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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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短編ホラー

手

作者: 壱原 一
掲載日:2026/07/24

結果ものに成らなくて親へ申し訳ないですが、小学生のころ最多週7で習い事をさせて貰っていました。


算盤《そろばん》、習字、水泳、ピアノ、国語と算数の学習塾にネイティブの先生の英会話。一部は先生お1人の個人経営で、月々にコマ割りが変わります。


その月のスケジュールによって、習字の後にピアノとか、国語と算数を通しでとか、1日に複数通います。当週の余った日はお休みです。それでもいま振り返るとパワフルだったなと思います。


通う先それぞれの子達とふざけたり喋ったりしていたので、“遊ぶ時間が少ない”系の窮屈は感じませんでした。


一緒のクラスになった事がない同学年の子や、別の学年の子、他の学校の子達と局所的な複数の付き合いを営む、独特の交友関係を経験していた気がします。


*


こうした中の1人に、英会話教室と学習塾が同じで、別の学校かつ同学年の子が居ました。


ご両親が物凄い有名企業にお勤めで、その子の習い事は週8。途轍《とてつ》も無く優秀で、きりっと引き締まった利発その物の風貌に、強度の遠視用眼鏡ででかでかと拡大された黒い瞳が何やら謎めいた印象的でした。


英会話教室と学習塾とは近かったので、1日に連続で通う際は、お互い徒歩で移動していました。とは言え連続で通うスケジュールは滅多に被りませんから、初めて一緒に連れ立った時は密かに緊張したものです。


この点、その子は恐らく優秀さ故の堅固な自信に裏打ちされた、屈託ない朗らかさを有していました。


前の習い事の終了後、此方《こちら》と行く手が同じと見るや、□ちゃんも次**?一緒行こ!と気さくに声を掛けて呉《く》れました。


“先刻《さっき》の先生さ”から始まり、うちの学校の先生にもね、□ちゃんとこはどう?そうなの?何それ!うける其《そ》れで?うんうん、へぇ~こっちもさあと、楽しく手を取り踊るように易々(やすやす)距離を縮められていました。


以降おなじ調子で3、4回道すがらのお喋りを重ねる内に、お互いの家族構成や親の仕事、習い事の数や種類、お小遣いの額、欲しい物、食べたい物、得意な教科と苦手な教科、好きなテレビ番組やゲーム、漫画と様々な事を知り合いました。


その子の話し易さに此方が懐きました。多分、此方の朴訥《ぼくとつ》や従順と言った辺りを、その子が気に入っていたと思います。


あるとき前の習い事がかなり早く切り上げられ、一旦いえへ帰る程ではない空き時間が生まれました。


仕方なく次の習い事先へ早めに行って、玄関で待機していようと動き掛けた此方の腕を取って、その子は凛とした顔のレンズ越しの大きな目をきらきらさせ、よっしゃあ□ちゃん遊び行こと、ぐんぐん歩き出しました。


*


その子はやはり優秀で、また好奇心が強く、要領が良かったのだと思います。自分では先《ま》ず知り得ない、不思議な場所へ連れて回って呉れました。


通りの中華料理屋さんの裏手へ回り、ひょいと厨房へ入って、おじちゃん来たよ、お水いただけますか、おお、来たのか、飲んできな、と氷入りの水にあり付きました。


其処《そこ》から路地を進んで、赤い三角コーンと黄色いチェーンで封鎖された廃ホテルへ着き、ドアが壊れたバーの跡地で独自ルールのビリヤードとダーツを教わりました。


離脱して次の習い事先方向の立体駐車場へ赴き、アスファルトを割って伸びる下草と錆びたドラム缶が風に吹かれる外階段下の陽だまりで、猫が数匹団子になって寝ているのを撫でました。


