第4話・・『少年は苦悩す』
翌朝、目が覚めた俺は天井を見つめながらしばらく布団の中でボーっとしていた。
──おかしな夢をみてしまった。同じクラスの佐倉亜美と、変な糸で小指同士を結ばれる夢だ。佐倉なんてろくに会話したこともないのに、どうして夢に出てきたんだろう? おまけに怪しい妖精まで登場して本当にありえない夢だった。学校へ行ったら、友達に話して一緒に笑いとばそう──。
……いや、夢じゃない。
左手の小指を見ると、赤い糸がしっかりと結びついている。昨日の放課後妖精に間違って結ばれたそれは、窓から射し込む朝日を浴びて、憎らしいほどキラキラと綺麗に輝いている。
「やっぱり夢じゃなかったんだなぁ……」
思わず呟くと、急に現実に引き戻されたような気になった。慌てて時計を見ると、もう8時だ。
やばい。かなり、やばい。このままだと遅刻決定だ。
急いで布団から出ると、通常の2倍の速さで、着替え・洗顔・歯磨き・朝食など朝の行事を済まし、挨拶もそこそこに家を飛び出した。
全速力で走った甲斐あって何とか予鈴前には教室に滑り込んだが、朝からこの運動量ではさすがにキツすぎる。俺は既に虫の息で自分の机に突っ伏していた。
「おーす宏樹。何ぐったりしてんだよ。大丈夫か?」
あまりの俺のヘトヘトぶりに友達の松本が声をかけてきた。
「ちょ、ちょっと朝から全力疾走しちゃってさ…」
「何だよそれくらいで情けないな。陸部がそんなんでいいのか?」
「陸部だろーが疲れるもんは疲れんだよ」
そう、おれは一応陸上部に所属している。昨日の放課後は居残り作業(プラス赤い糸騒動)のせいで部活に行けなかったが、毎日の放課後はだいたい部活の予定で埋まっている。
ここで松本は急に声のトーンを落として話題を変えた。
「そういえばお前さ、昨日文化祭委員の仕事で放課後残ったんだろ? 佐倉と2人で。」
「あー…うん」
途中からは3人だったけどな、と心の隅で呟く。
俺と佐倉の小指同士は相変わらず赤い糸で結ばれていたが、昨日妖精が言っていたようにクラスの誰も糸には気付かない。糸があっても、皆はまるでそこには空気しかないように普通に通っている。
そしてもちろんこの松本も、赤い糸の存在なんかには気付きもせずに話し続ける。
「で、どうだった?」
「は? 何が」
俺がわけもわからず聞き返すと、松本は教室後方の女子軍団の輪の中にいる佐倉亜美に少し視線を向け、
「だからさ、2人っきりだったんだろ?どういうこと喋ったんだよ」
にやにやしながら言ってきた。今にもヒューヒューとか口笛を吹きだしそうだ。お似合いなお二人さんを囃し立てる時のあの古いノリで。
「松本お前、面白がってるだろ…」
「まーな。」
この後も数分間、俺は松本に『2人っきり』ネタでからかわれ、ついには男子中学生定番のプロレスごっこにまで発展した。俺が松本に何だか名前のよくわからない技を決め松本がしきりにギブギブ言っていた時に、教室のドアが開いて先生が入ってきたので、ここで遊びは中断された。
その時、佐倉と目が合った。
『バッカじゃないの』。
彼女の目つきは明らかにそう語っていた。まだ昨日のケンカを根に持っているのだろうか。俺も負けじと睨み返す。
「文化祭実行委員……佐倉、藤原!」
急に先生に呼ばれた。
「は、はい」
俺と佐倉は慌ててガタガタと派手に音をたてながらその場で立ち上がる。
「昨日の放課後に残ってやってもらった集計の結果を、今ここで皆に報告してくれ」
先生のこの言葉に、俺は頭から氷水をぶっかけられたような思いがした。
そう、すっかり忘れていたがそもそも昨日の放課後わざわざ教室に居残りしたのは、文化祭実行委員として命じられた『後夜祭で流すBGM希望曲調査プリントの集計』という仕事を終わらせるのが目的だった。しかし途中からそんな作業はそっちのけになっていたので、当然、集計作業は半分も終わっていない。
どうしよう。正直に、終わらなかったと言うべきか? でもそうすれば多分理由を聞かれるだろう。
「実は俺たちオヤジっぽい妖精に赤い糸で結ばれちゃってこのままだとお互い以外とは一生結婚できないんですー。先生、どうしたらいいでしょーか?」なんて言ったらどうなるだろう。想像するとちょっと笑えたが、もちろんそんなこと言えるわけがない。
少し焦りながら『どうする?』という相談の意味を込めて佐倉のほうを見た。ところが彼女は落ち着いたもので、自分の鞄から何枚かの紙を取り出した。そして、いつも通りの声で読み上げる。
「皆に書いてもらった希望曲アンケートの集計結果を報告します」
そう言うと佐倉は、票が多かったものから順番に曲名を発表していった。最後まで発表し終わると、
