135.時の輪を繋げ・前 漆黒の帰還
何故、もっと早く向かおうとしなかったのか。
青髪の男は、燕尾服の男に聞いた。自分の感情や都合とは別個に、彼に対して率直な疑問を投げかけたのだ。仲間が危機に晒されているという事態に、彼はどうして今までずっと動こうとしなかったのだろうか。答えは既に、燕尾服が元の綺麗な状態に戻ったデューク・マルトの口から出ている。現在進んでいるのは、未来から来た彼から見れば既に過ぎ去ったはずの過去、自分が余計な干渉を起こしてしまえば、デュークの存在自体が不安定になり、最悪の場合今まで積み重ねてきた探偵局の歴史そのものが崩れ落ちてしまうかもしれない。栄司にも、ブランチにも、蛍にも関わって来た彼の存在は、ある意味栄司にとっては屈辱の、勝ち目のない「交渉術」だった。だからこそ、悪あがきも兼ねて彼はその質問を投げかけたのだ。回答など全く期待してない。
「…申し訳ありません」
「もう何度だ、その台詞。いい加減飽きたぞ」
本当に、罪人である自分が出ても良いのか。デュークは、静かに彼に聞いた。その言葉に、栄司は僅かながら崩れかけていた自尊心、自分が絶対に一番であると言う誇りが蘇る気がしてきた。
丸斗恵や有田栄司、そして彼女の姉であった有田恵の持つ「増殖能力」には、いくつかの副作用が存在している。今まさに恵がその副作用でもがき苦しんでいるのだが、それ以外にもう一つ、良い意味での副作用も存在する。その効力は凄まじいもので、探偵局を開いてから、デュークですら栄司という存在を察知する事は出来なかった。そして、今回も彼の指の音と共に点灯したライトの明かりをもってようやくこの場所の真実に気付いたのだ。
何かおかしいとは思っていた。この「留置所」に入ってからと言うもの、デュークの目線に入って来たのはどれも青髪、同じ服装の栄司ばかり。存在が増えるごとに人々の感覚を麻痺させ、注視したり疑念に確信を持たない限りは、大量の栄司が溢れている事を気づかせない。その能力を亜彼は時に利用し、そして時には今回のように悪用する事もしばしばである。「姉」の真相を探るべく、この留置所…いや、留置場のような「有田栄司の集会所」にいたのは、デューク以外は全員とも彼だったのだ。
「…どうやら」「こればかりは」「俺の方が」「上手だったようだな」
看守も護衛も、検察官も、そして妙に設備が整っている自室のような監獄の中でくつろいでいた囚人のような何かも、ずっとデュークが事実に気付かなかった事に対して勝ち誇ったような顔を見せていた。
素直に自分の負けを告げたデュークに、横にいた栄司の一人は言った。彼を許すつもりは無い。だが、今この状況を救えるのは彼の力しかない。
「絶対に恵を、俺たちを死なせるな。それがお前の刑罰だ」
「…分かりました」
――行ってきます。
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夜の帳の降りた工場の中。
目の前で起きている事に、スティーブンイワサザイ…いや、その弱々しい姿から変貌したかつての邪悪な怨霊は静かに震えていた。
猫に自分の仲間たちを殺されたあの時と同じ凄惨な光景とよく似た事態が、彼を一世紀の憎しみと苦しみから解き放った女に襲いかかっている。力なく横たわるその姿に、仲間たちは何もしてあげられずただ立ちつくみ、涙を浮かべるのみ。唯一彼らを治せそうな医者たちも、その「数」の多さにもはや手の打ちようがない様子である。一人を治したとしても、他の彼女を全て治療しなければ意味は無い。元の探偵局長、丸斗恵に戻れるかの保証は無いというのだ。
「一体…どうすればよいでござるか…」
『何とか出来ぬのか、医者よ!』
「そんな無茶言わねえでくれ、オラたちだって必死に…」
…喧嘩しないで。
か細い声に乗せ、まだ病人の意識は残っている事を恵は伝えていた。医者だけでは無い、彼女自身も必死に戦い続けていた。郷ノ川医師や龍之介の痛み止めで苦しみは解けたが、体に全く力が入らないという状況は続いている。しかし、病と言うのは気持ち次第でその状況が改善する事もあり得る。だからこそ、恵はまだ諦めると言う事はしなかった。
…そう、あの男がいなくたって、自分の意志で未来と言う時空を改変する事は出来る。あの男が…そう、あいつが…
「で…デューク…」
彼に頼るような事はもうしない。そう自分の中で思っているはずなのに、彼の名前を呼び、助けを求めてしまう。やはり、彼がいないと探偵局も、この自分もやっていけないのだろうか…。
そんな彼女の傍で、郷ノ川医師も同じような気分になっていた。どんな薬を使っても病原体の根本を打ち破る事が出来ない以上、恵本人の持つ力で体内に巣くう原生生物を対峙するほか方法は残されていない。しかし、自己免疫というのはそれが作られるまでに非常に時間がかかり、下手すれば完成する前に全てが手遅れになってしまう事もあるのだ。だが、「彼」の力があれば、こういう事も…
「メグちゃん…」
「先生…ごめん、私…」
