沈淪
ちんりん【沈淪】
「沈」も「淪」も、しずむ意。
① 深く沈むこと。
② ひどくおちぶれること。零落。
「先生。今月の家賃、もらいに来ましたよ」
大家である銭湯の娘が、私の部屋の戸を開いた。
「あぁ、さっちゃんか。二、三日待ってくれないか。原稿料が届く予定なんだ」
娘……さっちゃんは、遠慮することなく部屋に入るや否や、机に向かっている私の横に座った。
「先生、それ、何回目ですか。私が父さんに怒られるんだわ」
「なんて?」
「戦争も行っとらんくせに、誰も読みゃあせん文章ばっかり書いとる、って」
「まあ、本当のことですからね」
さっちゃんは、歳のころなら十六、七といったところだろうか。四六時中、達磨のような顔をしている主人の娘とは思えぬほど、よく笑う、愛嬌のある娘だった。ただ、何かと理由をつけては私の部屋へやって来る。
「本当にもらえるんだよ。新聞社の原稿料が入るんだ。なんなら、それで大須に新しく出来た喫茶店というものへ連れてってやったっていい」
「喫茶店?」
「ああ。珈琲を飲むところだ」
「私、行ったことないです」
「そうか。なら、なおさら連れて行ってやらなくちゃいかんな」
娘は嬉しそうに笑った。
その顔を見るためだけに、この嘘をついたのは一度や二度ではなかった。ある時は映画館へ連れて行ってやると言い、またある時は甘味処へ連れて行ってやると言った。金と違って、嘘というものはいくらでも生み出せる。原稿料が入ったら、出版したら、来月になったら――そう言っておけば、まだ手に入っていないものまで、いくらでも約束することができた。
さっちゃんは、これまで一度も守られたことのないそんな約束を、それでも毎回信じているようだった。私は、その笑顔を見る為に、また次の嘘を考えていた。
「今度、記者とすき焼きを食いに行くんだ。一緒にどうかな?」
「楽しみにしとるでね」
「男の部屋に年頃の女の子が、こんなに入り浸ってはいけないよ。早く下へ行きなさい」
「はあい」
さっちゃんは笑いながら階段を下りていった。
原稿料が入るというのは本当だった。ただ、新聞の隙間を埋めるような小さなコラムや、もっともらしい噂話を書いた代金にすぎない。下宿代を払い、煙草を買えば、それでもうほとんど消えてしまう。それでも新聞だけは、毎日読むことにしていた。買う金はないから、古いものを誰かから譲ってもらうか、新聞社で仕事をした帰りに貰ってくる。
ある日、その新聞をめくっていると、同じ名古屋で書いている男が芥川賞を取ったという記事が目に入った。戦争が終わったから書けない、世の中が落ち着かないから書けない、そんな言い分はもう通らないのだと、新聞一枚を前にして思い知らされた。
私はいつまでも戦争のせいにし、世の中のせいにし、しまいには自分の肺のせいにして、何も書けない男のままでいた。名古屋へ来たのだって、作家になるためだと人には言ったが、本当は故郷で後ろ指をさされるのが嫌だっただけなのだ。
下へ降りると、達磨が番台に座っていた。
「おや、先生。風呂かね?」
口元だけ笑って、嫌味を言う。
「ちょっと散歩だよ。体を動かさなくてはね。肺にも良くないんだ」
「そりゃ、いかんわ。家賃を払うまでは、死なんといてちょうよ」
「縁起でもないことを言わないでくださいよ」
「何言っとる。こっちは金さえ貰えりゃええんだで」
達磨はそう言って、番台の帳面へ目を落とした。
娘には薪割りから掃除まで何もかもやらせて、自分は番台から一歩も動かない。ここへ越してきた頃は、まだ釜場へ入っていたはずなのに、今では番台に根を生やした妖怪のようだ。
お気楽なのは、どちらだと言ってやりたいところだったが、そんなことを言って下宿を追い出されたら、私には行くところがない。
私はそそくさと銭湯を出て、西川端町の新聞社まで歩いて行くことにした。市電に乗る金も惜しかった。
銭湯がある中川から離れるにつれて、往来は次第に賑やかになっていった。商店の軒先には品物が並び、荷車が行き交い、仕事帰りらしい人々が道を急いでいる。ところどころに空き地があり、その向こうには、まだ焼けた壁だけを残した家もあった。
復員してきたらしい男が、古びた軍服の上着を着たまま道端に腰を下ろし、短い煙草をしゃぶるようにくわえていた。
空襲なら、私も何度か経験した。夜中に警報で叩き起こされ、家を出て、遠くの空が赤く染まるのを見たこともある。それでも、戦地へ行ったことはない。銃を担いで歩いたことも、敵と向き合ったことも、隣にいた男が死ぬところを見たこともない。
街はもう、戦争のことなど忘れたように動いている。
私だけが、いつまでもそこに取り残されているような気がした。
早いところ下宿代を払わなければ、この猥雑な街の路上へ落ちてしまう。
今日こそは貰わなければならない。
煤けた社屋に入ると、部屋中に充満した煙草の煙の奥で、記者は露骨に嫌な顔をした。
金をむしりに来た亡者でも見るような目つき。
こんな目つきをした連中が、これからはデモクラシーだ、新しい時代だと言うのだから、気が狂っているとしか思えない。だが、そんな気の狂った連中に頭を下げて仕事をもらわなければ食っていけない私だって、傍から見れば魑魅魍魎の類かもしれない。
