1. 前兆
村の朝は早い。
日がきちんと上がる前から、川の音と鶏の声で勝手に目が覚める。どこかの家の戸が開く音がして、薪の匂いが流れてきて、そうしているうちに村全体が少しずつ起きていく。
ユウは井戸の桶を持って家を出た。
春の終わりの朝は、まだ少し冷たい。息を吸うと鼻の奥がつんとする。西の森には薄く霧がかかっていて、畑の向こうではもう誰かが土をいじっていた。
井戸へ向かう途中、細い道の角から人影が出てくる。見なくても分かった。こういう時間にそこで会う相手なんて、大体決まっている。
「今日はちゃんと持ってる」
やっぱりミオリだった。
肩までの髪を片側だけ耳にかけて、片腕に洗った布を抱え、もう片方の手には小ぶりの水桶を提げている。布の端はまだ湿っていて、裾には川べりの泥が少し跳ねていた。腰紐のあたりには、小さな包みも挟まっている。
「何が」
「桶。昨日忘れてたから」
「一回だけだろ」
「一回やったら十分だよ」
ひどい言いぐさだ。そう思ったが、言い返す前にユウはミオリの手もとを見た。
「水桶まで持ってるのか」
「帰りに汲んだほうが楽だし」
「洗濯物抱えたままでか」
「井戸までならどうにかなるよ」
「ならないだろ」
ユウはそう言って、ミオリが抱えていた洗濯物を半分受け取った。思ったより重い。濡れているぶん、腕にしっかり重さが乗る。
「今日、多くないか」
「ちょっとだけ」
「ちょっとで済む量か、それ」
そこで、混ざっている布の一枚に見覚えがあることに気づいた。
「……その布、うちのやつか」
「ガイさんの」
「親父の?」
「昨日、泥がひどかったから、洗うよって言っただけ」
「親父、何も言わなかったのか」
「うん。じゃあ頼むって」
「……そこまで拾うか、おまえ」
半分呆れて言うと、ミオリは少しだけ肩をすくめた。
「干しっぱなしだったし」
なるほど、とユウは思った。ミオリは昔からそうだ。誰かが困る前に手を出す。大したことじゃない顔をしてやるくせに、地味に助かることばかりする。
水差しが空きかけていれば足しておく。縫いかけのものを見つければ、ついでみたいな顔で針を持つ。そういう小さいことを、妙によく拾う。
「あとでそれも貸せよ」
ユウが水桶を顎で示すと、ミオリは小さく笑った。
「言うと思った」
そう言って、腰紐のところから小さな包みを抜いて、今度はユウへ差し出してくる。
「何だこれ」
「このあいだ擦ったとこに塗るやつ。昨日作ったの、まだ残ってたから」
言われて、ユウはようやく思い出した。薪を割るときに手元を滑らせて、腕を浅く擦ったのだ。大した傷じゃなかったから、自分ではもう忘れかけていた。けれど、ミオリは覚えていたらしい。包みを受け取る前、一瞬だけ自分の腕へ落ちた視線でそれが分かった。
「もう平気だって」
「知ってる。でも放っとくとまた悪くなるでしょ」
包みを受け取る。薬草を煮た匂いに、少し油の匂いが混じっていた。
こういうところも昔からだ。ユウが重いものを持つなら、ミオリは細かいところを拾う。片方だけが世話を焼いているわけじゃない。たぶん、そういう感じでずっとやってきた。
二人で並んで歩く。足の速さを合わせたつもりはないのに、気づけば同じ歩幅になっている。子どものころからそうだった。先に転んだほうが泥だらけになって、もう片方が笑いながら手を引っ張る。怒られそうなことをして、先に見つかったほうの隣に、あとからもう片方が立つ。そういう時間が積もって、今の感じになった。
井戸の近くまで来ると、先に着いていた老婆が縄を手繰りながら言った。
「西風の朝は井戸の水をよく見ときな。変に静かな日は、土地が落ち着いてないことがあるからね」
また始まった、とユウは思う。水を汲みに来るたび、何かしら言う人だ。
苦笑すると、老婆はわざとらしく眉を上げた。
