第5話・・『少女は夢見る』
「赤い糸についての情報が、手に入ったのよ」
この知らせに、俺のテンションは一気に上昇する。
「赤い糸の情報って……ひょっとして糸ほどく方法が見つかったのか!?」
俺のあまりの喜びように佐倉は少し申し訳なさそうな顔をした。
「そこまで具体的な情報じゃないんだけど……。うーんとね、赤い糸の情報っていうより“赤い糸の情報に近付くための情報”って感じかな」
「なんかややこしいな……。で、何?」
「あのね、私、部活の後輩に長岡由紀子ちゃんって子がいるの。それでね……」
「ちょっと待った」
俺は右手を挙げて佐倉の言葉を遮った。何とも初歩的な質問が頭に浮かんだからだ。
「お前って何部だっけ?」
「………。」
佐倉はひどくげんなりした表情で言った。
「一応、テニス部の副部長なんですけどね。クラスメイトの部活くらい覚えといてよ」
「んなこと言われても覚えてないもんはしょうがないだろ。じゃあお前は俺が何部か即答できんのかよ」
俺に反論され、佐倉は自信満々に言った。
「当たり前よ。えーと、確か……バスケ部でしょっ?」
「………。」
「えっ……もしかして間違ってた?」
「一応、陸上部の平部員なんですけどね」
さっきの佐倉の口調を真似て言い返してやった。
真似された本人は少し気まずそうな苦笑いを浮かべて詫びる。
「ご、ごめーん……」
「あぁそれよりも、そのテニス部の後輩の何とかさんがどうしたって?」
赤い糸のことを思い出し、話題を元に戻す。
佐倉はまた落ち着いて話し始めた。
「うん。実はね、今日の朝、家の前で偶然その長岡さんと会って、いろいろ話しながら一緒に学校まで来たの。それで私、情報収集のためにと思って、誰か知り合いにこの中学の卒業生はいないかって聞いてみたのよ。そしたらね……」
ここで一旦息継ぎすると、嬉しそうに一気に言った。
「何と! 長岡さんのお母さんがここの卒業生なんだって。しかも、30年前のね」
「マジ!?」
30年前といったら、あのオヤジ妖精が間違って例の2人を糸で結んでしまった頃の年だ。
「だから今日の放課後、長岡さんの家に寄っておばさんからいろいろ話を聞かせてもらおう思って。長岡さんに頼んでみたらOKしてくれたわ。もちろん藤原くんも来るわよね」
「おう」
俺は意気込んで頷いた。
もしかすると、何か赤い糸の重要な情報を聞くことができるかも知れない。これで喜ぶなと言うほうが無理だ。
「……あ、でも」
俺はあることに気付いた。
「俺たち今日も放課後、文化祭実行委員の仕事があるんじゃないか? それにお互い部活だってあるし」
「あら藤原くん忘れてるの?」
「へ? 何を」
「今日から文化祭準備期間だから運動部の活動は一切休止なのよ。……まぁ確かに委員の仕事は少し時間がかかるかもしれないけど、できるだけ早めに片付けて、長岡さんの迷惑にならない時間に行きましょう」
文化祭準備期間の特別ルール──すっかり忘れていた。
うちの中学校には、文化祭の1週間ほど前から運動部は休みになるという決まりがある。そのぶん文化祭の準備に情熱を燃やせ、ということだ。
一応毎日部活を楽しんでいる俺にとっては嬉しくない決まりだったが、今回ばかりは好都合だ。
「それじゃあ今日の放課後、決まりね?」
佐倉が学級会の司会者みたいに言う。
こうして今日の放課後、赤い糸の情報を聞くために30年前の卒業生を訪ねることが決まった。
その時、まるで俺たちの話がまとまるのを待っていたかのように、予鈴が鳴った。昼休み終了5分前を告げるチャイムだ。
「あ、そろそろ教室に戻らなきゃ」
佐倉は何ともなしに言ったが、俺は教室という単語を聞いて、ここへ来る前の「告白よ」「告白ね」の状況を思い出し1人青ざめた。
「うっわ……教室入りづれぇ……」
「え? なんでぇ?」