「以上です。この結果を今日生徒会に提出して、最終的に採用される曲が決まります。うちのクラスから出た曲もいくつか採用されるかもしれないので、後夜祭を楽しみにしててください」
と言って報告を締めくくった。皆からパチパチと拍手が起こる。
俺はわけがわからず混乱する頭でそれを聞いていたが、昨日の下校時の光景を思い出して、ようやく悟った。
昨日、妖精が消えた後、佐倉の『帰ろっか』という言葉をきっかけに俺たちは教室を出た。
しかしその直前、佐倉は机の上のプリントを自分の鞄にしまい込んでいたような気がする。
つまり、佐倉は自分の家で1人でプリントの集計をしてきたということだ。
「おいおい藤原、いつまでボーっと立ってるつもりだ?」
先生の声にハッと我に返ると、佐倉はとっくに着席して俺だけが意味もなく突っ立っている状況だった。慌てて自分の席に座るが、教室は既に爆笑の渦だ。
「何ボケッとしてんだよ藤原ぁ」なんてヤジまで聞こえてくる。
「…うっさいな、瞑想してたんだよ、瞑想。」
軽口をたたきながらも、俺の心は罪悪感でいっぱいだった。1クラス分のアンケートとはいえ、1人でまとめるのにはかなりの時間が要ったはずだ。そんな仕事をさっぱり忘れて佐倉に押し付けてしまったなんて──委員の相方として最低だ。
すっかり自己嫌悪に陥った俺は、一刻も早く佐倉に謝ることにした。というか、謝らずにはいられなかった。
しかし、なかなかタイミングがつかめない。佐倉は授業が終わるたびに大勢の友達と喋っているからだ(なんで女子ってやつは、こう、常に群れるんだろう?)。
輪の中にいる彼女に声を掛けるのは想像以上に難しかった。一度、俺が勇気を振り絞って近付こうとしたら、その集団の中で体格も声も一番大きな女子に、まるでゴミでも見るようなすごい目で睨まれてしまい、あっけなく失敗した。
そんなわけで謝るチャンスがないまま、午前中はあっという間に過ぎてしまった。
「よぅ。青春のど真ん中で悩んでるみたいだな。」
「松本……」
昼休み、どうすればいいのか頭を抱えて悩む俺を見かねて松本が相談に乗ってくれる事になった。
さすがに赤い糸のことは話せないので、“佐倉に謝らなくてはいけないのだがそのタイミングがつかめない”とだけ言った。
松本のお調子者的な性格から考えるともしかしたらまた茶化されるかもしれないと俺は思ったが、彼は意外にも真剣に話を聞いてくれた。
「そうか。つまりお前は佐倉に謝るのにベストなタイミングがわかんねぇんだな」
「あぁ。スパっとサラッと謝りたいんだけどさ、あんな集団の中にいられると声掛けづらくって……」
俺は教室の隅で談笑している佐倉を含む数名の女子たちを見て溜息をつく。
そしてそんな俺を見た松本は、あろうことかプッと吹き出した。
「何だよ笑うなよ! 俺はマジで深刻なのに」
「あー、ごめんごめん。でもなんかさ、お前まるでアレみたいなんだもん」
「アレって?」
俺が怪訝な顔で聞くと、松本は笑いをグッとこらえた声で、
「まるで、告白のチャンスを待ってる男みたいだぜ」
これだけ言うとまたケラケラ笑い出した。松本は笑い上戸なのだ。
「はぁ!?」
俺は反論したくてたまらなかったが、こういう時の松本には何を言っても無駄だとわかっていたので大人しく奴の笑いの波が引くのを待つしかなかった。
1分後、松本は呼吸を整えながら2度目の「ごめんごめん」を言い、再び真面目に悩みを聞く姿勢に戻った。
「よし、俺に任しとけ」
「え? 任すって…どうするんだよ?」
戸惑う俺をよそに、クラス1の笑い上戸男は不敵な笑みを浮かべる。
「要はお前と佐倉が話しやすい環境を自然に作ればいいんだろ?そぉんなのお安い御用だぜ」
「松本……!」
不覚にも俺は少し感動してしまった。あぁ、友情って素晴らしい。
「楽勝、楽勝。見てろよ」
松本はそう言い残すとおもむろに女子集団のほうへ歩いていき、わざとらしく咳払いをした後、
「佐倉!」
思いっきり呼び掛けた。
その場にいたクラスメイト全員が、松本に注目する。佐倉はビックリしたように「何?」と言った。俺はハラハラしながらそれを見ていた。松本は一体何をするつもりなんだろう。
「実はな、佐倉。宏樹からお前に話したいことがあるらしいんだ。悪いんだけどあいつと2人で体育館裏に行ってくれないか」
がこ。と妙な音をたてて俺は椅子から転げ落ちた。
そして心の中で絶叫した。松本の奴、呪ってやる!
さっき実感したばかりの友情の素晴らしさが、音をたてて崩れていく。今のセリフのどこらへんが『自然に』なのか説明してほしい。明らかに、誰がどう見ても思いっきり『呼び出し』だ。しかもよりによって体育館裏だなんて。これじゃあ、まるで、本当にアレみたいじゃないか?