「笑うなよ。若いのはすぐ笑う。犬が黙る夜と、井戸が妙におとなしい朝だけは昔から気をつけろって決まってんだ」
「じゃあ昨日のうちに言っといてくれよ」
「昨日は風向きが違ったんだよ」
老婆は自分で言って少し笑った。ミオリもつられて口元をゆるめる。
「でも、そういうのあるよね。井戸に月が二つ映った日は水を使うなとか」
ミオリが言うと、老婆はうんうんと頷いた。
「怒られるうちはいいよ。何も分からなくなってからじゃ遅いんだからね」
老婆が去ると、井戸の周りにはまた普段どおりの静けさが戻った。湿った土の匂い。木枠にしみた水の匂い。ユウは桶を下ろしながら、さっきの言葉を半分くらい聞き流していた。
村にはああいう言い伝えがいくらでもある。雨が少ない年のまじないも、夜に名前を呼ぶなという話も、冬前に山へ入るときの決まりごとも。大人は昔からそうだとしか言わない。
ユウが抱えていた布を、ミオリが黙って受け取る。胸の前へ抱え直したところで、ユウは自分の桶へ縄をかけた。
「今日はちゃんと手を滑らせないでね」
「おまえ、俺のこと何だと思ってるんだよ」
「ときどき変なところで抜ける人」
その評価はたぶん合っている。ユウは反論を諦めて桶を落とした。縄が軋み、水面に触れる鈍い音が井戸の奥から返ってくる。
自分の桶を先に満たしてから、ミオリの持ってきた水桶にも水を移す。小さい桶なのに、満ちていく音を聞くと、帰りにはそれなりに重くなるだろうことが分かった。
「あとでって言ったの、覚えてる?」
水面を見ながらミオリが言う。
「言われなくても持つ」
「そう」
当然みたいな返事だった。ミオリは腕の中の布を抱え直す。まだ干しきっていない分が少し残っている。
結局、ユウは何も言わずに二つの桶を持ち上げた。片手に自分の分。片手にミオリの分。腕に重さが食い込む。そのぶん、ミオリの負担は減る。
井戸を離れると、道はゆるく家並みのほうへ折れていく。朝の日は少しずつ高くなって、塀や畑の影を短くしていた。
ミオリの家の脇には、畑に面した細い空き地がある。そこに渡した綱へ、よく洗濯物を干す。風が抜けるし、昼前にはちゃんと日が回る。ユウも何度も見ている場所だった。
家の裏手へ回ると、ユウは先に二つの桶を軒下へ置いた。それからミオリの腕の中にあった布を受け取って、二人で綱へ広げていく。まだ朝の日は斜めで、濡れた端だけが少し白く光っていた。
ミオリは風の向きを見て、一枚ずつ間隔を直していく。迷いがない。ユウが雑に広げようとした一枚を、何も言わずに掛け直した。
「そこ、重なると乾かない」
「細かいな」
「細かくないと最後に困るのは自分だよ」
たぶん、それは布の話だけじゃないのだろうとユウは思う。ミオリは先を見ている。大げさな意味じゃない。ただ、次に何が要るかを自然に考えている。
だから薬草を刻むのも上手いし、煮込みの塩加減も大きく外さない。冬前には薪の減りを気にするし、雨続きの週には乾きやすい場所を知っている。
「そういえば」
布を広げながら、ミオリが言った。
「このあいだ言ってたやつ、やっぱりやりたいなって思ってる」
「何が」
「薬草のこと。ちゃんと覚えたい。傷に使うやつとか熱に使うやつとか、いつもサナさんに聞いてるだけじゃなくて、自分でも分かるようになりたい」
ユウは少し考えた。聞いたことがあった気もするが、その時はちゃんと返していなかった気がする。
「いいんじゃないか」
「それだけ?」
「いや、いいだろ。向いてそうだし」
ミオリは布の端を指でつまんだまま、少しだけ遠くを見る顔をした。村の端の畑の向こう、そのさらに先へ続く緩い坂道のほうだ。
「あと、一回くらいは外も見たい」
「外って」
「町とか。大きいところ。別に住みたいとかじゃないよ。ただ、見たことないから」
「見たいのか」
「うん。でも、たぶん見たら見たで、帰ってきたくなる気がする。見て、それでやっぱりここがいいって思うのかもしれない」