急にマリンブルー色に染まり始めた俺の顔を覗き込むようにして、佐倉が言った。
どうやら彼女は、またもや全くわかっていないらしい。幸せな性格だ。
「あのなぁ! 俺たちはクラスの皆に、その……こっ、告白のために体育館裏へ行ったって誤解されてんだぞ!?」
言いたくもない単語のところで少しどもってしまったが、それを聞いた佐倉は俺以上に派手につっかえた。
「えぇ!? こ……ッこここここ告白!? 嘘っ!?」
「お前あの状況で全然わかってなかったのかよ……」
「だ、だってそんなのわかるはずないじゃない……! あっ、だからあの時みんな妙にひそひそしてたの!?あぁもう最悪! 恥ずかしくて教室入れないわよ!」
俺はマリンブルーだったが、佐倉は茹でダコのような顔色だった。ショックなのはわかるが、あの時の教室内の空気に気付かなかったのもどうかと思う。
戻りたくない気持ちはやまやまだったがこのままだと本鈴が鳴り授業が始まってしまう。2人そろって授業にまで遅れたら、それこそ何を言われるかわかったもんじゃない。
俺たちは重い足を引きずりながら、校舎へ戻った。
意を決して教室のドアを開けると、クラスメイトの視線が突き刺さり、囃し声が一斉に飛び交う──と思いきや、意外にもからかう奴はいなかった。噂話の好きそうな女子何人かが何か聞きた気にこっちをチラッと見たものの、それ以外はごく平和ないつも通りの教室の風景だ。
俺と佐倉はホッと安堵の溜息をついた。
「よかった。もうみんなこの話題には飽きたのかしら」
「みたいだな。飽きっぽいクラスでよかったよ……」
妙なところに安心感を持ってしまった。
ホッとしていると、クラス1の笑い上戸男が肩を叩いてきた。
「よっ宏樹。上手くいったのか?」
「松本。あぁ、さっきは素晴らしいきっかけ作りをありがとよ」
俺が皮肉ったことにも気付かず、松本は「やっぱり俺の協力のおかげだよなぁ」などと満足そうに1人で頷いている。
「感謝しろよ宏樹、おまえらが出てった後、俺がクラスのみんなに説明しといてやったんだから」
「お前が?」
「あいつら、告白だカップル誕生だーとか今にも祭りでも始めそうな騒ぎだったからよ、俺が言っといた。宏樹は佐倉に謝らなくちゃいけないことがあって、それで呼び出しただけだって」
どうやら騒ぎが収まったのは、クラスの飽きっぽさではなく松本のおかげらしい。
さっき崩れた友情の素晴らしさが少しだけ修復された。
「そうだったんだ、サンキュー松本」
「ありがとう松本くん」
隣の佐倉もホッとしたように礼を言った。
すると松本は佐倉の方に向き直りニカッとして、
「佐倉も、こんな奴と一緒に委員やることになって大変だと思うけどさ、まぁ根はいい奴だから仲良くしてやってな」
とまるで母親みたいなことを言い出した。
「は? 松本、何言って…」
慌てる俺をよそに、佐倉はいつもどおりの笑顔で答えた。
「うん」
完全置いてけぼり状態の俺の傍で、2人はにこにこ顔で頷きあった。
……なんか腹立つなぁ。
「あーぁ、終わんねぇ……帰りてぇ……」
「ほら、さぼらないで手ェ動かす! さっさと終わらせないと長岡さんのトコに行くのが遅くなっちゃうわよ」
佐倉の声が響き、俺はしぶしぶ手を動かす。
放課後の教室。俺たちはまたしても委員の居残り作業にあくせくしていた。
本日の仕事は『メニューの絞りこみ』。メニューというのは、俺たち2年3組が文化祭の出し物としてやる『他とはひと味違うぜタコヤキ屋』のメニューのことだ。ただ普通に売るのではなく少し変わったタコヤキを売る、という店なので、当然様々な種類のメニューが必要となってくる。
そのオリジナルメニューのアイデア募集のためにクラス全員に書いてもらったアンケート──うちの担任はなぜかアンケート好きだ──の中からどれを採用するか決めるのが今日のノルマだ。これが意外と難しい。
