からの連想として、憎たらしい、日常の千里を取り囲む悪意の嘲笑を思い出し、父親に対してもえびす様に対しても腹立たしくなって、八つ当たりとばかりに父親の予定外の行動を強くなじった。

「なんでこんな所に寄るの?早く行こうよ!」

 千里にこんな所、といわれてしまったのは、大和大路通沿いにある恵美須えびす神社。父親の早太そうたに母親の玲子れいこ、そして千里の葛城家一行は、家族旅行として未だ吹く風も肌に刺すような冷たさの二月の京都を訪れ、この日は四条通を東山へ向かうべく歩いていたのだが、南座を過ぎたところで突然早太が南に進路を取り、偶然通りがかった恵美須神社の境内に入ってしまったのだ。早太は相変わらずの笑顔で、

「立派な、えびす顔だ」

 と聞いているのかいないのか、境内に安置されている釣竿と鯛を手にした一般的な造形のえびす像を眺め、細い目を更に細めて楽しんでいる様子だった。玲子のとりなしもあり、千里は仕方なく手提げ鞄からガイドブックを取り出して、恵美須神社のページを開いた。

『「えべっさん」の名で親しまれる、日本三大ゑびすの一つ。建仁寺けんにんじの開祖である栄西えいさい禅師が宋からの帰国の際に嵐に見舞われるが、波間に現れたえびす神に一心に祈ったところ嵐が収まったことから、これに感謝した栄西禅師が建仁二年(一二〇二)建仁寺建立にあたり、その鎮守社としたのに始まる――境内には財布塚や名刺塚がある。』

 千里は両親に聞かせるように事務的に読み上げ終えると、一つ大きく溜息を吐いた。

「嵐なら私も巻き込まれてますよ」

 と、両親には聞こえないようにボソッと呟いて、また溜息を吐いた。

 二十五歳になる千里は地元の中小企業で事務職として働いているのだが、人間関係が上手くいっていなかった。簡単にいえばあるきっかけを以て職場に同僚の女性による二つのグループが生まれ、当然のようにこの二つのグループの仲は思わしくなく、同じ職場で働いている以上どちらかのグループに属しなければならないような雰囲気の中、千里はなんとなく烏合したくない気持ちからどちらのグループとも距離をとった結果として、どちらのグループからも目の敵にされる破目になってしまったのだ。今のところは明確ないじめ行為はないのだが同僚の千里に対する嘲笑は明らかで、その嘲笑がやがてエスカレートし具体的な行為となるのではないかという危惧が千里を悩ます種だった。千里の感覚からすれば、その状況はまさに我が身に訪れた嵐だった。いつ大波が襲ってくるかと一人身構える日々であった。

 恵美須神社の境内はそれ程広くはない。大和大路通側から鳥居を潜ると、正面に本殿がある。その手前にはもう一つ石造りの鳥居があり、その鳥居の額束がくづかには満面の笑みを浮かべたえびす様の顔が掲げられていて、まるで参拝者をえびす様が迎えるような演出効果があった。境内入ってすぐの右手にはガイドブックにもあった財布塚と名刺塚があり、一家は珍しげにそれを眺めてから、左手に社務所を見つつ本殿の前に立った。

 えびす様といえば七福神の一柱として有名で、そのご利益は商売繁盛に家運隆昌。葛城家は一般的なサラリーマン家庭なので願うならば家運隆昌ということになるだろうが、千里は栄西禅師に倣い我が身を襲う嵐を収めてくれるよう願った。

 参拝後、早太は本殿右手にある天満宮を覗き込んでいた。千里と玲子は本殿前に残ってその早太の姿を見つつ、青空の下の境内を見渡した。

「ここに寄るってお母さん聞いてた?」

「いいえ」

「なら、いつもの気まぐれだね」

 早太は気まぐれな行動を起こすことがままある。血液型で分別するならば、まさにB型タイプそのものだった。とはいいつつ早太をなじる千里もB型で、グループに属したがらないマイペースな性格は巷に流布しているB型気質そのものだった。

 呆れる千里の横で、玲子がくすりと笑う。

「そうではないかもよ」

「どういうこと?」

「だって、最近あなた全然笑わないじゃない。なにかずっとイライラして。更年期には早いわよ」

 冗談めかして語る玲子の言葉には、あくまでも子離れした一定の距離感を保つが、幼き頃と変わらぬ愛情を充分に含んでいた。だが千里には、その愛情が気まずかった。家に帰って荒れるようなことをしたつもりはなかったが、努めて隠そうと明るく振舞うこともしなかった。親に心配を掛けさせてしまったかという想いが、とても気まずかった。だからこの場では努めて笑顔を浮かべた。