傍の立水栓《りっすいせん》と、その蛇口に吊るされたかぴかぴの石鹸で手を洗いました。


此方はずっとどきどきわくわくしっ放しでした。本当なら習い事先の玄関でただ待っていた筈の時間で、優に過去数か月分以上の遊びと冒険を体験していたのです。


すっかり感動と尊敬に満たされていただろう此方の眼差しを大らかに受けて、その子は次が1番すごいよと確信を滲《にじ》ませて言いました。


*


最後に寄ったのが、次の習い事先への通い慣れた道を、少し脇へ逸《そ》れた奥に立つ文房具屋さんです。


素っ気ない灰色の外観で、正面がガラス張りでした。陽が差しているからか店内の照明は点いておらず、お客さんは疎《おろ》か、店員さんも見当たりません。


その子が何ら臆面なく、銀色のアルミ枠の引き戸を静かに開けて店内へ入りました。続いて此方も入ります。


中はコピー用紙とかスタンプ台とか、オフィス用品が殆《ほとん》どで、此方が肩透かしを食らうより先に、その子が奥のレジ台の前面に据え付けられた低めの棚へ導きます。


棚には取って付けた風に、色鮮やかな駄菓子や、香り付き消しゴムとかロケット鉛筆とかのファンシー文具が並んでいました。


特に、六角形の軸の各面にキャラクターや数字や効果がプリントされていて、転がして出目で競って遊べる、バトル鉛筆と言う人気商品が並んでいたのです。


何時《いつ》だったかその子へ話した、食べたい物と欲しい物でした。“お菓子よりご飯をしっかり食べる”、“ゲームはゲームで遊びなさい”と親に禁じられていましたが、此処《ここ》で買えば密かに手に入れられます。


覚えて呉れていたのが嬉しく、また思いも寄らないタイミングに驚き、もう舞い上がってしまいました。


加えて見知ったお店じゃなく、こんな殺風景で誰も居ない“大人向け”で“穴場”感のあるお店の一角に、自分たち子供向けの商品が然《さ》り気なく置かれているのが、気が利いていて粋な様に感じ、其れにもまた喜びを盛り上げられました。


こんなとこに、こんなのあるんだ。凄い。ええー、今度お小遣い持って来よ。□ちゃん教えて呉れてありがとう。良く知ってるね、こんなとこ。て言うか、色んなとこ。まじ凄いよ。びっくりしたー。


声を潜め、小さく跳ねつつ捲《まく》し立てる此方に、その子はしたりと微笑んで、おやつ買って食べて良いってお小遣い貰ってるからさ、一緒に食べようと言って、慣れた手付きで3個入りの小さなドーナツを取り、レジ台へお金を置きました。


中華料理屋さんのおじさんの様に、予《あらかじ》め通じ合っている了解があるのだと思いました。


子供なりに恐縮してお礼を言い、次は此方にご馳走させてねと約束を取り付けながら揃ってレジ台を離れます。


行きは1列でその子に先導された陳列棚の間の狭い通路を、今度は此方が先頭でいそいそ退店して行きます。


静かな店内に遠慮してひそひそ「お邪魔しました」と添え、銀色のアルミ枠の引き戸を静かに開けてお店を出ます。


続くその子を待ち受けようと店先で振り返る途中で、その子から「ねえこれ持ってて」と気軽な声が掛かります。


先刻のドーナツと合点して「うん良いよー」と差し出した手に乗せられたのは、青が基調の艶々のプリントの1本のバトル鉛筆でした。


え(・)っと驚いて振り返った先の戸口に居るその子を見ると、その子は無灯の店内から、此方へ鉛筆を渡した片腕だけ突き出して笑っていました。


今にも通り掛かる人の前へ、陰から“ばあ!”と踊り出る寸前の、触れるとばちっと指を挟まれるバネ仕掛けのおもちゃを差し出している時の、丁度ジェットコースターの頂点に至って、次には豪速で落下するのを待ち構え、武者震いしている感じの顔でした。


盛り上がった頬が緊張し、弓形《ゆみなり》の目がぎらつく、“1番すごい”所を見せる威勢と楽しみに滾《たぎ》った笑顔です。


後ろに人が立っていました。


*


明るい水色のシャツに、濃い緑色のセーターを着ていました。白っぽく乾いて罅《ひび》割れたがさがさの唇を噛み締めた、中年の人だったと思います。


真後ろにぴったり立って、真上からその子を見下ろしていました。


何時の間に来たのか分かりません。店員さんと思いましたが、斯《か》くなる出で立ちだったので、お客さんを見送りに来た訳じゃ無いと分かりました。


もしかしたら予めの了解は無くて、複数回おなじ事があったのかも知れません。毎回かどうか分からないけど、少なくともこのバトル鉛筆は、その子が“分かってて持って来たんだ”と、強い直感に見舞われました。


万引きされたから怒ってる。


どわっと皮膚が熱くなって、体が縮み上がりました。


どうして 謝らなきゃ 後ろ 違うんです 思考が一挙に錯綜《さくそう》し、曖昧《あいまい》に呻《うめ》く間に、その子が腕を掴まれて照明の点いていないお店の奥へつかつか引き摺《ず》られて行きます。


