最愛のあなたで英雄になる
肩で息をする。吐き出した息が白い。くるくると闇と混ざり合いながら落ちて溶けていくさまを見つめていた。酷く、虚しいまま。
視界の端に煩わしくちらつく白は、今年初めの雪だった。
足はじんじんして痛くて寒いのを通り越して、どこかぼうっとしたここに立つ感覚を伝えていた。
手には、ずっしりと思い剣。柄から伸びた鉄の塊はよく磨がれていたはずなのに、今はどこか曇っていて、そこにはべったりと血と油とがついていた。
こんなもの早く手放して打ち捨ててしまいたいのに、見ているだけでも嫌で重みが増してくるようなのに、私はそれを手放せない。ぶるぶると震える全身の中で、この手はしっかりと握り込まれてしまって、余計に柄を離すまいと握る。
…まだ、温かいのだろうか。
目の前に転がる骸に雪は積もらない。避けるようにして周りの雪だけがどんどん厚くなっていく。
それがまるで、死んだ後も嫌われているみたいで。その目から光が失われてもなお、もう何も感じることができなくてもなお、嫌われなくてはいけないのか。
その刹那、うぐっと喉がえづいた。
まずい、と思った時にはもう遅く、胃の中身が逆流してきた。何とか押し込めることもままならなくて、身体の思うがままにげぼげぼと体内のものを吐き出した。
雪にそれらが広がる。鼻につくすえた匂い。視界が少し眩む。喉が痛い。気持ちが悪い。それなのにこの手はまだ、剣を手放さない。
忘れてはならない、と。忘れてたまるものか、と。
私は口の中に少し残る胃液を無理矢理また胃袋の中へ押し返す。びりびりとした感覚は幸か不幸か、私をほんの少しだけ現実に引き摺り出してくれた。
改めて見ると、元は自分の中にあったであろう吐瀉物も、今となっては汚いものでしかなかった。それは、喉元を切られて絶命した者にも当てはまるのだろうか。死んでしまえば、全て汚くなるのだろうか。…他でもない、あなたでも。
目は見開いているのかどこかぎょろりとした印象を抱かせるし、中途半端に強張った手と指先は死に行く時のことをまた思い出させるみたいだ。…それなのに、口元だけはやけにやんわりと健やかに微笑んでいて。
不気味、ではないけれど、見る者の背筋をぞくりと震わせるような姿。思わず息を呑んで、自分の中にある仄暗い部分を握り込まれたみたいに感じてしまう姿。
だけどどうしようもないほど、縋り付いてそのまま、泣き出してしまいたい。
…あなたはどうして、そんな憎まれ役を自ら進んで引き受けたのか。
あなたは綺麗な人だった。あなたの周りの空気はいつもどこか眩しくて、あなたの歩いて行く先にはこの世の明るいもの全てがあると信じ込んでいた。
まさかそれを、逆手に取るだなんて。
自分の生まれ持ったもの全てを貶めてまで、あなたは私に何を望んだのか。私なんかより、あなたの方がずっと、ずっと、人を惹きつけていたのに。
なのに、あなたは逝ってしまった。
私を英雄にするためだなんて、妄言を吐いて逝ってしまった。その綺麗な体全てに膿を溜め込んで、逝ってしまった。
肺がぜいぜいといって、握りしめた剣からはカタカタと音が鳴る。
…まだ、感触が残っている。
あなたの柔らかい肌に飲み込まれるようにして突き立てた剣、あなたの口から溢れた鮮血を浴びた時のあたたかさ、あなたの匂い、あなたの息遣い、あなたの体の強張りから全てが終わるその時まで。
苦しんで苦しんで、私の心に爪を突き立てていっそ抉り取ってくれたら良かったのに。恨んで、妬んで、その目を怒りで曇らせて私を罵ってくれたらよかったのに。
足の力が、一気に抜けた。雪の中へ、膝が吸い込まれるようにして崩れ落ちた。あなたの顔がすぐ近くまで迫る。あなたの肌はすっかり草臥れてしまって、そっと頬を当てるとひどく冷たくて青白くて。いやでもあなたがここにいないことを突きつける。あなたの姿は、ここにあるのに。
こんな入れ物を残したって、私が喜ぶわけないのに。あなたをあなたたらしめていたのは、あなたのその高潔な心だったのに。
…そもそもあなたは、私の幸せを望んではいなかったのかな。
あの笑顔も、あの優しさも、全部私の勘違いで。あなたはずっと、自分の野望のために私を利用する気でいたのかな。
そう、思わせてくれたら、よかったのに。
どんなに殴られても、打ちひしがれても、私はあなたに夢を見るし、あなたは私に夢を見せてくれた。
初めて与えられた息をしていることも忘れられるような居場所も、あなたが注いでくれた愛に似た何かも。
全部全部、あなたにはなんてことなかったのかな。全部全部、吹いては消える風みたいになかったことにできるものだったのかな。
わかってる。そんなことないってことぐらい、私が一番わかってる。
あなたは全部本気だった。私があなたの願いを、最後の願いならもっと、必死で叶えようとすることを知っていたから。
あんなに酷いことをされても、私にあなたを殺させても、私があなたを裏切れないことを知っていたから。
酷い、酷いなぁ。こんなことになるなら、もっと我儘を言っておけばよかった。こんなことになるなら、あなたがたとえ聞かなくても逃げようと、そう言えばよかった。
ふぅ、と吐き出した息は、私を離れてあなたの肌の上を白く滑る。
ふと、私の目の奥にぼんやりとした欲望が灯った。
これだけは、許してほしい。これからずっと、あなたのいない一生を生きなくてはいけないのだから。
と、心の中で言い訳をする。
何をしても、もう私を叱るあなたはいないけれど、それでも、ほんの少しだけ罪悪感ぐらいは湧くのだから。
そっと、本当にほんの少しだけ、触れるか触れないかのキスを。
唇に触れたように感じたのは、あなたのそれかただの雪のひとひらか。そんなことはもうどうだっていい。
うっとりと瞬きをする私に対して、あなたはその目に何も映さない。
でもなぜか、それでいいと思えてしまった。
あなたのその瞳に私以外を映すぐらいなら、もう何も見ることも感じられることもできなくなって仕舞えばいい。私すらも、映さなくていい。だから、だからどうか…
私以外を、見ないでほしい。
まあ、もう叶ってしまったから。今更私が何を言おうと、あなたには届かないから。
やんわりとした微笑みが顔に広がっていく。その度に凍りついた筋肉と皮膚がピキピキと引き攣るけれど、私は変わらずあなたの額にそっと自分の額を当てた。
目を閉じる。
どこかべったりとした感触のするあなたのそれは酷く安っぽくて。あなたがいないことを、もう一度、味わう。
どこからか、ばらばらと足音が聞こえる。恐らくここから、私の道が始まる。
あなたが自らの命を投げ打ってまで私に着せたかったそれ。
そうだね、と心の中でつぶやいて、そっと体を起こして立ち上がった。
息はもう整っていて、顔にはいつも通りの無表情が浮かんでいた。握り込め直した剣は、そうだ。あなたがくれたものだった。
振り返ると、私は口を開いた。
私が彼女を殺したこと、この国の膿は全て出し切ったこと。つらつらとこの口から出てくるのに、何かにされるがままになっているかのような感覚。それも悪くない。
私が英雄でいれば、私とあなたは切り離せない関係のままだから。
私は歩き出す。振り返ることは許されない。
けれど私はあなたを忘れる気などないし、きっと誰もが私を思い出すたびにあなたを思い出すことだろう。
悪魔と英雄。出会った時は、ただの人と人だったのに。




