152.最終章 漆黒の海を越えて(前編)
…正直なところ、この町の中ではどこへ逃げても無駄だと言う事は、蛍もブランチも少しづつ感づき始めていた。別の世界感触を、その鋭い鼻や髭の感触で察知する事ができるブランチの能力もあるが、探偵として蛍がうすうすと感じ始めていた気味悪さも同じだった。
町の見た目は普通とは全く変わらず、人々が行き交い、街路樹は北風にそよぎ、マナーの悪い人のゴミがそれに乗って転がる。だが、外見だけでは一切伝わらない「何か」が、二人の探偵に対して恐れを植え付け始めていたのだ。戸惑う蛍をブランチは導き続けた。だが、右の路地裏に逃げ込もうが左の建物の間を進もうが、ニセデュークの匂いは一律に濃く漂い続けていたのだ。少しでもその匂いに集中すれば、まるでもやが姿を表すかのごとく、長髪の男の姿をいくつも作り始める。その形さえ見れば、蛍もブランチも彼の帰還を喜んだかもしれない。だが、そこに見えるのは邪悪な意志を持つ偽者の群れ。油断すれば壊れそうな心を、蛍は怒りと使命感で抑え続けていた。
ただ、幸いだったのはこの異変に気づき、街中で騒ぎ始めたのはこの二名だけではなかった事かもしれない。再び路地裏に逃げ込んだ二人の前に、突然見慣れぬ翼が飛び込んできた。一瞬慌てる蛍だが、すぐに彼女もブランチもその正体に気づいた。
「こ、コウモリ…さん!?」
以前、探偵局絡みの捜査で重要な証言を言ってくれた、あのコウモリ夫婦である事に、街の動物をご意見番でもあるブランチは匂いで感づいたのだ。夜に飛ぶはずのコウモリも、この大変な事態を前にしては焦らずにはいられなかったようだ。双方とも慣れた存在と会えた事で少し安心したようだ。
「や、やっぱり他の動物の皆さんも…」
「そうみたいだニャ、ニャんかあちこちで…大丈夫ニャ、蛍?」
「す、すいません…私たちだけじゃないんですね…」
一瞬だけ涙を見せそうになった彼女だが、すぐに奮い立った。よく「一人じゃない」という言葉がドラマのシナリオや曲の歌詞で見られるが、改めて彼女はその意味合いを感じ取ったようだ。それはコウモリ夫婦も同じようで、ブランチの側で嬉しそうな笑みを見せ、羽を休めている。ただ、ずっとその場で安息が約束されているという事は決してない。何とか突破口を見つけなければ、自分たちは恐るべき存在に呑み込まれてしまう。何がどうなっているのか、掻い摘んでブランチから聞いたコウモリ夫婦のうち、夫の方が何かを思い出したようでしきりに鳴き始めた。その「言葉」を聞いたブランチは、驚きと共に蛍にその事実を伝えた。
宇宙人の古屋サイカ…あの時有田邸を襲撃した偽者ではない、純粋な『本物』の独特な波長や匂いを、ここに来る前に感じ取ったというのだ。
「ど、どの場所ですか!?」
「わわ、慌てちゃダメだニャ…落ち着いて落ち着いて」
「ご、ごめんなさい…」
すぐに彼女の質問はブランチによって翻訳され、コウモリたちに伝えられた。そこかしこに全く同じ波長が漂っている中だからこそ、逆に異質なものは見つけやすい、という発想だ。偽者が現れた以上、何かしら大変な事態になっているのは間違いない、と確信した二人の探偵は、コウモリと共に一路その場所へと向かう決意をした。
…だが、この時彼らはもう一つの可能性について全く考えていなかった。街という広い大海原に、ターゲットは泳ぎ続ける。
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その「漁場」の空を、鳥やコウモリ、虫とも違う影が音も無く舞っていた。
「どうですか、スペードさん…」
「こりゃ酷いな…どこもかしこも満員電車だ」
クリス捜査官は、空を飛ぶ感覚が苦手である。未来の技術を利用すれば、服の中に重力を思い通りにコントロールできる特殊な繊維を加える事など容易い事なのだが、彼女のようにこの浮遊感を気にするものは少なからずいる。だが、今の場合はその嫌悪感に構っている暇はない。横にいる燕尾服に身を包んだ男…「町」を埋め尽くす匂いと同じものを持つ、スペード・デュークの言葉がそれを示していた。この事態を解決するであろう存在を、二人は空から必死で探していた。
「ヴィオさんからの連絡は?」
「うーん…ちょっと待t…!?」
他のデュークとはまるで異なる短髪の顔が、突如として真剣なものになった。一応彼は囚人なのだが、言葉遣いからも分かるように敬語一つも使えなくなっている。それと同様に中身もだらけ気味なスペードだが、やはり中身はあのデューク・マルトの複製体。一度やる気を出せば、もうその顔は本物の彼そのものだ。
二人や仲間たちが探そうとしている存在が今、甘い餌をつけた鋭い釣竿に狙われようとしている。奴らをのさばらせておけば恐るべき事態になるのは確実だ。目線で合図をした二人の男女は、すぐにその場所と時間の正確な特定へと回った…。