…その言葉と共に、恵に残された最後の勇気の柱が折れようとした、その時であった。
今まさに朽ち果てようとした柱を、支える者がいた。支えながら、彼はそれを元通りに…いや、さらに強固にする事も可能な力を持つ。
郷ノ川医師の傍に、今までここに存在していなかった人物が現れたのである。背中まで伸びた美しい黒の長髪、それと同じ漆黒の闇のような燕尾服に白いワイシャツ、そして端麗な顔を引き立てる眼鏡のアクセント。
恵だけではない、ブランチも、ミコも、龍之介も、蛍も、カラスも、そして栄司も。全員の心の中に、勇気と希望の柱が再び現れた。やがてくる未来で数々の悪事を働き、過ぎ去った過去の中で様々な悪を砕き続けた男、デューク・マルトによって。
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駆け寄ろうとする皆を、デュークはすぐに止めた。すぐに郷ノ川医師は彼が何をしようとしているのかが分かり、全員をいったん恵たちの傍から下がらせた。以前の柿の木山の決戦時に、彼は自分からこれまでつちかってきた様々な医療の知識をほぼ丸ごとインプットし、自分のものとしている。確かに経験と言うのも重要となるが、医療にはそれを活かす知識や技術、そして発想力も必要だ。龍之介の心配する表情や、彼の悪事を知ったイワサザイも、郷ノ川医師は彼を信じてほしいと告げ、一旦この場から離れてもらう事にした。
「亡霊さん、見てな。これが人間の科学の力だ」
…どうやら既に郷ノ川医師には、例のネコの奇病の原因は何だったのか、悪事が千里を走った結果伝わってしまったようである、
そして、一同が緊張しながら見守る中、丸斗探偵局の助手は、弱々しくも笑顔をしっかりと見せた一人の局長の手をしっかりと握りしめた。その瞬間、突然倒れていた何百人もの恵の体が眩い光に包まれたのである。慣れなければ目も開けられないほどの眩しさの中、次第に何が起こったのか蛍やブランチは気付いた。全ての局長の体一つ一つを、半円状のバリヤーのような透明な空間が包んでいたのだ。一体これは何なのだろうか、ふと気になったカラスが嘴でつつこうとしたが…
「ストップ!」
こういうパターンは、触ると大変な事になる場合が多い。注意したミコの予知は、今回も百発百中の正確さを見せた。その一方でブランチも、何か空間の中で局長の匂いが目まぐるしく変わっているような感触を覚えていた。
恵局長の体で起こっている現象の種明かしは、デュークや郷ノ川医師が教えてくれた。前述の通り、体の免疫機能と言うのは非常に強固なもので、おたふく風邪のように一度感染したらもう二度とかからないような病気もあるほどである。ただ弱点として時間が物凄いかかり、免疫機能のみに頼ってしまうと体への負担が非常に大きくなってしまう。だが、裏を返せば「時間」さえあれば凄まじく強い免疫が生まれるという事にもなる。今、半円状のバリヤーの内部では時間が特殊な流れを見せている。外見や内面構造はそのまま、ある特定の分野、今回で言うと「免疫機能」だけに絞って時間を凄まじく速いスピードで動かしているのだ。かつての浦島太郎の玉手箱のような単なる全身のタイムスリップではなく、特定の場所だけ空間構造を変えてしまう、まさにデューク・マルトの「時空改変」が成せる技だ。
「カラスちゃんだっけ?もしあのまま嘴でつついたら、顔だけおばあちゃんになるところだったんだぜ」
「それは確かに嫌でござるな…」
『本当に信じて良いのか?この男…』
「服役してる囚人が嘘ついたら、警察からどんな目に遭うかぐらい常識っすよ」
そう言うこちらの栄司にも、つい先程向こうの自分からデュークが向かった事を示すメールが届いていた。彼もまた、憎しみや恨みを越えた感情を彼に託したのだ。
そして、次第にバリヤーが薄くなり始めた。よく見ればあの時病原体が感染したと思われる手の傷も綺麗さっぱり無くなっている。空間の中でデュークが設定し、早めた時間はおよそ500年。どんなに強い病原体でも、ここまで時間をかければどんな手を打っても様々な対抗手段を受けて死滅してしまうだろう。その証拠に、先程までまさに病人そのままにやせ細り衰弱していた恵の体は、少年のような服装に似合わずスタイルの良い普段通りの姿を取り戻していた。今回のニセ依頼に関する第一ラウンドは、どうやら探偵局側の勝利に終わったようだ。
バリヤーが消え、時間の流れが完全に元に戻ったのを見計らって、デュークは最後の仕上げとして恵を数百人から元通り「一人」に戻した。健康な体が集まれば、彼女の中にあるのは元気な力だけだ。その活力で、彼女の目が覚まされるのにはそう時間はかからなかった。
先程までの苦しみが嘘のように、恵はあっけなく立ちあがり、駆け寄った蛍やミコの体を受け止めるくらいの気力を取り戻していた。そして…
「…デューク?」
「…局長」
丸斗探偵局助手を待っていたのは、一発のビンタとそれに続く抱擁。
最初のは局長を危機に落としいらせた罰、そして彼の帰還を祝うものであった。