154.最終章 漆黒の海を越えて(後編)
「落ち着きましたか?」
「な、何とか…」
恐るべき罠が仕掛けられていた通りから離れたバス停近くのベンチ。コウモリやネコに見守られながら、一人の少女がスーツ姿の女性の隣に座っていた。先程までずっと混乱や驚愕のあまり、ずっと気が動転していた彼女だが、その女性…未来からの来訪者によってようやくその心に落ち着きが戻り始めていた。まだ心の余裕は生まれていないようだが…。
時空警察に務めるクリス捜査官も、過去の世界で起きた大規模な時空の歪みという異常事態に対応すべく過去へと乗りだしていた。ただ、その根本的な原因が探偵局にある事、その助手も局長も行方が分からなくなっている事、そして恵局長の出生に纏わる真実などの事実に関しては予想していなかった。確かに時空改変と言う物は命すら簡単に生み出せてしまう恐るべき力なのだが、今まで普通に接していた存在がまさかそれに見事に当てはまるとは考えてもみなかったようだ。それは、彼女に詳細を説明し続けていたブランチも同様だった。
そして、彼女も詳細を知らなかったという事は、すなわち恵『局長』の行方をクリス捜査官も知らない、分からないという事になる。一旦は落胆するブランチだが、すぐにある事実を思い出した。
「そういえばクリスさんのとこの恵さんはどうですかニャ?」
彼女同様に時空改変によってこの世に生を受けたもう一人の丸斗恵…現在は丸斗探偵局を離れ、時空警察の特別局に所属している彼女なら何か知っているかもしれない、と考えたのだ。だが、確かに二人は全く同一の存在なのかもしれないが巡った過去は別物。クリス捜査官からの返答は芳しい物では無かった。
「一応、向こうの恵さんもこちらに向かうと連絡はありましたが…局長の方の恵さんに会えるかどうかの保証はありません」
「そうですか…」
それでも、会いたいと言うのが蛍としては本音だったようだ。クリス捜査官やブランチに支えられてはいるが、彼女の心は今にも折れそうなのは変わりない。いくら強固な意志を持っていても、それは何かの柱があってこそ。やはり、蛍にとって局長は大きな存在だ。
それにしても、先程まであそこまで危機的な状況となっていたのがまるで嘘のようだ、とブランチは一息つきながら言った。その言葉に二匹のコウモリも同調している。ずっと充満していたニセデュークの気配が、先程よりも薄れたというのもある。
あの凄まじい落雷のような音の直後に現れたクリス捜査官によって、彼女たちはこの場所へ瞬間移動した。この非常事態に対応すべく、捜査官もそれなりの装備を備えてきたと言うのだ。量子力学の技術を応用し、自分がいる場所の可能性を変化させる事が出来るアプリケーションタイプのテレポート装置らしいが、話が長くなりそうなのとまず動物たちには理解できなさそうなので捜査官はそこら辺の説明は省くことにした。では、あの落雷のその機能なのだろうか…という質問に、彼女は首を左右に振り否定の意志を表した。これは、別の存在によって行われたものだからだ。
「…もう大丈夫ですか?」
その声と同時に、新たな影が姿を見せた。その存在の出すオーラのようなものを感じ取り、コウモリは慌てふためき始め、蛍もその燕尾服のみを見た時驚きと少しの絶望を混ぜた顔を示した。まさか、このクリス捜査官たちも「偽者」なのか…?