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「ミコさん!郷ノ川先生!」
『ケイちゃん、無事だったんじゃ!』『ブランチも一緒か!』
そこにいたのは、蛍が心待ちにしていた救世主の一員であった。見慣れたボロの車であるボロロッカ号に乗りあちこちを回る出張探偵と、様々な病気を治す動物病院の院長。二人とも、探偵局の大事な仲間だ。その言葉からすると、恐らく彼女たちもニセデュークたちに襲われたに違いない。その中を無事に乗り越えた嬉しさを、互いに…いや、正確には蛍はハグで示していた。その横で、ブランチも一安心したかのように肩…というより足の力を抜けている。コウモリ夫婦の質問への回答の通り、それほど彼らにとっては大切な存在なのだ。
再開の喜びによる興奮が収まった後、蛍は重要な事柄を質問した。この逃亡劇が始まって以降、連絡の届いていない二人の事だ。
まず、栄司がニセデュークの襲撃に遭って以降行方をくらました件については、郷ノ川医師やミコの方にも既に伝わっていた。あの場にいなかった二人からその言葉が出たという事実が示すのは、栄司が無事という嬉しい情報だ。この砂漠のような町にいるのは自分たちだけではない、という事を改めて実感し、蛍もブランチも笑顔をにじませていた…が、すぐにもう一つのことに気づき、真剣そうに見えて焦りが隠されないような顔に戻った。と言うより、こちらも栄司と同様に重要な用件だ。
『え、サイカが…』『サイカ?』『あれだよ、宇宙人さんの…』『ああ!』
かつて危篤状態だった父親を郷ノ川医師や探偵局の皆に救ってもらって以降、地球に逃亡した宇宙人の少女、古屋サイカは蛍たちと友達の間柄となっていた。だが、ニセデュークは彼女の姿を借り、有田邸を襲撃したのだ。すなわち、彼女の身に何か危険な事が迫っている可能性が高い…いや、間違いなくそうだろう、と二人は読んでいた。それに、コウモリ夫婦が感じ取った波長は間違いなくこの近くのようである。
しかし、残念ながらその答えは思わしいものではなかった。栄司からの連絡にも、サイカに関する情報は入っていなかった。ボロロッカ号を走らせる中にも、彼女を思わせる存在は見つからなかった…と、ミコは口で伝えた。ただ、蛍は納得した一方でブランチはどうしても信じられないような顔をしていた。
「おかしいニャ…確かにこの近くから感じられるニャ…」
『デュークの仕業じゃないか?』『ニセモンはんが偽の匂いを使っとるとか…』
「私もミコさんの意見に賛成ですけど…」
「うーん…」
それでもまだ不満げな顔の彼やコウモリ夫婦を見たミコは、話題を別のものへと切り替えた。普通ならここでしつこく食い下がりそうなものなのだが、この『彼女』はそのようなうじうじした事はしない。重要なものを手に入れるためには、そのような「人質」などに構っていられないからだ。
彼女と郷ノ川医師が口にしたのは、蛍が手に持っている黒い箱についてだった。以前…恵局長とデュークが行方不明になる前に蛍が託されたこの箱の中には、デューク・マルトに関する重要な情報が含まれている。彼の神経内や体の細胞にナノマシンとして組み込まれている万能の力「時空改変」回路…すなわち彼の力を司る素体のようなものだ。様々な人生を積み、経験を重ねてきたデューク・マルトにとっては無用の産物のようだが、安定した環境下で育成されてきた偽者に関しては別。これを解析すれば、恐るべき「時空改変」の根本的な対処法が明らかになるかもしれない…。
『そういうことじゃ、渡してくれんかのぉ?』
…蛍は完全に油断していた。苛酷な環境から逃れた嬉しさで、完全に気が緩んでいた。
あの時栄司は彼女に厳しく言っていた。そんな重要なものの情報を他人に漏らしてしまうなどどうかしている、と。今、蛍の記憶にあったのはその言葉のみであった。秘密を守ってくれる「仲間」になら、伝えても大丈夫かもしれない…その甘い考えで、彼女はサイカに例の黒い箱の件を告げてしまったのだ。
だが、まだこの一件はサイカにしか伝えていないはず。そして、サイカ自身もまた誰にも伝えない、と約束したはずである。
それなのに、何故ミコはこの一件について全てを知っているのだろうか?恵局長から聞いた…?いや、知る限りはあの一件以降、二人と恵が接触した事はないはず…それなのに、どうして…?
『どうしたんだ、蛍?』
「あ、すいません…」
医師の言葉に従い、蛍がミコに渡そうとした時、突然ブランチが動いた。かつて街の動物の親分として見せ付けていた凶暴な顔そのままに、彼はミコ…いや、ミコのような姿の存在の手に食らいついたのだ!