「更年期って、酷いなぁ。別になにもないよ。至って平穏」

「そお?ならいいけど」

 玲子も微笑んで、視線を早太に向けた。

「千里はいつも笑っているお父さんは好き?」

「突然、なに?」

「今の千里はどう思ってるかなと思ってさ」

 千里は答えに困った。幼き頃、いつも優しい笑顔を浮かべている早太は大好きだった。けれど大きくなるにつれ、その優しい笑顔は必要以上の媚にも似た薄っぺらな笑顔へと受け取り方が変化し、頼りなさの象徴であるように思えた。その思いは今も大きく変わらず、だから好きかと問われれば、嫌いとまではいかないけれども、好きではなかった。

 答えぬ娘に、母は思い出すように語る。

「お父さんは昔からあのまんま。だいぶ前になるけど、一度お父さんの会社に勤めていた方から葉書が届いたの。その方は色々事情があって会社を辞めたらしいんだけど、自分が精神的に追い込まれた時にお父さんの笑顔で救われたって書いてあったの。その感謝状。お父さんはいつもマイペースであんな感じじゃない?でも、それって実はちょっと自分を見失いそうな人間にとってはありがたい存在でもあるのよ。なんせどんどん周りが変化していく中で、変わらない存在であるんですもの。――お母さんもそうだったなぁ。お父さんってまるで灯台みたいな人。周りがどう変化しようが、まるであのまんま。そして変わらない笑顔を向けてくれるの。本当に明るい笑顔」

 玲子は千里を見て、私はお父さんの笑顔が好きと微笑んで告げた。

「お父さんも、周りの人が笑っているのが好きなのよ。だから千里をここに連れてきたかったんじゃない?福を呼び込むのは笑顔だよってね。笑えって」

 玲子は微笑を湛えたまま、千里の冷えた右頬を軽く摘んで口角を上げるように揺らした。

 千里は――笑った。ただ今はまだ、母親を気遣っての笑顔だった。正直言って、単純に父親のように、そしてえびす様のように笑っていれば福が来る――全ての問題が解決されるとはとても思えなかった。それでも、確かに隙を与えまいと身構えるばかりに笑顔を忘れすぎていたという思いはあった。自分が他者を警戒すればするほど、その警戒する雰囲気は他者に伝わってしまい、かえって自分への警戒心を招いてしまう。こんな状況を断ち切るには、どちらかが警戒心を解かなければいけない。それを他者に求めるのは頼りのない話であり、自分でどうにかできるのは自分でしかいないのだから、ならば現状を打開したいと願うのであれば自分から警戒心を解いてしまうしかない。その一歩が笑顔であるというのであれば、母親の言う通り父親が意図してこの恵美須神社に千里を連れてきたというのであれば、少しは父親の言わんとすることがわかったような気がした。

 そんな千里の思いも素知らぬ振りで、早太は一人本殿横の通路をどんどん進んで、しまいには姿が見えなくなってしまった。本当にマイペースで、玲子が苦笑いを浮かべるのに併せて千里は心より笑ってしまった。


 一度本殿前に戻ってきた早太が今度は左の通路に姿を消してからすぐ、千里と玲子を呼ぶ声が聞こえてきた。二人は最初通路を覗きこみように見てから、手招きする早太の元まで歩いた。そるとその本殿の側面には注連縄が張られ、一枚の板の下に賽銭箱が設置されていて、板の右部分に『この板を叩いてお参りください』と手描きの張り紙が貼ってあった。一家はこれがなにか解らず色々と勝手な推論を述べていたが、幸いにも地元の女性が通りかかって教えてくれた。

「えびす様は耳が遠いと言われているので、ここからちゃんと願い事を聞いて頂けるようにお参りするんですよ」

 なるほどと納得した一家は、板を叩いて改めて願いを籠めた。千里の願いは、上手く嵐を収められますように、と。

 一家は恵美須神社の境内を出て再び大和大路通を南下し、途中左折して東山へ向かった。

 歩きながら、千里はふと思い付いて両親に声を掛けた。

「えびす様の耳が遠いって本当かなぁ」

「どうして?」

「誰かさんみたいに、聞こえない振りをしてとぼけているだけじゃないの?」

 玲子は明らかに早太の顔を一瞬見てから噴き出した。その一瞬の間の絶妙さに、話を振った千里も噴き出してしまった。

 早太は一人取り残された感じで困ったような表情を浮かべていたが、やがて顔に刻まれた笑い皺を深めて、妻と娘を優しげに見詰めた。

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