113.柿の木山の攻防・9 / 見よ!戦う動物医師
…郷ノ川・W・仁。郷ノ川動物クリニックを営む、顎髭が自慢の中年の男性。豪快な性格で不安と言う病気を吹き飛ばし、その凄腕で病の根源も蹴散らしてしまう。彼のもとで勉学や治療にあたる医者の卵たちとの仲も良く、近所からの評判もなかなかのものである。しかし、彼に関してひとつだけ、誰も知らない事がある。この動物病院が開かれたのは十数年前。それ以後ずっと同じ佇まいを見せているが、それまで一体何をしていたのか、一切誰も把握できていないのである。彼と関わりを持つ栄司はおろか、デュークですら全く分からない。
ただ、そんな謎に満ちた彼の過去の一端を知る者が、動物病院に一人だけいる。
「うーん…大丈夫だべかな…」
動物病院の秘密の入り口から入り、地下への階段を降りた所に、大きな部屋がある。普段は立ち入りを制限している場所なのだが、しばらく郷ノ川医師は留守にしているという事なので、代わりに副院長を務める月影龍之介がその中に入っていた。彼が語りかけている相手は、瓶の中にいる。濃い緑色をした細長い生き物、チスイヒルたちだ。
悪い血を吸い取り、血行を改善させる効果を持つ彼らを、郷ノ川医師は非常に大事にしている。人間と同様にペットも時に血のめぐりが悪くなったりという症状が起きるため、ヒルたちの出番は多い。しかしそれ以上に、彼とヒルは対等の関係にある事を龍之介は知っていた。
彼の心配する問いかけに、心配いらないと返すかのようにヒルたちが活発に動き始めた。丸斗探偵局に恵・デューク・ブランチ・蛍という四名の強い絆が結ばれているように、長年に渡って医師活動を続けてきた郷ノ川医師の傍らには、たくさんのチスイヒルたちがいた事を龍之介は知っている。彼自身も、医師を始めヒルたちに命を救われ、こうやって医者を続けているのだ。もし出会う事がなければ、自分はただのツキノワグマ、それも実験動物として一生を終えていた事だろう。
「…まぁ先生は大丈夫かもしれねぇが、問題はあっちだべさ」
訛りを入れつつ、彼は本音を口にした。
龍之介が今一番心配しているのは、郷ノ川医師の方では無い。「デューク」たちの方だった。
「うちのセンセ、やりてぇ放題し出すと止まらねえべからなぁ、な?」
…思わせぶりなその口調に、瓶の中のヒルたちも冷や汗をかきつつ大いに同意していた。
はっきり言って、ツキノワグマである龍之介の力ではデュークたちには全く及ばない。ただ、彼はそれをも上回りかねないほどの力を一度だけ目にした事がある。放浪の旅に出ていた郷ノ川医師と共に、ある廃墟を訪れた時だ…。
========================================
そして、そんな彼は…
「へっくし!誰だ、俺の事を噂してるのは…」
全くの余裕の表情。逆に相手の方は…
「「…な…!!」」
全く余裕がない、深刻な表情。
現在、本物のデュークは今まさに命を奪われつつある隠れ里の皆を救うために村の方へと急行している。そのためこの場には彼の意識は向いていない。ただ、もしこちらに彼がいるとしたら、目の前の偽者たちと同じ衝撃を受けるだろう。無敵の能力であるはずの「時空改変」が、見ず知らずのただの医者によって封じられ始めているという事態に。
隙を見つけようと、死角から攻撃を行おうとするニセデュークだが、打ちこまれた巨大な弾丸や凶器は、次々に彼の「口」の中に吸い込まれていった。当然、郷ノ川医師へのダメージは一つも無い。先程と同様にわき腹を貫かんと超スピードで接近するが、相手は被害を受けるどころか逆により力を取り戻しているようにも見えた。腹部に開いたはずの穴の淵からは、次々に鋭い体内器官が生え、新しい「凶器」へと変わっていく…。
今、郷ノ川医師の姿は「人間」から離れ始めていた。
