この道を征きて帰らざる
こちらにも、あると聞きまして。
そう口にするより先に、相馬はそれが奇妙な言葉であることを悟っていた。
位牌というものは、本来ひとつで足りる。まして血縁を異にする家に、同じ名を刻んだものがもう一柱在る理由など、常識の上では説明がつかない。
それなのに、である。吉見尚武の生家を訪ねた折、相馬はその事実を知った。仏間の奥の整えられた厨子の中に、少尉の戒名を刻んだ位牌があり、その前で手を合わせたあとに奥方がぽつりと告げたのだ。
「藤永様のお宅にも……同じものがございます」
──許嫁だった、という。理由として十分なのかは判断がつかなかったが、その事実だけがかろうじて相馬の理解をつなぎとめていた。
東京の山の手にある藤永家の門前は、いかにも旧家らしい佇まいだった。踏み石の並び、庭木の影ひとつにも、長年積み重ねられた家の作法が滲んでいる。
相馬は鍔を押さえて軍帽を脱ぎ、背筋を正した。襟元はきちんと留めてある。埃は可能な限り払ったつもりだったが、それでも名残は消えきらない。満州から戻ってすでにひと月以上が経つというのに、あの地の乾いた土と、焦げた鉄の匂いが、いまだに靴底の裏にこびりついているような気がする。
女中に用を告げ、通された座敷で待っていると、やがて廊下を進む足音がして、障子がするりと音もなく開いた。
「遠いところを……わざわざ、ありがとうございます」
相馬は顔を上げ、黒に近い着物を着た若い女性の姿を認める。喪に服していることはすぐに分かるが、その姿は悲嘆に沈むというより、何かをきちんと保つために立っているようだった。背筋は伸び、視線はまっすぐ相馬を捉えている。
相馬が何か言うより先に、彼女は畳に手をつき、深々と頭を下げた。
「このたびの戦、帝国の勝利、まことに……ありがとう存じます」
軍人に対する礼だった。戦に赴いた者への、そしてその戦が勝利で終わったことへの礼。相馬は慌てて姿勢を正し、同じように深く頭を下げる。
「歩兵第一聯隊一等卒、相馬であります」
名乗ると彼女は顔を上げ、もう一度、今度はわずかに間を置いてから頭を下げた。
「……藤永希穂子と申します」
吉見少尉が、かつて何気ない調子で口にした名前だ。野営のさなか、ふとした拍子に零れたように。
「本日は……吉見少尉殿のことで、お伺いしました」
「はい」
「こちらにも、位牌があると聞きまして」
やはり、奇妙な言い方だと思う。だが、ほかに適切な言葉は見つからなかった。
「……ございます」
「吉見様の家に伺った折、そのように教えていただきました」
「そうですか」
それきり、彼女は立ち上がった。何も言わず、振り返りもせず、座敷を出て廊下を進む。置かれた位牌の理由を語る必要はなかったし、相馬にもそれを尋ねる理由はない。
静謐な仏間で澄んだ音が一度、空気を切り、余韻を引きながら消えていく。その音に導かれるように、線香の火がわずかに揺れ、白い煙が細く立ち上った。
白檀の香だった。生と死の境を曖昧にする匂い。旅順の塹壕で嗅いだ匂いとはまるで違うのに、同じ死のそばに在るものだ。
位牌の前に手を合わせる。鈴の音の余韻が引くと、相馬は静かに身を起こし、希穂子へ向き直った。
「吉見少尉殿は……」
言いかけて、口を噤んだ。言うべきことは、すでに言われている。報告書に記され、勲章とともに届けられた。ここで改めて語ることは、ただの残酷さに過ぎない。
「……あの方は、立派でしたでしょう」
希穂子はしかし、彼の沈黙を咎めなかった。問いというより、確認に近い口調で尋ねる。相馬は、即座に頷くことができなかった。
立派。
その言葉は、戦場ではよく使われる。命令に逆らわないことも、塹壕から出ることも、銃弾の前に立つことも、すべてそう括られる。
「はい」
ようやく、相馬は答えた。
「立派でなければ、死ねませんもの」
希穂子は相馬の目を見ないまま、そう言った。
あの場所では、立派かどうかに関わらず人は死ぬ。
それとも、立派という言葉がなければ──そう思いかけて、相馬は言葉を飲み込んだ。続けるのが、ひどく無作法な気がしたのだ。
希穂子は仏間の柱に軽く指を添え、どこでもない一点を見つめている。涙はなく、声色は悼みなのか嘲りなのか、判じかねた。
「……生きて戻った者には、扱いにくい言葉です」
口にしてから、相馬は自分が余計なことを言った気がした。希穂子の視線が今までと違って、はっきりと相馬を射抜いたからである。
「名誉とは、便利なものですわ」
彼女の瞳に、初めて感情と呼べるものを見た気がした。悲しみとも怒りともつかない、鋭く澄んだ光だった。
「どなたの死も、正しくしてしまえますもの」
「……」
「お墓の前では、誰も文句を言いません」
国は勝ち、世は浮き立ち、新聞は勇ましい言葉で溢れている。日本国は列強の仲間入りを果たした、と。凱旋の人波、提灯行列、万歳の声──東京へ戻る道すがら目にした光景がよみがえる。
