150.最終章 二人だけの秘密(前編)
…話は少し前に遡る。100万人のニセデュークが一気に送り込まれ、逃亡劇が始まったあの日の前日、丸斗探偵局局長、丸斗恵の行方を数名を除いて誰も掴めていなかったときだ。
彼女が目覚めた時、既に空には太陽が昇っていた。時計の針も、既に挨拶が変わり始める時間を指している。
寝ぼけ眼をそのままに、少々古ぼけた寝室を出て台所へ向かった。階段を降りた先から、美味しそうなご飯の匂いが漂ってくる。この家の主人は、もう彼女の生活リズムに慣れてしまっているようだ。
「ようやく起きたね、お寝坊さん」
その表情に何を秘めているかは分からないが、その笑顔のみが、今にも折れそうな恵の心を和らげてくれる糧であった。彼女…おばちゃんが沸かす、源泉をそのまま使った銭湯のように。
一週間ほど前におばちゃんが恵局長を見つけた時、彼女はまさに心身喪失と言っても良い状態であった。自らの存在そのものが根底から崩れ去り、存在意義を見失っていた心がそのまま形となっていたのかもしれない。あの明るく賑やかな丸斗恵探偵局長が、一切口を開かなかったのだ。頷きなどの反応は返したが、もう一度言葉を話し始めるまでには数日はかかった。彼女自身の打たれ強さだけは、どんなに心が蝕まれても残りつづけたようである。
ついにこの時が来た。
それが、「おばちゃん」が彼女を見て真っ先に心の中で発した言葉である。この銭湯を開き、探偵局の面々と出会ってから、彼女は覚悟を決めていた。今、恵局長を守る事が出来るのは「自分自身」しかいない、と。
「どう、体の調子は?」
「うん…だいぶ良くなった感じ」
朝ご飯も終わり、恵は今日の朝飯分の皿を洗っていた。意外におばちゃんもずぼらなもので、最近は洗い物を完全に恵に委託している。交代制だと最初に言ったはずなのにもう忘れているようだが、何だかんだでここまで自分が元気になり始めたのは彼女のお陰、呆れるため息の中にも、少しづつ笑顔が戻り始めていた。
再び局長の目と心に光が差し込み始めてからおよそ一週間。彼女の口から「探偵局」という言葉は出ず、いつもはあれほど出たがっていた街へ行く気も起きていない。だが、それ以外は次第に元の姿を取り戻し始めていた。今日もこの家の隣で銭湯を営むおばちゃんを手伝い、皿洗いや洗濯などをこなしていく…というより、何だかおばちゃんに押しつけられ気味に最近思えてきたのはここだけの話。ただ、さすがに能力を知らないはずであろう彼女の前で分身をする事は考えなかった。と言うよりも、あの力を使う勇気は、まだ彼女は取り戻す事が出来なかった。
自らの数を限りなく増やす事が出来る能力「増殖能力」。今ここで自らが増えてしまえば、それはデューク・マルトが与えた力をそのまま発揮しているだけ。それこそ、道具と呼ぶにふさわしいものになってしまう…。
この世に生を受けて初めて、恵は自分の能力に対して恐怖心を抱いていた。
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太陽も南側の頂点を過ぎればあとは西へ急降下。気付けば空は星空が輝いていた。銭湯がある場所は明かりが夜も多いが、それでも恒星の明るさは十分黒いキャンバスを彩ってくれる。
最後の客を見送り、片付けも済ませ、本日の営業も無事に終了。銭湯から外に出なくても、そのままおばちゃんの家へ戻る事が出来る。少々秘密基地を思わせるような廊下を通り、自室のリビングに二人は戻ってきた。
恵局長は、非常によく働いていた。心の中では何か色々と不機嫌なものもあるかもしれないが、おばちゃんが頼んだ仕事をしっかりとこなしてくれている。むしろ、ここまで立ち直りが早いのは「彼女」も少々驚いてた。あの日、夜の道で今にも倒れそうだった彼女とは大違い、しっかりと番頭の仕事をこなしたり、床を磨いたり、ガラスの汚れをふき取ったり。案外やれば出来る子なのだ。
…ただ、その姿におばちゃんは少し寂しげな思いがあった。確かに真面目に物事をこなし続ける彼女だが、何かが違う。大事なものを忘れようと…いや、逆に忘れないように必死になっているのかもしれない。どちらかまでは分からないが、「何か」の正体は、既におばちゃんは承知していた。そのつっかい棒を取られると、それこそ彼女の存在自体が崩れてしまう。この重要さは、「丸斗恵」だからこそのものである。
最初、その話はおばちゃんの方から切り出そうと考えていた。しかし、その必要は無かった。
女性二人、仲良く布団を並べた畳敷きの寝室で、恵はおばちゃんに声をかけた。
「どうしたんだい、恵ちゃん?」
「…聞きたい事があるの」
「え、こんなおばちゃんで大丈夫かい?」
「…うん、というか、おばちゃんだから聞いてほしいなって」
「…分かった」
何でも話していい、と静かな返事が恵に戻ってきた。