彼の体に見えているのは、あちこちに現れる「口」。鼻の下にある人間の口とは違い、円状の突起の中に、びっしりと鋭い歯が並び、音を鳴らしながらニセデュークを挑発し続けている。そしてその場所は、まさに体から「生える」かのようなものであった。緑色の地毛を掻き分け、頭の後方から濃い赤色の「口」が、両方の掌からは濃い青色、五本の指先ももはや爪は見えず、全て「口」へと変貌していた。そう、その外見はまるで彼とヒルが融合合体したかのようなものだ。恵や蛍、エル、ミコなどの女性陣にこの姿を見られてしまえば、彼のイメージは底なしに悪い方向に傾いてしまいかねないほどである。ニセデュークの顔にも、生理的な嫌悪感が現れていた。
「おぞましい…!」「こんな生物がいるとは…」
「何言ってんだよ。さっきまで見たがってたんじゃないか?」
…とはいえ、正直な所医師自身もあまりこの姿を取るのは苦手な様子であった。白衣の下で、彼と意識を共にしているヒルたちも同じようで、自分たちの力を発揮しつつもどこかばつが悪そうな対応を見せているようだ。そう、今の彼の体は「郷ノ川・W・仁」だけのものではない。彼の相棒であるチスイヒルたちと共に、「邪悪」と言う名の病を殲滅しようとしているのだ…。
========================================
郷ノ川医師が、一番弟子の龍之介にこの姿を一度だけ見せた時、彼らは命の危機に晒されていた。
まだ彼らが「動物病院」という住居を持たず、「各地」で治療と放浪の旅に出ていた頃のこと。ふと迷い込んだ廃墟の街で、医師と龍之介は必死の戦いを強いられる羽目になった。後で知った話だが、どうやら彼らがやって来てしまったのはどこかの大企業の生物実験が失敗し、そのまま放置されたという鉱山町の跡地だったようである。しかし、その実験によって生み出された存在が暴れる中でも、必死に生活を続けている人々がいた。医者である彼らが、それを見て見ぬふりする事など出来なかったのである。
あの頃の郷ノ川医師は、「動物」病院を開くと言う発想など一切持ち合わせていなかった。病気を治せば、それだけで皆が幸せになるという信念の元で、笑顔を見るためにあちこちを彷徨っていた。そして、傍らにいるのはコミュニケーションが可能なクマと、長年の相棒であるヒル。過去には何度も否定し続けていたが、彼はあくまで自分の気持ちが通じる相手しか眼中に無かった。自分の善意が通じない相手…例えばこの鉱山町に隔離されている異形の生物には、一切の躊躇もなくその命を奪っていたのである。お礼や笑顔の報酬を渡さない相手は、病気など治す価値は無い。一言で言うと、当時の彼は完全に天狗となっていた。
そんな時であった。彼らの前に、今まで見た事も無い巨大な生物が襲いかかって来たのは。
人々が次第に元気を取り戻し始めている中で、一行はある噂を聞いていた。これまで蹴散らしてきた生物以外に、途方もないほどの存在がこの街を彷徨っている、と。鉱山街から逃げ出そうとした命を次々に食いつくすと言う番人のような怪物だと言う。
龍之介の威嚇を全く恐れず、逆にその体を持って彼を圧倒したその「存在」を、郷ノ川医師も昔得た知識で知っていた。だが、その存在…「恐竜」は、鳥など一部を残して絶滅したはずである。それなのに、何故この場所で蘇り、暴れ回っているのか。そして、何故死体のように腐りかけた体を維持しながら、あそこまで暴れ続けているのか。これも「実験生物」の一部だと即座の判断で推測した彼は、急いで龍之介や近くの人を逃れさせ、その前にたちはだかった。そして、彼は変貌したのだ。
彼の白衣の上に吸着したヒルが、まるで郷ノ川医師と一体化するようにその姿を変えていったのを、龍之介はまざまざと眼にした。自分が熊に生まれて良かった、と彼はこの時強く実感した。もし自分の体が小さければ、街の人々にあの先生のおぞましい姿を晒す事になってしまうからだ…。