記者に弱音を吐き、同情を引き、相手を煽て、何度も頼み込んで、ようやく原稿料と次の仕事にありついた。思いのほか原稿料は多かった。以前に書いた短い小説を、新聞の連載物として使ってくれるという。
少々舞い上がって、煙草を買い、安酒を飲んだ。帰りは市電にも乗れた。
これで暫くは、達磨に嫌味を言われずに仕事ができる。
そんな浮ついた心持ちのまま部屋へ戻ると、さっちゃんが、そこら中から引っ張り出した原稿用紙を畳の上へ広げ、読み耽っていた。
「さっちゃん。勝手に人の部屋へ入るんじゃないよ」
「先生。これ、私でしょう?」
さっちゃんは原稿用紙の一行を指でなぞりながら、眉を寄せていた。文句を言うつもりらしいのに、頬には薄い赤みが浮かんでいる。怒っているのか、恥ずかしがっているのか、私にはよく分からなかった。
「勝手に私のことを小説にして、こんな卑猥なもの、書かんでくださいよ」
さっちゃんが読んでいたのは、先ほど新聞社に連載物として買い取ってもらった小説の続きだった。戦争で家族を失った少女が、焼け跡の街で生きていくために喫茶店で働き、夜になると街へ出て男の相手をするという、情事や濡れ場をこれでもかと並べた、俗人の気を引くためだけのような読み物だった。私は原稿料欲しさに、そんなものを書いていた。
主人公の歳も、愛嬌がよく笑うと少し目を細めるところも、さっちゃんをそのまま紙の上へ移したようなものだから、私には明確に「違う」と言うことができなかった。
「……よく読んだな」
「読まんわけにいかんでしょう。私のことが書いてあるんだで」
さっちゃんは紙をめくりながら、そこに書かれた少女の身の上を追っていった。
「先生、私……」
「自意識が過ぎるというものだよ」
私は部屋の入口から、畳に広げられた紙を一枚ずつ拾い上げながら、さっちゃんの近くまで歩み寄り、その脇に腰を下ろした。
「先生は、女のことが何にも解っとらんで」
そう言うと、さっちゃんは私の首に腕を回した。
ふいに耳元へ甘い声を落とされると、酔いの残った身体の奥まで、その声が入り込んでくるようだった。
「東京の作家先生は、金もないくせに酒ぇ飲み歩いて、女ぁ掠め取っては借金ばっかこさえとるんだとさ。先生も、そんなんに溺れてまえばええんだわ」
「私はそんなこと、できないよ」
「嘘だがね。だから、滅多に飲まんお酒を飲んできたんでしょう?」
さっちゃんはそう言って、私の顔を覗き込んだ。
「さっちゃん。大人の男を揶揄うもんじゃない」
「ほんとは私が夜に何しとるか知っとるくせに、知らん顔しとるんですか、先生」
——知っている。
毎晩のように、下の住居部分から子猫が鳴くような声が聞こえてくるのだから、知らないはずがない。その声を聞きながら、私は原稿用紙に向かっていた。さっちゃんをモデルにした少女が、焼け跡の街で生きるために男の相手をする話を、金になるからという理由だけで書いていた。
私は、それを小説と呼んでいた。
私も、あの達磨と同じ人非人だ。娘を喜ばすためだけに嘘を重ねるだけではなく、自分の半分ほどしか生きていない娘の淫らな行為を、金に変えた。
そう思いながらも、私はさっちゃんの腕を振りほどかなかった。首に回された腕から、釜場の煤と汗の匂いがした。さっちゃんに引かれるまま身体が傾き、私もそのまま畳へ倒れ込む。顔を上げると、すぐ目の前にさっちゃんの顔があった。
——普段飲まない悪酒のせいだ。
「……ほんなら、先生も一緒にどう?」
ああ、このまま何もかも放って仕舞えば、私にも小説が書けるのだろうか。
そうすれば、さっちゃんの中に幾人もの男が置いていったものが、少しは分かるようになるのかもしれない。私はその頬に触れた。鬼灯のような赤い唇を見ているうちに、ほんの少し、それを口に含んでみたいという欲が、ふいに湧いた。
さっちゃんは、その手を退けようとはしなかった。
このまま堕ちてしまうのは、ひどく容易なことだった。
了
この物語の舞台は、1949年の名古屋です。
主人公は、作家になりたかった男です。
東京へ出て行くほどの思い切りもなく、故郷へ戻ることもできず、その中途半端なところで名古屋へ来た。
それでも、落ちぶれたくはなかった。
新聞社から原稿料を貰い、原稿用紙に向かい、さっちゃんから「先生」と呼ばれる。作家として大成しているわけではない。それでも、さっちゃんの前では作家先生として振る舞い続ける。
原稿料が入ると言い、喫茶店へ連れて行くと言い、映画へ行こうと言い、すき焼きを食べようと言う。
守れるかどうかも分からない約束を、彼は嘘だと知りながら重ねていく。
それは、さっちゃんを喜ばせたいからだけではありません。
そうしている間だけ、自分はまだ「先生」でいられるからです。
ところが彼は、自分が知っているさっちゃんの暮らしを小説にして、原稿料を得る。
そして最後には、そのさっちゃん自身に手を伸ばそうとする。
小説を書くためなら、さっちゃんの何かを知ることができるのではないか。
そんなふうに考えながら、彼は自分の欲望に理由を与えようとする。
落ちぶれたくない。
そう思っている男が、まさにその瞬間、自分から落ちぶれようとしている。
しかも本人は、まだそれを「作家」という言葉で覆おうとしている。
この作品で書きたかったのは、そんな男の、転落する直前の姿です。




