「君には模造品で十分だ」と婚約者が言うので、息を一つかけました。本物は幼馴染様の首飾りです
「君には模造品で十分だ。家宝は、もっとふさわしい場所にある」
婚約の贈り物を差し出しながら、オーギュスト様はそう言って笑っていた。
あの日、午後の応接間の陽の色まで、私は今も目に浮かぶ。
結末を、先に置いておく。あの夜会で、私は息をかけただけだった。それで本物の在りかが分かり、嘘が剥がれ、私は北の領地へ連れて行かれることになる。
そこで待っていたのは、思ってもみなかったほど甘い日々だった。それはまだ少し先の話だけれど……
ロウエル子爵家は、王都の外れで硝子工房を営んでいる。
私はその長女、セシル。十九になる。家は貴族とは名ばかりで、朝は炉に火が入る音で目が覚め、夜は窯の熱が冷める匂いの中で眠る。幼いころから炉の前で育ったので、硝子と石の違いは、手と目で分かる。
その私に、伯爵家の嫡男であるオーギュスト・ベルナール様との縁談が来たのは、去年の秋だった。
家格は向こうが上で、工房の娘にとっては過ぎた話である。父は喜び、母は震え、私は黙って頷いた。オーギュスト様は金の髪の美しい方で、笑うと周りが明るくなる。ただ、はじめてお会いした日から、その笑みが私の肩越しにある何かを見ているようで、少し落ち着かなかった。
婚約が整った三月十四日、オーギュスト様は贈り物の箱を持って工房を訪ねてくださった。
「ベルナール家に代々伝わる首飾りだ。花嫁になる人に渡す習わしでね」
箱の中には、銀の細工に雫形の大きな無色の石が下がった首飾りが、白い絹に包まれて収まっていた。周りには小さな青い石が、涙の縁取りのように並んでいる。名を「北の雫」という。
侍女のマノンが小さく息をもらした。それほど見事な品だった。
私は箱を受け取り、手に取って、ひと呼吸ほど眺めた。
光の返り方が、違った。本物の金剛石なら、灯りを受けて内側に細かな火を抱え、揺らすたびに色を散らす。この石は、ただ明るく透けている。見かけの大きさのわりに、指に載せた手応えもおかしい。
これは、硝子だ。
顔に出さないよう努めてから、私は静かに尋ねた。
「オーギュスト様。これは、写しでしょうか」
オーギュスト様は、悪びれる色もなく肩をすくめた。
「察しがいいな。さすがは工房の娘だ。そう、写しだよ。君には模造品で十分だ。家宝は、もっとふさわしい場所に仕舞ってある。傷がついては困るからね」
「ふさわしい場所、とは」
「それは今は言えない。君は工房の娘だから、本物の石より、硝子のほうが落ち着くだろう」
褒め言葉のつもりなのだと、分かった。分かったからこそ、胸のどこかが冷えた。
見ていたのは、侍女のマノンだけだ。工房の娘と侍女の言い分など、誰も取り合うまい。そう思っているのが、彼の顔に出ていた。
その夜、私は窓辺で、冬の工房の記憶を思い出していた。
幼いころ、真冬の朝の工房は凍えるほど寒く、窓硝子はいつも白く凍っていた。私はそこへ顔を寄せて、はあっと息をかけるのが好きだった。息のかかった場所だけが白く曇り、指で絵を描くことができた。曇りはなかなか消えなかった。
「硝子は、熱を抱える。抱えたものを、なかなか手放さないんだ」
父は炉の前でそう言った。
「だから冷めるのも遅い。焼きの仕事は、そこが肝心だ。覚えておきなさい」
あの冬の遊びが、まさか婚約者の裏切りを見抜く役に立つなどとは、まだ知らなかった。
その夜、私は小さな手帳を開いて、書いた。
『三月十四日、贈り物の日。オーギュスト様、「君には模造品で十分だ。家宝は、もっとふさわしい場所に仕舞ってある」』
翌週から、マノンは屋敷の出入りの商人を通じて、よくない噂を拾ってくるようになった。
「お嬢様。ベルナール家の召使いの方々は、みな『家宝は花嫁に渡された』と思っておいでだそうです」
渡されたのは写しだ。それは、私とマノンだけが知っている。つまりオーギュスト様は、家の人々にはあたかも本物を私に託したように言いつくろい、本物は別のところに置いている。
伯爵様は長く病で床におられ、家宝の管理は嫡男であるオーギュスト様の役目になっている。倉から石を持ち出しても、咎める人はいない。
その別のところを、私はほどなく知ることになった。