「ふーん。チョコレート入りタコヤキはまぁまぁおいしそうね。キムチ入りタコヤキなんて売れるかなぁ……うぇ、納豆入りだって。誰よこんなの書いたの」
「つーかすでにタコヤキじゃねーよ、それ」
アンケート用紙と睨めっこしながらどんなメニューが売れるか、なんて考えていると、だんだん頭の中がタコヤキで埋め尽くされていくような気になってくる。もう当分、タコヤキは食いたくない。
そもそもタコヤキ屋をやる、ということは2週間以上前のホームルームで決まっていたのだから、もっと早くメニュー決めの作業に取りかかればよかった。何しろうちのクラスはエンジンがかかるのが遅い。
その分これから1週間、きっと死ぬほど忙しくなるだろう。そう思うとつい、ため息が出る。
そして、何とか良さそうなメニューを十数個選び抜き終わった頃にはもうかなり遅い時間になっていた。
「うわぁ、もうすぐ6時よ。結構時間かかっちゃったね。急がないと」
「あぁ。話聞ける時間がどんどん減ってくしな」
佐倉がアンケート用紙を几帳面にぴっちり揃えて片付け(最初、俺はバラバラのまま鞄に押し込もうとしたのだが彼女にはそれが耐えられないらしくすばやく奪われてしまった)、俺たちは急いで教室を出ようとした。
「……あ」
「どうしたの藤原くん」
入り口近くで急に止まった俺を佐倉は不思議そうに見た。
「あのさ、一応妖精に報告してから行かない?」
「え? 報告って?」
「赤い糸の情報が手に入るかも知れないってことをあのオヤジ妖精に報告したほうがいいと思うんだ。ほら、あの妖精かなり自分のこと責めてただろ。だから、俺たちは順調にいってるってことを知らせて喜ばせてやろうぜ」
幸い、付近に人のいる気配はない。妖精を呼び出すには絶好のタイミングだ。佐倉は時計を少し気にしたが、
「そうね。妖精さんに報告してから行きましょう!」
と頷いてくれた。
確か妖精の話だと「昨日と同じ時間にこの教室で私の事を呼んでくれれば、私は現れる事が出来る」らしい。時間は昨日とほぼ変わりないし、あとは彼の名前を呼べば問題ないはずだ。
「おーい、オヤジー!」
俺の声が空しく教室に響いたが、妖精は現れない。
佐倉が俺を睨みつけた。
「だめよ“オヤジ”だなんてそんな呼び方……。ちゃんと“妖精さん”って呼んであげなきゃ」
「えぇ……?」
かなり恥ずかしい呼び方だが、仕方ない。
「よ、妖精さーん……」
「妖精さん出てきてください!」
俺と佐倉の声がさっきの2倍の大きさで響き渡る。傍から見たらかなり危ない2人組だ。
しばらく呼び続けると、突如、教室の後ろで赤い煙が弾けて視界を遮った。
煙は数秒間空中を漂っていたが、やがて霧が晴れるように消えていった。
そして、教室の隅には────やっぱり、オヤジ。
「やぁ君たち。さっそく呼び出してくれたようだね」
昨日と変わらずどこまでも紳士的な口調だ。1日たったオヤジは、少し元気を取り戻したように見える。
できれば会話を楽しみたいところだが、残念ながら時間がない。
「オヤジ、実は嬉しい報告があるんだ」
俺たちはこれから後輩の家に行くことを手短に説明した。
「そうか、それはいい!」
オヤジは嬉しそうにそう言うと、一言付け加えた。
「私からも良い知らせがある。実は、30前の2人について思い出したことがあるのだよ」
「本当!?」
思わず2人そろって叫んでしまった。
「あぁ。昨日君たちが帰った後に、何か役に立てないかと思い当時の記憶をたどっていて思い出したんだ。糸をほどくためのヒントになるかはわからないが」
「どんな情報でも全然かまわないわよ! で、何?」
オヤジは一度咳払いした後、
「その2人の女子の方なんだが、確か皆からカナと呼ばれていたような気がする」
遠い昔を思い出すように言った。