一言お礼を言った後、少し言葉を詰まらせながら彼女は聞いた。もし、おばちゃんが誰かに「造られた」存在だとしたらどうするのか。お母さんのお腹の中という訳では無く、何もかも…自分の記憶も、この銭湯も、全てがもし「つい最近」誰かが作ったものだとしたらどうするのか。まるで心の中でずっと抱え込んでいたものを一気に出すように、彼女は言い続けてきた。
「…それは、あれかい?恵ちゃんたちと仲良くした事も?」
「…うん」
「…恵ちゃんにしては珍しく難しい質問だね」
当然恵局長はむっとした顔でおばちゃんの方を向いた。
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。ただ、その空気の感じ方は双方とも異なっていた。
恵局長は、先程の自分の発言に後悔してしまった思い。
「…ごめんね、変な事言っちゃって…」
「探偵局、辞めちゃったのかい?」
「…へ…?」
そして、『おばちゃん』は、自らへ最後の覚悟を決める時間となった。
まだ恵は気付いていなかった。その口調が、少しづつ穏やかなものから、はきはきとした若々しいものに変わり始めていた事に。
「デューク君と喧嘩しちゃったのかな?」
「う、うん…」
「…ああ、やっぱり私が言った通りだね…
…って、そうか覚えているはずないか、最初の依頼」
今度は恵側が驚く番だった。
丸斗探偵局で局長を務める中で、一つだけどうしても思い出せず、分からないものがあった。それを何故、赤の他人であるはずのおばちゃんが知っているのだろうか。当然ながら、恵はその内容を聞かないという選択肢は思い浮かばなかった。そして、それはおばちゃん自身も予想していた通りの流れであった。いつか、話す時が来ると思っていたのだ。
「ごめんねおばちゃん、忘れちゃってて…」
「いいんだよ、気にしなくても。代わりに私が教えてあげるから
あれは…えーと、この場所がなんかゴタゴタになっちゃった少し前…かな?」
銭湯の修理が直っておらず、盗撮の名所になりかけた時だ。裏で動いていた不動産屋も含め、当時はまだ二人のみであった探偵局の面々によって無事事件が解決した。その前にも、既に彼女と関わり合いがあったのである。少々思わせぶりに間を置き、彼女は語り始めた。
「あの時うっかり私は財布を落としちゃってね…」
「さ、財布…?」
「うん、財布」
…いきなり恵は拍子抜けした。最初の依頼というのは、おばちゃんの落とした財布の捜索という何でも無いものだった。慌てて駆け込んだ先が、この丸斗探偵局だったと言う。当然ながら任務は無事完了、貴重なカードも多く入っていたおばちゃんの大事な宝物は彼女の元に返って来た。
「…なんだ、そういう事だったのね…」
「なんだってのは無いよ、小さな事でも最初の依頼だったんだから」
「ごめん、おばちゃん…」
「…ううん、大丈夫」
…大丈夫。今の彼女なら、話す事が出来る。
「…ねえ、一つ秘密を言っちゃおうか」
「え、秘密?」
「うん。この記憶を無くして欲しいって、デュークに頼んだのは私だって事」
「ふーん…えぇ!?」
先程と同じ調子で、おばちゃんの口からとんでもない言葉が出てきた。今回の恵は、別の形で拍子が抜けてしまったようだ。
その様子を見ながら、再び彼女は語り始めた。様子を見る限り、心への影響は少ないようだ。安心したのか、顔にはどこかで見たような悪戯な笑みがこぼれ始めている。
「まぁ、今の反応は無理無いよね、私も同じ状況になってたら凄い驚いたよ」
人前で平気で時空改変を使い、しかもそれを記憶も消さぬまま放置されればたまったもんじゃない。そうやって「彼女」は喝を入れたらしい。デューク本人からも、この最初の記憶は消えていた。それは本人が、自分へと時空改変を行った結果だと言った。
突然の告白に、恵局長は驚くばかりである。ただ、そんな中で彼女はある決定的な疑問を抱き始めた。ほとんどその可能性は無いと思うが、今まで経験した常識外れの様々な出来事、どんな考えでも有り得ないとは言いきれない。勇気を出して、彼女は質問した。
「どうしたんだい?」
「あのさ…ずっと気になってたんだけど…」
おばちゃんの「名前」は、何と言うのだろうか。
今更だが、ずっと聞いてこなかった内容だ。最初の記録にも、その後の記録にも、ずっと「おばちゃん」としか彼女は書いてこなかった。それが当たり前だと思っていたのだ。
…しかし、先程も述べた通り、彼女は何度も常識が覆る事を経験している。今回も、またそうであった。
「…こっちのデュークは、まだまだ青いよねー」
電球のみの明かりの中、少しづつおばちゃんの声が若返り始めた。
いや、姿を変え始めたのは声だけでは無かった。
「私もああいう時代があったんだよね、懐かしいなぁ…」
その言葉とは裏腹に、気付けば白髪にも色が戻り、肌も目つきも若い頃と変わらない姿となっていた。
「ま、この姿で言っちゃうと変だけどね」
薄紫色の短髪、恵とは真逆の方向に流したナチュラルショート。少年も思わせる童顔。
「…へへ、もう分かったかもしれないけど、一応言っちゃおうか?
私の名前は『丸斗恵』。
丸斗探偵局元局長よ」