オーギュスト様には、コレット・ミラン様という幼馴染がいらっしゃる。男爵家のご令嬢で、私と同じ十九歳。栗色の巻き毛に大きな瞳で、甘えるように笑う方だ。幼いころから兄妹のように過ごしたと、オーギュスト様は何度も口にした。
その「兄妹」の距離が、近すぎるのだ。
庭園の散歩の約束の日、オーギュスト様は来なかった。使いの者が持ってきた手紙には、「コレットが熱を出したので」とあった。次の約束の日は「コレットの父君の用で」だった。観劇に誘われたときには、席は三つ取ってあり、いつの間にか私の隣にはコレット様が座っていた。夜会ではいつも、最初の一曲がコレット様で、私は壁際で飲み物を持って待つ。
その壁際で、向かいから誰かの視線を感じたことが、何度かあった。振り向くと、いつも、黒い礼装の背中が人の陰に消えるところだった。
父は「男には、昔なじみに甘い時期がある」と困った顔をした。母は「我慢なさい」と言った。
ある雨の日には、こんなこともあった。工房の用で伯爵家に伺うと、玄関で傘を畳むオーギュスト様の腕に、コレット様がもたれかかっていた。私に気づいても、二人は離れなかった。
「やあ、セシル。コレットの靴が濡れてしまってね。君の用は、あとにしてくれるかな」
私は頷いて、一刻ほど廊下の長椅子で待った。待ちながら、廊下の窓硝子を眺めていた。伯爵家の窓は、ところどころ波打っている。古い硝子だ。直しがいのある窓だな、と思った自分に、少しだけ呆れた。
私は黙っていた。そのかわり、記録をつけた。
工房の娘は、温度帳をつける。炉の火加減、窯の冷え方、その日の湿り気。数字に残しておけば、失敗の理由が後から分かるからだ。私は同じ手つきで、手帳に書いた。いつ、どこで、誰が、何を言ったか。
『四月九日、観劇の帰り。コレット様、私の耳もとで「お式の後も、オーギュストと私は今まで通りよ」』
夜会の三日前、オーギュスト様はめずらしく自分から工房に来た。
「セシル。今度の夜会には、あの首飾りを必ず着けて来てほしい」
念を押す声が、いつもより張っていた。
「写しでもよろしいのですか」
「いいに決まっている。いや、むしろ着けてこなくては困る。母上も楽しみにしておられる。君が家宝を身につけているところを、皆に見せたいのだ」
「分かりました」と私は答えた。答えながら、彼の視線が私の手帳のほうに向かないよう、気をつけた。
『四月二十七日、夜会の三日前。オーギュスト様、「必ず着けて来い」。念押し』
帰り際の背中を見送りながら、私は思った。何かが仕組まれている、と。写しを渡し、着けて来いと言う。それは、どうしても私に硝子を着けさせたい人のやり方だった。
夜会は、王都でも指折りの大広間で開かれた。
主催は、ベルナール伯爵夫人と古い付き合いのある侯爵家である。シャンデリアには数百の蝋燭が灯り、天井の鏡板がそれを幾重にも返して、広間じゅうが黄金色に揺れていた。使用人は広間に入れないしきたりで、マノンは控えの間で待っている。
私は灰青色のドレスに、あの写しの首飾りを着けて入った。
広間を進むあいだにも、すれ違う夫人たちの囁きが耳に届いた。
「あれが、ロウエル子爵家の」
「家宝を賜ったそうよ。工房の娘が、まあ」
賜った、と言われるたびに、首の硝子が重くなった。私は背筋を伸ばして、前だけを見て歩いた。炉の前に立つときと同じだ。熱いものを扱うときほど、顔には出さない。
オーギュスト様は、すでに広間の奥にいた。私を見ると満足げに頷いて、すぐにまた、人の輪の中へ戻っていった。その輪の中心に、コレット様がいた。
一目で、足が止まりそうになった。
コレット様の胸にも、同じ首飾りが下がっていたのだ。銀の細工、雫形の大きな石、縁取る小さな青い石。私のものとそっくり同じ意匠だった。ただし、広間の灯りを受けた石は、内側に細かな火を抱え、動くたびに白や青の光を撒き散らしていた。
「まあ、セシル様。ご覧になって。私、父に頼んで、あの家宝の写しを作らせましたの」
コレット様は近寄ってきて、かわいらしく首を傾げた。
「本物はセシル様がお持ちでしょう。私ったら、うらやましくて、どうしても真似たくなってしまって。怒らないでくださいね」
周りの夫人たちが、くすくすと笑った。
その笑いを破ったのは、広間の入口からの声だった。