========================================
その時の戦況も、今と似ていた。
先程まであれほど人々を恐怖に陥れ、絶大な力で暴れ狂っていた存在が、郷ノ川医師の攻撃を受ける度に、まるで体から力が抜けるかのように疲れの色が溢れ始めたのだ。二人のデュークも、気付けば息絶え絶えの状況である。いくら郷ノ川医師に様々な力を加えようとも、まさに簾に腕押しの言葉通りの結果になっていた。一体何故か…時空改変者でも、このような事態は初めてである。
「当然だろう?」
ふと口に出たその心に、彼は冷たく答えた。
「命の危機を何度も越えた力ってもんだ、努力なしのチート野郎」
そういう彼の体に、先程とは少しだけ違う点があった。冷静さを失っていなければ、彼の腹が心なしか膨らんでいる事が分かっただろう。
今、彼とヒルたちは「狩り」をしていた。その獲物は目の前の相手であるのは言うまでも無いが、彼らが狙うのはその膨大なエネルギーそのものであった。自らを殺傷すべく突撃する際に生じる運動エネルギー、空気の摩擦によって生まれる熱エネルギー、そして重量も関係する位置エネルギー…体の各地にヒルの口を生やしながら、時空改変の莫大な力を次々に「食いつくして」いるのだ。
そんな事まで頭が回らない状態の相手が疲労困憊し、エネルギーの補給が追いつかなくなっている一方、郷ノ川医師の口からは深い息が漏れていた。
「朝飯も昼飯も抜いてきちまったからな…随分腹の足しになったぜ」
その言葉に、ニセデュークたちの堪忍袋の緒が切れた。最後の力を振り絞るかのように怒りの形相を見せ、一気に飛び上がった。そして二つの影は四つ、八つと次々に増え始める。時空改変能力を用いれば、自らの数を一気に増やすことぐらいは容易なのである。
だが、数百もの影が郷ノ川医師に傷を負わせるという事は、最後まで出来なかった。地面に落ち、力無く倒れる長髪の男たちはやがて姿を消し、元の二つの存在に戻った。意識が尽きた彼らを尻目に、郷ノ川医師は背中に生えた「口」を体の中に収納した。ただ、決して彼は楽に勝ちを収めた訳では無かった。
「…あぶねえ…あれくらいで良かったぜ…」
自らの死角から一気に襲いかかろうとしたニセデュークのエネルギーは、彼の背中から現れた何百もの口…いや、口のついた「触手」のようなものが体にまとわりつき、根こそぎ吸い取ってしまった。彼が融合した全てのヒルを、そちらの方向に集中させたのである。ただ、逆にいえばそれ以上の数で襲われれば、形勢は逆転していた可能性が高い、という事でもある。もし相手が、今回の場合や蛍のような分身ではなく恵や栄司のような『増殖能力』を有していたら…。
そんな事を考えていた直後、彼の体に激痛が走り始めた。張り裂けそうな痛みが、体の芯のみならず全体に広がり始めた。戦いに勝利したはずの彼が恐れていた事態が、襲いかかったのである。白衣やジーンズからこぼれ落ちたヒルたちも、心配そうな表情を見せている。一体何が起きたのだろうか…。
========================================
…彼があの異形の姿になる事を拒む理由は、二つあった。
一つは、あの戦いの結末。
「恐竜」との戦闘も、最初は押されがちだったが、その運動エネルギーなどを吸収するにつれ次第に逆転を始めた。足の裏や拳の上に容赦なく生える「口」が相手に接触すればするほど、どんどんその力を奪い、食いつくしていく。まさに『暴食の悪魔』をも思わせるような姿の前に、もはや「恐竜」は成す術も無かった…。