ごめんなさいお返しします怒らないで返してください ぶるぶる鉛筆を掲げて転《まろ》ぶようにお店へ駆け込んだのは、勇気や友情ゆえでなく、恐慌に惑う自我を凌駕《りょうが》した危機感任せの反射でした。


深々と引き下ろされた顎《あご》、息んで撓《たわ》む首や肩、がっちり締めて固められたく(・)の字の肘《ひじ》の加減から、殴る人だと分かりました。


子供を殴る大人です。


□ちゃん返して貰わなきゃ殴られちゃうと後を追いました。


□ちゃんは笑顔を崩さず素早く体を翻《ひるがえ》し早足でその人へ従っています。


□ちゃんの腕を掴むその人の手は、ふかふか柔らかそうに膨れています。茄子《なす》の実と蔕《へた》の間の紫から緑になる所が傷んで黒ずんでいるみたいな腐敗の色をしています。


子供を殴る大人でなくとも何かおかしいのは明らかです。


“行きたくない”と“□ちゃん”とで狂おしく足掻いた時間が其れは長く感じられましたが、実際は小さな店の事、此方が追い縋《すが》る前に、つかつか進んだその人と□ちゃんはレジ台を迂回していました。


先刻は棚に夢中で意識になかった、レジ台を回り込んだ向かいの壁に、壁と馴染む色のドアが半端に開け放されていて、2人とも中へ消えました。


ばしゃんとドアが閉まって直《す》ぐ、閉まったドアの裏側で、きびきび速い声がしました。


お邪魔しますと挨拶するよう、靴を脱いで脱いだ靴を揃えるよう、此処へ正座して両手を出して動かさないようてきぱき指示してゆきました。


動かすと大怪我するからねっ。


はいっ、ぎゅっと!そう、握ってっ。ぐうーっと、そぉう、押し付けてっ。


自分が何したか思い返してっ、じぃっ…くりっ、反省しなさいっ。


語尾を鋭く切り上げる、凄んだ、張り詰めた口調です。


聞くなり自分が浴びている心地に、殴られる予感に陥《おちい》って、熟々(つくづく)情ないですが、本格的に足が竦《すく》んで、その場で止まってしまいました。


宛《さなが》ら藁《わら》か蜘蛛の糸かに両手で鉛筆を握り締め、息を殺してドアを見るしか出来なくなってしまいました。


ドア越しの声は右奥へ引っ込み、かたん、ぱたっと物音を立てて再び手前へ戻って来ます。


きっとお家になっていて、お茶の間と台所の様な間取りだったんだと思います。


お茶の間と思しき手前へ戻った声は、立った位の高さから座った高さへ下りました。


次《つ》いで、火付け!盗み!殺し!乱暴!こう言う事をするのはねぇ、あなた、全部手癖が悪いんだから!手を躾《しつ》けなきゃいけないの!と喚《わめ》いて前へのめりました。


どちゃん!と2種類の音がします。


勢い良く衝突した音と、その衝撃で揺れた音です。


そこそこがっしりした卓袱台《ちゃぶだい》と、お茶碗とかに聞こえました。


其処にその子の両手があると思って、イメージが浮かびました。


握って、ぐうーっと押し付けた、動かすと大怪我する両手を、台所から取って来た、殴る為の何か、物、麺棒とか、擂粉木《すりこぎ》で、殴られたんだと思いました。


すっと息が呑まれ、歯が食い縛られ、喉の奥で押し潰された声が、1つ鳴るのが聞こえました。


後はいけない!いけない!いけない!と、鋳型《いがた》に嵌《は》め、焼き印を押す風に、定間隔、1本調子の、掛け声とどちゃん!が続きます。


いけない。いけない。いけない。いけない。どちゃん。どちゃん。どちゃん。どちゃん。


精々2分も無かったでしょう。けれど受け止められませんでした。


これって本当なんだっけ。本当じゃないんだっけ。


下の方でいけないとどちゃんを聞き、浮き上がった空の半ばから、直ぐ傍の習い事先や、猫を撫でた立体駐車場、何も出来ずに固まっている惨《みじ》めな旋毛《つむじ》を見ていました。


*


聞いてる?ねえもう行こうってと、揺すられては(・)っとその子を見ると、鉛筆を握る此方の両手を無遠慮に掴む片方も、此方の二の腕を掴んで揺するもう片方の手も綺麗でした。


其処は無灯の文房具屋さんの、無人のレジ台の前でした。


その子は此方と目が合うや、レンズ越しの大きな目をくにゃりと歪め、そんな欲しかったんだ、バト鉛(えん)と、揶揄《からか》いの笑みを浮かべました。


深い夢から突然さめた起き抜けの如く混乱して、ぐっしょり汗に濡れたバトル鉛筆を、苦肉の策でポケットティッシュで拭き、「返さなくちゃ」と慌てました。


その子が大袈裟に嘆息して、両手を垂らして真上を仰ぎ、まじ□ちゃん魂ぬけてたのかよーと盛大に頭を抱え、がばっと直りました。


だから今こっちが新しいの買って、余ったのあげるって渡したんじゃん、それこっちのだった奴だから、返さないで持ってて良いんだって!と呆れ交じりに指摘しました。


そうなの?