「その意匠は、私の家の鉱山から出た石のものだ」
低くて、飾り気のない声だった。
人垣が割れ、背の高い男の人が歩いてきた。黒に近い濃紺の礼装、肩に北の辺境の紋。年は二十七、八ほど。整った顔立ちだが、笑わない。従者に革の小箱を持たせている。壁際で、いつも向かいにいた背中だった。
ヴィルフリート・ノルトハイム様。北の鉱山の家の当主で、冬の国境を守る方だ。人前にめったに出ない方だと、噂では聞いていた。
「ベルナール伯爵夫人のお招きで参った。百年前、我が家の鉱山から出た石が、貴家の花嫁に渡った。百年ごとに家の者が石を見に来る、という約定が両家にある。今年が、その百年目だ。家の帳面を持参している」
オーギュスト様の顔から、血の気が引いた。この方が来るとは、聞かされていなかったのだ。伯爵夫人は、花嫁に渡した石を、今夜のお披露目で閣下にお目にかけるつもりでいたのだろう。息子にだけは、それを知らせずに。
ヴィルフリート様は、従者の持つ箱を目で示した。そうして、私とコレット様の胸もとを、順に見た。
「二つある。どちらが北の雫か」
広間が静まった。オーギュスト様が、一歩前に出た。声が、わざとらしく通る。
「閣下。本物は、婚約者であるセシルに渡しました。ところが、私が渡したときの石は、あんな曇った光ではなかった。コレットのものは、父君が作らせた写しだと聞いている。となれば、答えは一つしかない」
オーギュスト様は、私をまっすぐに見た。
「セシル。君が、すり替えたのだな」
息の仕方を忘れそうなくらい、鮮やかな嘘だった。
「家宝を硝子にすり替え、売り払ったのだろう。工房の娘にとって、硝子を作るのも、本物を偽物にするのも、容易いことだ。私は君を信じたかった。しかしこれほどの背信を、見過ごすことはできない。この場で、婚約を破棄する」
伯爵夫人の顔が、広間の端で凍りついた。人々の目が、一斉に私に向く。刺すような視線だった。
控えの間のマノンは、ここにいない。けれど、私には手帳がある。そして何より、私には、これがある。
私は顔を上げて、静かに言った。
「オーギュスト様。お確かめいただけますか」
「確かめる、だと」
「はい。私の石と、コレット様の石を、同じ条件で見比べていただきたいのです。伯爵夫人様。お許しをいただけますでしょうか」
伯爵夫人は、迷うように私を見て、それから息子を見た。
「許します。やりなさい」
私は絹の手巾を取り出し、自分の石を外さずにそっと拭いた。それから、コレット様の前に進み出た。
「コレット様。失礼いたします」
「な、何をなさるの」
「石を拭くだけです。脂や汚れがあると、正しく見えませんので」
コレット様は後ずさりかけたが、ヴィルフリート様の視線に、足が止まった。私はコレット様の胸の石も、同じ手巾の同じ面で拭った。
私は一度、息を整えた。
周りに、聞こえるように言った。
「金剛石は、息の温かさをすぐ逃がします。硝子は、しばらく抱えたままです。これから、それをお見せいたします」
まず、自分の石に顔を寄せ、ふっと息をかけた。
雫形の石の表面が、白く曇った。ひと呼吸、ふた呼吸、三つ数えても、曇りは消えない。薄い霧がそこに留まって、灯りの色をにぶく返している。
「ご覧のとおり、白いままです」
次に、コレット様の石へ。ほんの少し身を屈めて、同じ強さで、息をかける。
白い曇りが、一瞬、石を覆った。
次の瞬間には、もう消えていた。石はひと息のあいだに、澄んだ光を取り戻し、内側の火をまた散らし始めた。
どよめきが、広間を走った。
「これだけで決まるわけではございませんが」と、私は言った。「脂や汚れの乱れもございますし、これは鑑定ではございません。あくまで、見分けの手がかりです。確かなことは、閣下の家の帳面がお示しになるでしょう」
ヴィルフリート様は、何も言わずに歩み出た。
最初から、一目で分かっていたのだと思う。それでも黙って、私のすることを見ていたのだ。
従者から受け取った帳面を開き、コレット様の胸の石に、自分の手を伸ばす。「失礼」とだけ告げて、雫の石を、掌にそっと載せた。
「掌に載せた重さは、帳面の記録と合う」
次に、ヴィルフリート様は石を灯りにかざした。
