プロローグ
王子は逃げていた。
追っ手の矢が、闇を裂く。
夜は、血のように濃かった。
王妃の私兵が背後に迫る。
矢に倒れた馬を置き去りにし、アドリアンは森へと駆け込んだ。
ようやく母の死の証を掴んだその夜、すべてが崩れたのだ。
「……くそっ、ここまで嗅ぎつけるとは」
矢が頬を掠めた。
熱い痛みが走る。
視界が赤く染まる。
それが血なのか炎なのか、もう分からない。
最後に見たのは、王妃の紋章を刻んだ指輪。
それを握りしめたまま、彼は闇へ身を投げた。
§
どれほど歩いただろう。
ぬかるむ泥に足を取られ、体が軋む。
右目は痛みで焼けるようだった。矢じりには毒が塗られていたのかもしれない。
左目も霞み、視界はほとんど闇。
もはや剣も握れず、前へ進むことだけが意志だった。
遠くで馬のいななき。追っ手はまだ森の外にいる。
裏切りの瞬間が脳裏をよぎる。
――「殿下、ここは危険ですよ」
身を案じるような言葉を吐きながら、信じていた護衛が剣を抜いた冷たさが、いまも残っている。
母上。どうか、私をお守りください――。
雨脚が強くなり、水が頬を叩く。
ぼやける視界の先、小さな灯りが見えた。
森の奥に、小屋。窓辺で淡い光が揺れている。
「……助けて、くれ……」
掠れた声で扉を叩く。
軋む音とともに、扉が開いた。
そこに立っていたのは、顔を壺で覆った少女。
「あなた……血の匂いがするわ」
くぐもった声。
その言葉を最後に、アドリアンの意識は闇に沈んだ。
――彼はまだ知らない。
この夜の出会いが、王国の運命を変えることになることを。