「カナ……」
俺は思わず繰り返した。
「本名が思い出せなくて申し訳ないのだが……」
「いや、これでも十分すごいヒントだよ」
「そうよ。ありがとう、妖精さん」
お礼を言い、佐倉は教室の壁に掛けられた時計を見た。
「そろそろ本当に急がなくちゃ。これ以上遅くなったら長岡さんに失礼よ」
時計の針はもう6時をまわっている。確かに、人の家を訪ねるのにあまりいい時間とは言えないだろう。
「じゃあオヤジ、慌ただしいけど俺たちもう行くよ」
「あぁ。私もまた何か思い出せるように努力してみるつもりだ。君たちも、何か良い情報が得られるように祈っているよ」
妖精の言葉に頷くと、俺たちはダッシュで教室を後にした。
外に出ると、秋らしいひんやりとした空気が体を包んだ。
もう辺りは薄暗くなっている。
「多分こっちの道だと思うんだけど……」
本人に書いてもらったという長岡家までの地図を片手に、佐倉は学校の側の細い道に入った。
声がかなり自信なさげだ。
「本当にこっちであってんの?」
「多分……」
仕方なくしばらく黙々とその細い道を歩いていたのだが、いつまでたってもそれらしい家に着かない。佐倉が地図をぐるぐる回転させる。
「……道が間違ってるんじゃないか?」
「うーん、そうかも……。私も行ったことないからよくわかんなくて」
ただでさえ時間が遅れているのに道にまで迷ってしまったらたまらない。
佐倉の手から地図を取り、よく見てみる。驚いたことに今いる場所は目的地とは見事に正反対の方向だ。
「いくらなんでも間違えすぎだろ」
俺が呆れて言うと、佐倉はまた茹でダコの顔色になった。
いっそ『他とはひと味違うぜタコヤキ屋』の具になってほしいくらいの立派な茹で具合だ。
「こういうの苦手なの」
「佐倉って方向音痴?」
「……ちょっと道がわからなくなりやすいだけよ」
それを世間一般では方向音痴というのだが。
とにかく俺たちは(もちろん今度は俺が地図を持ち)正しい道を急いだ。
「地図どおりだと、このまままっすぐ行けば着くよ。それにしても佐倉が方向音痴だなんて意外だな」
「だから違うってば……。でも、確かに昔からそうなのよ。幼稚園の散歩時間の時も1人だけはぐれてたし、小学校の遠足でも迷子になったわね」
「相当だなぁ……」
これで将来大丈夫なのだろうか? と、つい余計な心配までしてしまう。
そんなことを考えていると、俺の頭の中に『将来』の単語が引っ掛かった。
「そういえばさ……」
と俺が口を開きかけたその時、
「あ、佐倉せんぱーい!」
小柄な女の子がこっちに走ってくる。
足を踏み出すたびに、短い髪を無理矢理結んだようなみつ編が肩で揺れる。
「長岡さん! もしかしてずっと家の前で待っててくれたの?」
「はい。なんか遅いから、佐倉先輩また道に迷ってるんじゃないかと思って……」
「ごめんね。遅くなっちゃって……」
どうやらこの小柄な少女が長岡由紀子、そして目の前に建っている白い洋風の家が彼女の家らしい。
「あのぅ、こっちの先輩は……?」
長岡由紀子が俺の方を見て小首を傾げた。
「あ、同じクラスの藤原くんよ。一緒に話を聞きたいんだけど、いいかしら」
「もちろんです。よろしくお願いします!」
勢いよく頭を下げられ、俺も慌てて挨拶し返す。ものすごく礼儀正しい子だ。
「それじゃあ、どうぞ入ってください」
招き入れられ家に入ると、今度は彼女の母親が出迎えてくれた。
「あらあら、いらっしゃい。由紀子から話は聞いてるわ。あなたたちが、学校の歴史について知りたいっていう生徒さんね」
なるほど、佐倉はそう理由付けしたのか。確かに「赤い糸について知ってることを聞かせてほしい」なんて急に言ったら誰でも変に思うだろう。
「はい。ぜひうちの中学の卒業生の方にお話を聞かせてもらおうと思って。遅い時間になってしまってすみません」