だが、その命が尽きようとした瞬間であった。郷ノ川医師は、その怪物の瞳の中にある物を見た。決して言葉は伝わらず、意志の疎通も出来ない。そんな存在かと思われていた恐竜の瞳は、間違いなく彼に「感謝」の意志を伝えていたのだ。そしてその瞬間、郷ノ川医師は自らの傲慢さを思い知った。怪物…いや、「彼」はただの加害者では無い。古代からの眠りから無理やり覚まされ、動物実験の犠牲となり、挙句暴走して加害者に成り果てた存在だった事に、全く心が及んでいなかったのだ…。
あの恐竜がどうやらこの町に根付いていた最強にして最後の実験生物だったようで、その後鉱山街に異形の存在が現れる事は無くなった。それを見届け、郷ノ川医師はこの街を去る決意をした。そして、龍之介やヒルたちに静かに話し始めた。
「…俺、医者としてやばい事考えてたみたいだ」
感謝の意志と言うのは、決して言葉だけでは無い。伝える手段が無さそうに見える存在も、何かしらの手段で必ず恩を返してくれる。情けは巡り巡って自分の元に返ってくるもの。しかし、今までの彼は、ただ上面の快楽のみを求め続けていた。自分に酔っていたのだ…。
「センセ…」
「…龍之介、それにダチの皆。協力して欲しい事がある」
「「「「「「?」」」」」」
言葉で伝えられない心を、自分たちが読みとってあげたい。苦しむ「動物」たちを、この手で助けたい。
…彼が動物病院を開設するきっかけは、この旅立ちの日にあった。
========================================
それ以後、ずっと彼はこの姿を使わないようにしている。あまりにも強すぎる力は、自分自身を油断させる事にも繋がるためだ。
しかし、デューク界隈に関しては例外であった。むしろあの姿にならなければ、事態は解決するどころか自分の命すら危険にさらしかねないためである。今の郷ノ川医師にとって、ニセデュークという存在は『緊急治療』が必要なほどの存在であるという認識なのだ。
ただ、それを差し置いてももう一つ、彼が例の形態になるのを嫌がる理由があった。
先程も触れたが、郷ノ川医師は相手からありとあらゆるエネルギーを吸収し、我が物にしていた。お陰で朝食や昼食分の栄養や満腹感は十分に満たされた。だが、世の中には「腹八分目」という言葉がある。いくら美味しい物でも、食べ過ぎは良くないと人々を諌めるものだ。それは、この能力でも決して例外ではない。ニセデュークのエネルギーの量は膨大である事は、その変幻自在の能力からでも分かるだろう。それが一気に郷ノ川医師の腹に集まる。つまり…
「と、トイレどこだ!?」
…狐の隠れ里にやってきた郷ノ川医師の第一声である。
彼がやってきたという事は、戦いに勝利したという証。オリジナルのデュークが即座に彼が本物である事を見抜き、狐や狸、カワウソたちがお礼を言おうとした矢先にこれである。デュークの時空改変能力で得たエネルギーによって活力を取り戻したエルがトイレの場所を指さすと、腹と尻を抱えた一人の人間の男性が一目散にそこへ駆け込んでいった。
「な…なんですの、あれは…?」
「ぼ、僕もよく分からないです…」
どうお礼を言うべきか、皆に微妙な空気が流れだしたのは言うまでも無い。
=============================
隠れ里に襲来したニセデュークのうち、二人の撃破には成功した。
だが、もう二人は今、柿の木山で探偵局と激闘を繰り広げている。栄司と恵が増殖能力を駆使し、もう一方のデュークが本物の実力を見せ、戦況は互角のようである。
…そして。
「完全にやられているな…」
頬も痩せこけて倒れる二人のデュークの傍らに、全く同じ姿をした存在がもう一人いた。エネルギーが尽き、意識も無くなった「自分」の姿を見たそのニセデュークは、女性を思わせる美しい手先を二人の頭の上に当てた。そして、「結果」を見て顔に笑みがこぼれた。
時空改変能力の回路は封じられていない。ただ機能が停止しただけ。まだ彼らは、使える存在である…。