「内側を見よ。ここに、白い小さな筋がある。羽のかたちをしている。我が家の帳面には、この石の羽が、絵で記されている」
帳面のその頁には、確かに、雫の石の中の羽が描かれていた。コレット様の石の中のそれと、寸分違わぬ形だった。
「本物の北の雫だ。伯爵家の家宝は、そちらにある」
広間が、凍った。
コレット様が、真っ青な顔で首を振った。
「ち、違います。これは、父が」
「父君が、これほどの石を作らせたと」
ヴィルフリート様の声は、淡々としていた。
「オーギュストが、くれたの」
コレット様の口から、ぽろりと言葉が落ちた。
「オーギュストが、君にはこれがふさわしいって、こっそり。夜会で見せびらかして構わないからって。写しだと言えば、誰も疑わないからって」
言ってしまってから、コレット様は両手で口をふさいだ。けれど、もう遅い。
私は、オーギュスト様のほうを向いた。
「オーギュスト様。婚約の贈り物をくださった日のことを、覚えておいでですか」
オーギュスト様の頬が、ひくりと動いた。
私は手帳を開き、書いたとおりに読み上げた。
「三月十四日、贈り物の日。『君には模造品で十分だ。家宝は、もっとふさわしい場所に仕舞ってある』と、仰いました。その先の行には、夜会の三日前の日付で、『必ず着けて来い』とあります。控えの間のマノンを、お呼びいただければ、証言いたします」
私は、まっすぐに続けた。
「私に渡したのが硝子だと知っていたのは、あなたです。模造品で十分だと仰ったのは、オーギュスト様です」
広間は、しんと静まっていた。
伯爵夫人の声が、広間を切った。
「オーギュスト」
伯爵夫人の声は、静かで、冷たかった。
「ベルナール家の家宝を、他家の令嬢に勝手に与え、花嫁には硝子を握らせ、そのうえ偽りの罪を着せて婚約を破棄しようとした。それがあなたのしたことですね」
「母上、これは、違うのです。コレットが、どうしても欲しいと」
「言い訳は聞きません」
伯爵夫人は、ヴィルフリート様と私に向かって、深く頭を下げた。
「セシル嬢。この家の者として、心からお詫びします。婚約は、オーギュストの落ち度による解消とします。この家は、あなたに、慰謝の償いを致します」
それから、コレット様のほうを向いた。
「北の雫は、いますぐ返していただきます。ミラン男爵家には、後日、正式に話をいたします」
コレット様は、震える手で首飾りを外し、膝をついて両手で差し出した。男爵家の父君が人垣の向こうから青い顔で駆けてくるのが見えた。
オーギュスト様の処遇も、その夜のうちに決まった。嫡男の座は、当面のあいだ預かりとし、領地の仕事を一から学び直すこと。社交の場への出入りは、一年のあいだ控えること。家名に泥を塗った者への裁きは、重すぎず、軽すぎず、それでも、彼が自分で撒いた種に見合うものだった。
人垣がほどけ、私が広間の隅へ下がったとき、オーギュスト様が追ってきた。
「セシル」
さっきまでの傲慢さは、どこにもなかった。髪が乱れ、手が震えている。
「待ってくれ。話せば分かる。全部、コレットが望んだことなんだ。僕は君を、本当は」
「オーギュスト様」
「僕が悪かった。やり直させてくれ。君以外に、あんなに、落ち着ける人は」
私は、首を横に振った。
怒りは、湧いてこなかった。胸の中には、ひと息分の静けさだけがあった。
「模造品で十分な私に、お戻りになる必要はございません。どうぞ、ご自分のお家のことをなさってください」
オーギュスト様の顔が、くしゃりと歪んだ。何か言いかけた口が、そのまま動かなくなった。私は軽く礼をして、背を向けた。
背中に、彼の声はもう届かなかった。
夜会が終わりに近づいたころ、バルコニーの端に、ヴィルフリート様が立っていた。
私が外の空気を吸いに出ると、そこに先客がいたのだ。
「お邪魔でしたら、戻ります」
「いや。あなたを待っていた」
ヴィルフリート様は、夜の庭に目を向けたまま言った。
「あなたは、あの石の前に立つ前に、自分のものを先に拭いた」
「はい」
「他人の石から調べるのが、普通だ。だが、あなたは自分のものから先にした。公平だった。あなたのやり方を、見たかった」
「硝子と石の違いは、炉の前で教わりました。それが私の仕事です」
ヴィルフリート様は、少しのあいだ黙った。それから、短く言った。