佐倉が頭を下げ俺もワンテンポ遅れてそれに倣うと、長岡由紀子の母親は「いいのよ」と気さくな笑顔で答えた。
それにしても、この親子は驚くほど似ている。さすがに髪形は違うものの、母親の方は長岡由紀子をいくらか老けさせたような顔立ちで、きっと他人が見ても一目でこの2人が親子だとわかるだろう。
「さ、座って」
長岡母が俺たちにソファーを勧め、長岡ジュニア──由紀子の方が「どうぞ、先輩」とお茶を出してくれた。身のこなしから雰囲気までそっくりだ。
俺が人知れず遺伝子の力に感心させられている隣で、佐倉はさっそく本題を切り出した。
「私たち、ちょっと授業で学校の歴史に関する調べものをしていて。生徒たちの間で昔からある言い伝えみたいなものについてお聞きしたいんです」
「言い伝え?」
俺たちの向かい側のソファーに座った長岡母は不思議そうな顔をした。
「はい。例えば……赤い糸の伝説とか、ご存知ですか?」
佐倉の問いかけに、長岡母の表情がパッと輝く。
「あぁ! 赤い糸ね! 私が学校にいた頃からあったわよ、その言い伝え。懐かしいわぁ」
「あの、詳しく聞かせてもらえますか」
俺が言うと、長岡母は遠い目をしながら話し始めた。
「えぇ。確か、文化祭の7日前に恋人同士で教室に残ってると妖精が現れるっていう伝説よね。結構有名だったけど、信じてる人はあまりいなかったわねぇ。私も、素敵な言い伝えだとは思ってたけど、信じてはいなかったわ」
やっぱりこの言い伝えは当時からあまり信じられていなかったようだ。
それにしても、今まさに目の前に赤い糸で結ばれている2人がいるとわかったら、どう思うだろうか?
でもね、と長岡母は続けた。
「当時私より1つ上の先輩で、赤い糸で結ばれてるんじゃないかって噂されてる2人がいたの」
「え!?」
俺と佐倉は思わず顔を見合わせた。
「本当ですか!?」
「えぇ。その2人、それまではただのクラスメイトだったのに文化祭の時期から急に付き合い始めたのよ。だから、赤い糸の言い伝えを試したんじゃないかって学校中で噂になったの」
もしかしなくてもその噂の2人が、俺たちの探している例の30年前に赤い糸をほどいたという2人なのか?
「その2人の名前とか、覚えてますか?」
「うーん……何だったかしら。学年が違ったし……そんなに規模が大きくない学校とはいえ、あまり話したこともなかったから思い出せないわ……」
「もしかして女子の方はカナっていうあだ名じゃありませんでしたか?」
「あ、そうそう! そういえば女の先輩はカナって呼ばれてたわ! 肌が白くって綺麗で、白雪姫みたいな美人さんだったのよー」
俺と佐倉は、また無言で顔を見合わせた。
やっぱり────カナだ。
しかしその直後に、長岡母が呟くように口にした言葉で俺たちは更に驚くことになった。
「もしかするとそのカナさん、今もこの近所に住んでるかもしれないわ」
「えっ!? 本当ですか!?」
あまりの俺たちの驚きように、今まで黙って話を聞いていた長岡ジュニアの方がびっくりしている。
「ど、どうしたんですか先輩たち……。ひょっとして、そのカナって人と知り合いなんですか?」
慌てて佐倉が言い訳する。
「あっ、そういうわけじゃないんだけど……。つまり、えーと、そんな素敵な伝説を体験した人がこの近くに住んでるなんて知らなかったから、つい興奮しちゃったの。あの、それよりもカナさんがこの辺りに住んでるかもってどういうことですか?」
「えぇ。実は私、10年くらい前にこの辺りで彼女らしき人に会ったのよ」
「何か喋ったんですか?」
「いいえ。遠目だったし、私その人の名前も忘れてるくらいだったから……。でも中学時代の面影がはっきり残ってたから、その人だってわかったの。昔と変わらず、色白の綺麗な人だったわ。もっとも、その人が今もここにいるかわからないし、本当にその人がカナさんだったかもはっきりしないけど……。ごめんなさいね、私が知ってることはこのくらいしかないわ」