しかし、その恐怖は幸いにも誤りであった。
「随分と怖がりな探偵さんだな…ほら」
どこかで聞いたようなその言葉と同時に、目の前の男の傍からもう一つの影が姿を見せた。その顔を見た瞬間、蛍の顔がまず困惑の色に包まれた。念のためブランチの方を向き、彼が力強い頷きを返した時、彼女の目が少しづつ潤い始めた。緑色の髪の毛を結い、髪飾りに赤のピンを一輪の花のように付ける。蛍から教わったお洒落を、『本物』の友達は忘れていなかったのだ。
「さ、サイカちゃぁぁん!」
「ホタルーー!」
互いの体を抱きしめ合い、涙ながらに二人の少女は互いの無事を祝った。そして、危険な事に巻き込んでしまった事を、蛍は泣きながら彼女に謝罪した。
蛍の親友であるサイカも、やはりニセデュークたちに捕まっていた。あの時一行を包み込んだ無数の悲鳴の中にも、必死に本当の助けを求める彼女の声が含まれていたのだ。ただ、捜査官の手助けが無ければそのメッセージを伝えるのは不可能だったのは間違いない。涙をふき、改めてサイカはぺこりと捜査官たちにお辞儀をした。捜査官が何も心配はいらないと返したのは言うまでも無い。
それにしても、一体この男は誰なのか。見た目はデューク「先輩」や先程までの偽者の先輩によく似ているのだが、明らかに違う点がいくつもある。デュークのイメージを印象付けている眼鏡や長髪は彼には存在せず、代わりにあるのはレンズを通さない瞳と、首元が見えるベリーショートの髪である。蛍を始めとする皆は彼に疑いのような目つきをしていたのだが、疑問によって沈黙が生まれた直後にブランチが彼の正体に気がついた。彼は過去に「彼」に会った事があるのだ。
「…え、じゃあこの人が…」
「ソ、ソウイエバ蛍、ソンナ話シテタネ…」
蛍が探偵局に来る前、二人のニセデュークが互いの生死を賭けた死闘を繰り広げ、この世界の神社や町をも巻き込む事態を引き起こした。栄司の働きでもその勢いは収まらなかったが、恵局長を始めとする探偵局の面々が援軍に駆け付けた事で双方とも降参。二人の身柄は時空警察預かりとなったのである。
「ニャ、ニャんでここに…?」
黒猫ブランチの疑問に対し、あの時同じくその場にいたクリス捜査官は語った。彼らにも本物のデューク・マルト同様、「永遠の善行」という罪が課せられ、彼女の指導の元各地でただ働きの善行に励まされている。その中で、嫌々始めていた本人も考え方が変わり始めて来たようである。
悪い事は楽過ぎて面倒臭い。善行励んだ方が後で楽が出来る。どこか現金な考え方の持ち主である彼こそ、先程巨大な雷を大量のデュークに落とし、その後も彼らを圧倒した張本人であった。デュークによって一時停止させられた時空改変能力であるが、体内に刻まれていた修復ナノマシンによって完全に蘇ったという。ただ、不完全な状態でも一度「破壊」を経験したことから、それを繰り返さぬようにより特殊化したものに変化したようだが。
「ま、そう言う事。あいつらみたいにボコボコにする事はしないよ」
時空改変回路の修復に伴い、性格にも個性が生まれていた。その喋り口調からも恵や栄司と似ているようでまた違う、飄々とした性格が見て取れる。ただ、一つだけ確かな事がある。彼は今、自分たちの味方であるというものだ。
しばらくの時間が流れた後、クリス捜査官は皆に言った。自分たちには向かう場所がある、そこで二人を待つ人たちがいる、と。その言葉を聞き、蛍が目を彼女から反らし、うつむいた事にブランチは気がついた。超感覚を持たずとも、彼の経験や気配りが、蛍が自分の失態について悩んでいるという事実を気づかせていた。その結果としてこの大騒動に巻き込んでしまったサイカに対しては何でもないと返したものの、先輩相手にはそのような秘密は通用しなかった。
「蛍がいつも言ってるニャ?悪いことしたら謝れって」
これで少しはいつも怒られてる自分の気持ちが分かっただろう、と彼は優しく、そして明るく接した。こういう時に責め立てるような事をしてはいけない。相手はより自分を追い詰め、殻に閉じ込めてしまうだけだ。それに、怒られてもへこたれずにまた挑むという方が、ブランチにとっては好きな戦法のようである。それに…
「ずーっと大丈夫か心配してたんだニャ?」
…栄司さんの事。
もし蛍に失礼な物言いをしたら、自分が怒る。だから、行こう。
少し悩む表情を見せた後、蛍は静かに顔を上げた。まだ笑顔は見えないが、その代わり真面目な彼女を象徴する真剣な表情が戻り始めている。これならきっと、目の前にどんな現実が待ち受けてもしっかりと乗り越えていけるだろう、隣の先輩は、コウモリたちと相槌を交わした。
「…サイカさんですね。歩けますか?」
「大丈夫…オット…」
「無理しないで、僕が支えるからさ」
まだ緊張が解けた後の反動が収まっていない様子のサイカを、黒髪の男が支える。少々乱暴だが、決して危害を加えるような手つきでは無い。先程は一気にこの世界に侵入している「デューク」を撃滅したとはいえ、今ろくに瞬間移動などの措置を取ればまた彼らに見つかるとも限らない。ゆっくりだが、着実に自分の足で目的地に向かうと言う選択肢を、彼らは取った。
「そういえば…」
ブランチは気付いた。そういえば、目の前にいる、もう一人の「デューク」…いや、かつて「デューク」だった者の名前を聞いていなかった。
彼の名であるスペード・デューク。その相方の名前であるヴィオ・デューク。これが、未来の裁判所から与えられた、罪人の名前である。