「……少尉殿は、維新に縁のあるお家でしたね」
「ええ。お祖父様は戊辰を戦われた、長州の志士であられたと」
それは聯隊内でも知られていた話だった。長州士族の家。維新の記憶を誇りとして受け継いできた家系。相馬自身は百姓の出で、そうした話を縁のないこととして聞いていたものだが。
「尚武さまは、教えられて育ったのでしょう。決して敵の生擒になる可からず、と」
相馬は頷いた。実際、吉見少尉はそうした言葉を当然のものとして身につけていた。武士の家に生まれ、軍人となることが自明の道であった人間の覚悟だった。
「……潔く一死を遂げよ。少尉殿は、見事に教えどおりなさいました」
旅順のあの場所で、吉見尚武は教えを思い出していただろうか。先祖の代から刷り込まれてきた言葉を、死の間際に噛みしめていただろうか。
それとも、そんな余裕はなく、ただ目の前の部下と地形と、飛び交う弾丸だけを見ていたのか。
「旧い武士道を疑いなく貫いたお人は、皆、逝かれてしまったのでしょう」
希穂子は、その言葉をはっきりと口にした。相馬には分からない。分からないが、彼女の言葉が、空疎な理屈ではないことだけは分かった。
「……ええ、ですから」
相馬は一度、息を置いた。ですから、何だと言えばいいのか、自分でも分からないまま。
「生き残った者はたいてい、運が良かったか。あるいは、心得が悪かったか」
旅順で生き残った者たちはただ、弾がそれただけだ。砲弾が、ほんのわずかにずれて落ちただけだ。あの場所では、生きるか死ぬかを選ぶ余地などない。
「では、あなたは?」
「前者でしょう」
自分はあの戦争を生き延びて、ここにいる。それ以上でも以下でもない。それをどう呼ぶかは、生き残った側の都合に過ぎない。
相馬は、そのまま視線を逸らさずに言葉を継いだ。
「あなたはその教えを、恨んでおいでですか」
「いいえ」
希穂子は、すぐに首を横に振った。否定は迷いなく、澄んでいた。
「信じておりませんでしただけ」
「……」
「信じていなかったから」
希穂子は位牌の前から半歩下がり、雲間の薄明かりの中で相馬のほうを向いた。その目には涙はなく、感情の波立ちも見えない。
「帰ってきてくれたらよかったのに、などと」
その言葉に、相馬は塹壕の縁から見上げた灰色の空を思い出した。砲声が鳴りやまぬ中、倒れた者を置いて前へ進めと命じられたとき、頭の隅をよぎった同じ思考。だが、戦場ではそれを抱いたままでは足が止まる。
「そんな、無益なことを考えてしまうのです」
希穂子はそう言い切り、ゆっくりと立ち上がった。畳に置いていた手を引き、背筋を伸ばす。その視線が相馬を見下ろし、空気がわずかに張りつめた。
「あの人は、すでに弔われております」
「……」
「墓を、夫と思って生きてゆきます」
相馬は深く頭を下げた。その言葉を肯定する資格も、否定する権利も、自分にはないと分かっていた。時代が押し流した戦争の先で、国は栄えて死んだ者は名誉を得た。だが残された者の選択は、いつもその外側にある。
やがて相馬は仏間を辞し、廊下を進んだ。線香の香はまだ衣に移っているが、空気はすでに日常のものに変わりつつある。希穂子は言葉少なに先を歩き、相馬はその後ろに従った。
玄関を出ると、外の光が眩しい。兵舎までの街路は、変わらず戦勝の話で持ちきりだろう。新聞は国威発揚の文句を躍らせ、人々は遠い戦地を英雄譚として消費する。
門前で希穂子は立ち止まった。送るというより、ここまでが自分の役目だと線を引くような所作だった。
「これから、どちらへ?」
希穂子が問うた。形式的にも聞こえるが、相馬には、ここでの別れを確かなものにするための問いのように思えた。
「新しい配置が決まっております。次に戦争があれば……また、そこへ」
戦争があるかどうかを決めるのは兵ではない。あるなら行く、なければ待つ。そしてその中に置かれれば、生きるも死ぬも選べない。選べるのは、せいぜい恐れを飲み込むかどうかだけだ。
希穂子は頷いただけで、それ以上は尋ねなかった。
「どうぞ、お達者で」
それだけが告げられた。武運を祈る言葉でも、再会を期す言葉でもない。相馬は深く一礼し、軍帽を被り直して門を出る。背後で門が閉じる音が、確かな区切りとして響いた。
歩き出しながら、相馬は考える。戦争は、死者に意味を与える言葉を豊富に用意する。名誉、忠義、英霊──しかしどちらにしても、等しく命を奪う。立派でなければ死ねないのではない。立派という言葉を与えなければ、死を扱いきれないのだ。
生き残った者は、その言葉の外側で歩き続けるしかない。弾がそれただけの命を抱え、次の命令を待ちながら。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
リアクションや評価をいただけるととても嬉しいです。