30年前に赤い糸をほどいたという『カナ』がこの近くに住んでいるかもしれない。
いくら不正確でも、俺たちを仰天させるのには十分すぎる情報だった。
「いえ、そんな……いろいろお話が聞けて、よかったです。ありがとうございました」
その佐倉の言葉をきっかけに俺たちは席を立った。
長岡母が、夕飯を食べていかないかと言ってくれた。今夜の献立はタコヤキだそうだ。俺と佐倉は丁重にお断りした。
「それじゃあ先輩、また明日学校で会いましょう」
玄関まで見送りに来た長岡ジュニアが礼儀正しく頭を下げ、ドアが静かに閉まった。
外に出て2人きりになった瞬間、俺たちは早足で歩きながらハイテンションで一気にまくしたてた。
「すっげーいい話聞けたな!」
「うん、もう本当びっくりしちゃったわよ! まさかそのカナって人がこの近くに住んでるかもしれないなんて……」
「会えたらいいんだけどな。そしたら赤い糸についていろいろ聞けるのに」
「そうよね」
ここで佐倉は頷いた後、
「でも……」
と不可解そうに眉を寄せた。
「妖精さんの話だと、その30年前の2人はただのクラスメイトだったんでしょ? でも長岡さんのお母さんは、2人は文化祭の頃から付き合い始めたって言ってたわ。どういうことかしら」
それは俺も不思議に思っていた。
2人はただのクラスメイトだったのか、それとも恋人同士だったのか。その部分が、オヤジと長岡母の話ではだいぶ食い違っているのだ。
「どっちが本当なんだろう? オヤジに聞けばわかるかな」
「そうね。明日また妖精さんに会って話しましょう。今日聞いたことを伝えれば、何か新しいことがわかるかもしれないし……。あ、じゃあ私、家こっちだから。また明日ね」
佐倉が小さく手を振りつつ、俺の家とは反対方向の曲がり道に足を進める。
「あ……。うん」
俺は中途半端な高さに手を上げながら、その背中を見送ろうとした。
が、急にある疑問が頭に浮かんだ。
──あれ? こういう場合って、家まで送るべき?
恋愛経験ゼロの冴えない男子中学生である俺は、こんな時間まで異性と出かけていたことなんか一度もない。
だからこういうとき、どうすればいいのか全くわからない。
恋人でもない男に送られるとか気色悪いかな。明日学校に行ったら佐倉が女子軍団に「藤原君マジきもいんですけどー」とヒソヒソやっていて、またドン子に睨まれるかな。
しかし、もう辺りは暗いし、この周辺の道は人通りも少ない。そして極めつけはあの方向音痴ぶりだ。
だから 気が付いたら、だんだん遠ざかっていく後ろ姿を呼び止めていた。
「佐倉」
名前の主は、急に呼ばれたことに驚いて振り返った。
今日の教室で松本に呼ばれた時と似ている、不意打ちをくらったような顔で。
「何?」
「あのさ、もう遅い時間だし、1人だと危ないし…」
なぜか心臓が無駄に早鐘だ。
自分がこんな台詞を言うことになるとは思ってもいなかったからか? 確かに今までの自分の人生には縁のなかった言葉だ。
「家まで送るよ」
人が苦戦してようやく言った言葉の余韻を、佐倉はなんとも間の抜けた声で破ってくれた。
「え? 大丈夫よ、そんな。このくらいの時間なら全然平気だし」
「危ないから、この辺、結構。いいよ。送ってやるよ俺が」
慣れない台詞の緊張のせいか、文法がめちゃくちゃになる。しかも最後のほうは少し偉そうだ。
「え、でも」
「いーからいーから」
佐倉は初めポカンとしていたが、やがて呟いた。
「ありがとう」
彼女らしくない、蚊の鳴くような声だ。
人通りの少ない夜の道に、2人の靴音がびっくりするくらい響く。
「あ、そういえば藤原くん」