そうだった?


そうだったっけと尋ねると、やべ~そうだってとその子が笑います。合間にレジ台へ目を遣《や》ると、ドーナツとバトル鉛筆分のお金が置かれていました。


奥の壁に閉じたドアがありました。


まだ呆然としながらもその子の素振りに促され、取り敢えずポケットへ鉛筆を仕舞います。次の習い事先へ向かう為、今度はその子を先頭に静かな店内から引き上げます。


直前、此方がレジ台へ目を向けていたのを見て取ってか、その子は前を進みつつ、此処はお金おいとけば大丈夫だよと、何気なく述べて外へ出ます。


そうなんだと覚束《おぼつか》ない相槌を打ち、心持ち急ぎ足で後に続いて、外へ出られてほっとしました。


*


俯《うつむ》いて無言で引き戸を閉め、はいこれ見付かると駄目だから今たべちゃおと、ドーナツを1つと半もらいました。


冷たくふかふかの食感から、じゅわっと染み出す甘味と油脂感に、喉の終わりまでなぞられて食べ終え、ティッシュで指を拭き、移動します。


びっくりした?変な人だったでしょ。


むかし学校の先生で、何か熱血教師みたいなので、教え子なぐったら死んじゃって、それでああなっちゃったんだって。


学校くびになって、近所中の噂になって、居られなくなってね。


自分の手癖を反省して、子供に悪い事を反省させるように、でも直接なぐらないようにって、ものすっごい悩みながら自分の手を殴ってたら、


殴られて痛い分と、殴る方の手だって痛いんだよって分を、悪い事をした子供に、伝えられるようになったんだって。


だから、めっ…ちゃ痛いんだけど、ああやって、やられるとね、こっちに力が付くんだってさ。


自分の手を汚さずに、欲しい物を手に入れられる力。


お□さんが、仕事の知り合いの人に聞いたの。出来るの子供の内だけだからって、それで今ここ住んでるんだよね。


秘密だけど、□ちゃんだけ、教えてあげようと思って。


ほんと痛いだけで、他はなんも大丈夫だから、出来たらなるべくやってみなよ。


力つくよ。


まじ内緒ね。


*


車道を車が行き交う中、偶《たま》に自転車や人と擦れ違う中、その子は何気なく述べて、レンズ越しの大きな目を細めました。


習い事先へ着いて、終えて、ばいばいと別れました。


飲み込んだドーナツの甘さと、こっくりした油の香りが、家へ帰り、手洗いとうがいをして、ご飯を食べて、歯磨きをしても残っていました。


以後その子とコマが被らずに、学年を終えて進級し、どうやら中学受験のため引っ越したらしいと分かった時、漸く香味が和《やわ》らぎました。


あの日巡った不思議な場所は、文房具屋さんも含めて、2度と近付いていません。


何も出来なかったと言う思いと、其処まで出来ないと言う思いが、元より強くなかった覇気を明確に減退させました。


中学受験に落ちた後は、過激だった親の意気込みも緩《ゆる》み、程々の所を歩んで今へ至っている次第です。


バトル鉛筆はその日の内にポケットから失くしてしまいました。


帰り際、がやがやする玄関で、使ったティッシュをゴミ箱へ捨てようとポケットから掴んで引き出した時、かつんと音がした気がしました。


おおかた空耳だろうし、混雑で立ち止まれないから、そのまま通り過ぎました。


事の真偽や全貌を知りたいと思いません。如何《どう》あれあの子は優秀で、好奇心が強く、要領が良かったのだと思います。


眼鏡がコンタクトになっていて、俄然、様変わりしていたものの、割と珍しい姓名で、確《しっか》り面影もあったので、先日不意に見掛けた時、一目であの子と分かりました。


霞ヶ関の記事でした。


お礼を出来ていないのが、微かな心残りです。


そんな些事《さじ》、向こうは疾《と》うに忘れてしまっているでしょう。



終.

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