「石と硝子を一息で分ける目を、北に欲しい。……目だけではなく、あなたを」
聞き間違いかと思って、私は瞬いた。
ヴィルフリート様の耳が、うっすらと赤い。
「私は、工房の娘です」
「承知している。北の領地には、硝子の窓が足りない。冬が長く、窓の曇りは凍りつく。あなたの工房の腕を、必要としている。それが、まず一つ」
「一つ」
「二つ目は、あの冬の遊びの話だ。二年前の冬、北の窓硝子を頼みに、あなたの工房を訪ねた。あなたは奥の炉の前にいて、私には気づかなかった。代わりに、父君から聞いた。幼いころ、窓に息をかけて絵を描いていた娘だ、と」
胸の奥が、熱くなった。
「三つ目は、私が、あなたを見ていたかったからだ。夜会で、いつも壁際に立つあなたを」
あまりにまっすぐな言い方に、喉の奥が詰まった。泣くかわりに、私は小さく息を吐いた。
「お断りする理由が、見つかりません」
「では」
「お受けいたします」
ヴィルフリート様の手が、おずおずと伸びてきた。まめと傷だらけの大きな手が、私の指を包む。冷たいと思ったその手は、すぐに温かくなった。
北の国境の城は、石の城だった。
冬は長く、風が強く、窓という窓が霜で白くなる。私は着いて半月で、城の裏手に工房の建物を建ててもらい、炉に火を入れた。北の砂は純度が高く、硝子が澄む。まさに、ここのために生まれたような土地だった。
父と母は、娘が北へ行くことを、泣いて喜んだ。式は、その年の秋に、城の礼拝堂で挙げた。
ヴィルフリート様は、毎朝、工房に来る。
寒い朝には、炉に火が回るまで、私の手を両手で包んで、息で温めてくれる。私の寸法で作らせた、毛皮の裏付きの手袋が、ある朝、作業台の上に置いてあった。炉の前で汗をかいていても、扉の外で待っている。
「入ってください、閣下。ここは暑いですよ」
「あなたの仕事場だ。邪魔はしない」
「邪魔ではありません。見ていてほしいのです」
そう言うと、ヴィルフリート様は決まって、耳を赤くして入ってくる。
城の侍女たちの話では、閣下は窓硝子の見積もりを、三度も自分で読み直されたそうだ。数字の脇には、「工房の者を急かさぬこと」と書き添えてあったという。
私が風邪をひきかけた日には、工房の扉に「立入禁止」の札が下がった。札を書いたのは、閣下ご自身だった。炉の火は侍従たちが守り、私は毛皮にくるまれ、熱い蜂蜜湯を三杯飲まされた。
「仕事なら、明日もある」
「閣下、窯の火が」
「火は、見ている。あなたは、休め」
文句を言おうとして、毛布の端を直す不器用な手つきを見てしまい、私は何も言えなくなった。
夜には、工房の隅に、私の椅子が増えた。背もたれが高く、座面に厚い毛皮が敷かれている。大工に注文したのも、閣下だった。気づけば、窓辺の棚には、私の好きな青い小瓶の花が毎週、新しく挿されている。
「閣下。贈り物が、多すぎます」
「足りないと思っている」
真顔で言われて、私は笑った。この人は、嘘の飾りを持たないぶん、愛情の量りかたも飾りがない。足りないものは足し、余ったものは、また足すのだ。
風の便りに、オーギュスト様とコレット様のその後を聞いた。オーギュスト様は領地の畑の見回りの途中、私が焼いた北の窓硝子の話をする商人に出会って、黙って帽子を深くかぶったそうだ。コレット様は男爵家で外出を禁じられ、毎晩、あの首飾りのない胸もとを撫でているという。
オーギュスト様は、本物を前にして、模造品のほうを選んだ。それに気づくのが、少し遅かっただけの話だ。
春には、城の大広間の窓が、全部、新しい硝子になった。
その最初の一枚が、私の焼いた硝子だった。型からはずし、徐冷して、磨き上げた窓は、朝の光を水のように通した。
試しに、私は窓の前に立って、はあっと息をかけた。
白い曇りが、窓の隅にふわりと広がった。まだ冬の名残の冷たい朝で、曇りは、ゆっくりと留まった。
隣に来たヴィルフリート様が、何も言わずに窓を見つめていた。それから、人差し指をのばして、曇りの上に何かを書いた。
一画ずつ、ゆっくりと。
短い言葉だった。読み終えたとき、頬が熱くなった。
父の言葉を、私は思い出した。硝子は、熱を抱えたものを、なかなか手放さない。
指で書かれた言葉は、朝の光が窓枠を渡りきるまでのあいだ、消えずにそこにあった。