歩きながら、佐倉が言った。
「長岡さんのうちに入る前、何か言おうとしたけど、何?」
「あぁ、別にたいしたことじゃないけど。お前が昨日、将来花嫁になるのが夢だって言ってたの思い出して、いまどき花嫁なんて珍しいなーって……」
「あら素敵じゃない、花嫁さん。幼稚園の頃からずっと憧れてるの」
昨日から何回見たであろう、夢見るような表情で佐倉は話した。
「大好きな人のお嫁さんになれるなんて、本当に素敵」
「へいへい。どうせ愛しのタカナシクンだろ」
たちまち佐倉は本日3回目の茹でダコ警報発令中だ。
「そういう藤原くんは将来何になりたいのよ」
「え!?」
急に聞かれて困ってしまった。そりゃ俺だって小さいころは、何とかレンジャーになりたいだとか何とか戦隊に入りたいだとか無邪気なことを言っていたが、もう14歳だ。自分が世界を救うヒーローになれないことくらいは十分わかっている。
将来の夢なんて、最近は考えたこともない。
「何って言われても……俺はまだ別に決まってないよ」
「ふぅん」
佐倉が疑わしい目つきでこっちを見る。
「何だよ。本当に決まってないんだって」
「じゃあ決まったら教えて」
「は?」
会話についていけない俺に、佐倉は人差し指を突きつけた。
「だって、藤原くんだけ私の将来の夢知ってるなんてずるいわよ。だから、藤原くんの将来の夢が決まった時に、私にも教えて!」
「いやいや、ずるいって言われても」
そもそも、俺が問い詰めたわけでもなく、佐倉のほうから自分の夢を言ったんじゃなかったっけ。
しかし、理不尽さを感じながらもなぜか頷かされてしまうパワーが佐倉にはあった。
「約束ね」
「はぁ……」
曖昧に承諾する俺を見て、佐倉は指切りげんまんを迫ったがそれだけは力いっぱい断った。中2にもなってそれはさすがに恥ずかしすぎる。
佐倉はしばらく楽しそうに笑っていたが、ふと考え込むように呟いた。
「……何か不思議よね」
「不思議?」
「うん」
歩調を緩め、ほとんど独り言のような口調で彼女は話し始めた。
「私たちって赤い糸のことがあるまでは、ほとんど関わりがなかったじゃない?同じクラスっていっても、あんまり話したことなくて……お互いの部活も知らないくらいだったし」
確かにそうだ。
クラスメイトというだけで、俺は佐倉のことを何一つ知らなかった。
例えば笑い上戸とか、例えば方向音痴とか。
「でもね、今はこうして並んで道を歩いて将来のこととか話してるなんて……不思議よね」
「そうだな」
もしあの時オヤジが現れなかったら、もしあの時ジャンケンで勝って委員になっていなかったら。
きっとほとんど言葉を交わすこともなく過ごしていただろう。この隣にいる彼女とは。
「私は結構、嬉しいかな」
それは本当に小さい、ささやくような声だった。だから俺は間抜けな顔で聞き返すことしかできなかった。
「え?」
「何でこんな奴と結ばれなきゃいけないのって昨日は思ったけど。赤い糸のおかげでこうしてちょっと仲良くなれたんだったら、私は……まぁまぁ嬉しいって思えるわよ、今は」
思考回路が真っ白になり、血が頭部に逆流する。
あまりにも言われ慣れていない種類の言葉だったからだ。
固まる俺をよそに、佐倉はすぐ傍にあるレンガ造りのマンションの入り口の前に立った。
「私の家ここだから。ありがとう、送ってくれて」
そして軽く手を振り、
「明日も委員会とか文化祭の準備とかいろいろ大変だけど、頑張ろうね」
自動ドアの中へ、消えていった。
取り残された俺はぼんやりと考えた。
これから1週間、きっと死ぬほど忙しくなるだろう。赤い糸についても、わからないことだらけだ。
だが不思議とため息は出なかった。
それどころか、冷たい空気の中で響く自分の靴音さえも、魅力的な音楽のように聞こえてくる。
理由は、わからないけれど。