ミオリはそう言って笑った。いますぐ出ていきたいわけではない。ただ、ちゃんとその先を考えている顔だった。
ユウはその横顔を見ながら、なんとなく胸の奥が落ち着くのを感じた。そういう先の話の中に、自分がいない形はあまり浮かばなかった。根拠はない。ただ、疑う必要もない気がしていた。
「じゃあ、そのときは俺も行く」
口から勝手に出た。
ミオリがぱちりと目を瞬いたあと、少しだけ困ったように笑う。
「なんで」
「迷うだろ、おまえ」
「迷わないし」
「絶対迷う」
「ユウのほうが迷うよ」
言い返そうとして、たしかにそうかもしれないと思ってしまう。町の道なんて、村の道とは比べものにならないくらい入り組んでいるだろう。ミオリはそれを見て、また笑った。今度は少しだけ素直な笑いだった。
最後の一枚を綱へ掛け終え、空になった桶を持って帰りかけたところで、向こうから走ってきた少年が息を切らして声を張り上げた。
「ユウ、あとで川の下で石投げやるって! 来るか!」
同じ年頃の、よく一緒に遊ぶ相手だ。名前を呼ばれたユウは一瞬だけ川の方角を見た。朝のうちなら、まだ日もきつくない。少しくらいなら――と思った、その直後に、すぐ隣でミオリが干し終えた残りの布を腕にまとめているのが目に入る。
「今日は行けない」
「え、なんで。朝だけだぞ」
「用事あるから」
少年はミオリとユウを見比べて、それ以上は何も言わなかった。ただ、どこか納得した顔をして、じゃあまた今度なと手を振って走っていく。
ミオリは少し歩いてから、横目でユウを見た。
「本当は行きたかったでしょ」
「別に」
「うそ」
「おまえ一人で洗濯物抱えて歩くと、どうせどっか引っかける」
「引っかけない」
「引っかける」
「引っかけないって」
いつものやり取りだった。いつものはずなのに、今朝は少しだけ胸に残った。たぶんさっき、自分が何も迷わずこっちを選んだことに、遅れて気づいたからだ。川へ行くより、ミオリのほうが先だった。考えるまでもなく、そうだった。
それを口にするのは変な気がして、ユウは何も言わなかった。
家へ戻ると、ガイが軒先で縄を撚っていた。太い指が乾いた麻をより合わせるたび、ざらりとした音が鳴る。ユウが桶を置くと、ガイは縄を撚る手を止めずに一度だけ顔を上げた。
「井戸はどうだった」
「どうって」
「水の具合だ」
「普通」
そう答えたあとで、さっきの老婆の言葉を思い出す。西風だの、土地が落ち着いていないだの。けれどガイの顔は冗談を待っていない。真面目なままだった。
「……ちょっと静かだったかも」
自分でも曖昧な言い方だと思った。ガイは縄を撚る手を止める。
「犬は」
「鳴いてなかったな」
「そうか」
それだけ言って、また手元へ視線を落とした。何でもない返事だった。けれど、ほんの少しだけ肩に力が入ったのを、ユウは見た気がした。
「親父」
「何だ」
「さっきから変だぞ」
ガイは答えず、撚りかけの縄を最後までねじった。しばらくしてから、低い声で言う。
「今日は西のほうへ行くな」
「なんで」
「行くな」
理由はない。命令だけがある。
ユウは眉をひそめた。ミオリも布を抱えたまま、何も言わずガイを見ている。朝の光はもう十分に上がっていて、村の屋根の影は短くなりはじめていた。それでも、軒先の空気だけが少し冷えているように感じられた。
西の森の上を風が渡る。乾いた葉が鳴る音が、やけに遠くまで聞こえた。
そのとき、ユウはまだ知らない。
今日という一日が終わるころには、自分がこの朝の匂いを二度と同じようには思い出せなくなることも。ミオリが何気なく口にした小さな未来が、手のひらからこぼれるみたいに失われていくことも。
ただ、なぜか胸の奥に、針の先ほどの違和感が残っていた。
笑い飛ばせるほど軽くもなく、胸の奥で小さく引っかかり続けるような違和感だった。