教室にいた他の女子たちは「告白よ」「告白ね」とひそひそやり始めた。男子たちは何ともいえない微妙な顔で「マジかよ藤原」などと呟いている(佐倉はその気の強さからクラスのほとんどの男子たちに恐れられているのだ)。
松本はというと、キラキラしたオーラが出てきてもおかしくないくらいの爽やかな笑顔で、俺に向かって親指を立てている。その目が「あとは頑張れ!」と無言で語っていた。
どうやら松本は、本当に真面目に、俺に善かれと思ってあの行動を起こしたらしい。ただ少し、気が早い性格の彼には俺が言う『自然に』の意味が伝わりにくかったようだ。やり方はどうあれ俺のためにしてくれたのだから、何だか腹を立てづらくなってしまい余計に手におえない。
もうこうなったら、今ここで謝るしかない。皆がいる前でなんて死ぬほど恥ずかしいけど、体育館裏に行くよりはマシだ。腹を決めよう。
俺は決心して口を開きかけた。
「あのさ佐倉……」
すると唐突に、佐倉が、
「ちょうど良かった。私も藤原くんに話したいこと、あったんだ。行こう」
と言ってに教室を出てスタスタ歩き出した。クラスの女子たちのひそひそが「両思いよ」「両思いね」に変わり、きゃあきゃあと楽しそうな声をあげる。
「え?」
俺は初め呆然としていたが、松本に「行ってこい色男」と思いっきり背中を押されて、佐倉を追いかけよろよろと歩き出した。頭の中は、疑問符でいっぱいだ。
「で、話って何?」
体育館裏につくやいなや、佐倉がズバリ聞いてきた。
「そっちこそ何なんだよ」
謝るつもりなのについ突っかかるような言い方になってしまった。こういう時の素直じゃなさには我ながらげんなりしてしまう。
昼休み中ほとんどの生徒は校庭か教室にいるので、体育館裏はまるでそこだけ別世界のように静まり返っている。校庭で遊ぶ生徒たちの歓声や話し声が、たまに小さく聞こえてくるだけだ。
「そっちが最初に言い出したんだから、先に言ってよ」
俺は今度こそ、謝る決心を固めた。
「あのさ、その、つまり…」
「ん?」
「…………ごめん」
佐倉はきょとんとして俺の目を見た。
「何が?」
全くわかっていない様子だ。
「だからさ、昨日の集計、お前1人でやってきたんだろ? 一応俺も委員なのに。俺、赤い糸の事で頭いっぱいでそんな仕事すっかり忘れてた。1人であんだけまとめんの大変だったよな。ごめん」
ようやく、謝ることが出来た。
すると、それを聞いていた佐倉の目がこれ以上ないくらいに丸くなる。
そして、
「……ぷっ…ふふ」
「へ?」
「あははははっ」
急に笑い出した。
「さ、佐倉? 何どうしたんだよ」
俺はわけがわからずにますます混乱するばかりだ。佐倉もなんとか答えようとするが、笑いながらではどうも上手くいかない。
「あはは、ご、ごめん……ふふっ、でも、藤原君おかしいんだもん……あははっ」
それから佐倉は腹を押さえながらきっかり3分間笑いつづけ、俺は佐倉の笑いが「クスクス」におさまるまできっかり3分間待った。
俺は、もしかしたらこいつも笑い上戸かもしれないな、とぼんやり思った。さっきも言ったが、俺の教訓から考えると笑い上戸の人間が笑っている時は、何を言っても無駄なんだ。
「はぁ、やっとおさまった。ごめんね藤原君」
佐倉が目元の涙を拭いながら言った。
「で? 何がそんなにおかしいんだよ」
俺は3分も待たされ少しイライラしながら言った。
「だって……藤原くん、そんなこと気にしてたの?」
「え?」
佐倉は、こっちが拍子抜けするほどあっさりと言い放つ。
「家で集計やってくるくらい何でもないわよ。ていうか、私そういう作業けっこう好きだし」
「いや、でも! やっぱり俺もいっしょにやるはずだった仕事だしさ。だから謝ろうと思って……」
「あぁ! だから藤原くん今日はやたらと女子の輪に近付こうとしてドン子に睨まれてたんだ」
ドン子というのは、俺が女子の集団に接近しようとした時に睨んできた、体格と声が大きい女子のあだ名だ。まったく、名は体を表すとはよくできた言葉だ。おそらく漢字で書けば『首領子』だろう。
「だからね、“そんなことずっと気にしてたなんて律儀だなぁ”って思ったら何かおかしくなっちゃって。ごめんね」
佐倉はまだ少しクスクスしながら再び謝ったが、俺は何だか拍子抜けしてしまった。今日1日、さんざん気にして悩んできたのは一体なんだったんだ。まるで今日だけで5年分老けこんだような気分だ。
「まぁ、いいや……。もともとは俺が原因なんだし……」
俺は急に肩の重荷が下りたせいか今までの疲れがドッと出てきて、少しげっそりしてしまった。
「で、お前のほうの話は何なんだよ?」
「あぁ、実はね……」
佐倉は嬉しそうににっこり笑った後、言った。
「赤い糸についての情報が、手に入ったのよ」