第四話
「おはよ、恵人」
目を開けて飛び込んできたのは銀髪赤眼の美少女――ノア・ルベルロットだった。その美しさは、出会った一ヶ月前と変わらない。
寝ぼけ眼の恵人を起こすには十分な破壊力。
「うわ! おはよう!」
その声と共に恵人は飛び起き、すぐさまノアの方に顔を向けた。
「ふふ、寝癖ついてるよ」
ノアが恵人の髪を撫でる。その手つきは宝石を扱うように丁寧で、優しい。
「あ、後で直すよ……」
けれどなんだか恥ずかしく、その手から逃げてしまう。もっと堪能しておけばよかったと思った頃には、もう遅い。
「よく寝れた?」
「……うん、よく寝れたよ」
「そっか、よかった」
そう言って、ノアは恵人に微笑んだ。
その慈愛に満ちた微笑みが、恵人の心を癒す。干からびてしまった心に、潤いを与えてくれる。人間らしい感情を、育んでくれる。
この家に来てから一ヶ月、本当によく寝られている。前の家にいたころは毎日がどうしようもなく不安で、夜は一層孤独を感じて寝付きが悪く。上手く寝られなかった。
ノアと出会って、心身ともに健康になりつつある。
「朝ごはん作ったから、顔洗ったらリビング来てね」
月曜日の朝からこんな気持ちになっていいのかと思っていたところに、さらに恵人を元気づけてくれる一言をノアはくれる。
「え、作ってくれたの」
「もちろん。トーストだけじゃ、味気ないからね」
まるで以前の恵人の朝ごはんを知っていたかのような口ぶりでノアは話す。
(まあ、一人暮らしの男子高校生の朝食なんて想像つくか)
そう思い直し、ノアに向き直った。
「じゃ、また後で」
ノアが部屋から出て行くのを見送り、恵人も重い腰をあげる。
普段は憂鬱で何もかもが億劫な月曜日も、ノアがいれば少し前向きな気持ちになれる。
今までの不幸も、今の幸せのためにあったのかもしれない。
そう思える、月曜日の朝だった。
ノアが作ってくれた朝食を食べ終え、制服に着替えた恵人はリビングに降りた。
洗い物をしていたノアがひょこっと顔を出す。
「あ、もう行く?」
「うん」
その言葉を聞いたノアは、急いで手を拭き、何かを持って恵人の前にやってきた。
「はいこれ!」
手渡されたのは、見るからにお弁当箱が入っていそうな小さいトートバッグだった。
「これはまさか……」
「そ、お察しの通りお弁当だよ」
「お察しの通りお弁当だった!」
当然、恵人は手作りのお弁当など作ってもらったことはない。
お弁当が必要な行事でも、小中学生の頃はお金だけ渡されて自分で買っていた。
そんな恵人に、手作りのお弁当だ。
そんなの、嬉しくないわけがない。
「これが夢にまで見た手作りのお弁当……!」
「そんな、大袈裟だよ」
「大袈裟じゃないよ……ありがとう……」
恵人はそう言って、まるで神様にでも対するかのように、両手を合わせて拝んだ。
「神様仏様ノア様……」
「あはは、でもそこまで喜んでくれると作り甲斐があるね。毎日お弁当がいい?」
「よ、よろしいんで?」
「よろしいですよ?」
「じゃ、じゃあお願いします……」
「はい、承りました。ほら、早く行かないと遅刻しちゃうよ」
「あ、やば。行ってきます!」
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
ノアに見送られ、作ってもらったお弁当を大事に抱えて、恵人は家を出た。
◆
いつもとは違う通学路。
とはいえ、元いた家から新居まではそう遠く離れていない。自転車で高校に通っている恵人にしてみれば、大した差はない。
目新しい景色を見ながら、恵人は思考に耽る。
ノアと過ごす日々は間違いなく楽しい。それはここ一ヶ月の自分を見ていれば嫌でもわかる。
明らかに浮かれ、明らかにテンションが高い。
自分がここまで感情を表に出せることを、恵人はノアとの日々を通じて知った。
今までは感情を殺すことを求められた。
笑うこと楽しいことは許されず、悲しむことすら許されない。
そんな環境で育ってきた恵人にとって今の環境は、今までの鬱憤を晴らせるような素晴らしいものであった。
自分にまだそんな感情が残されていたことにも安心する。
けれど、これから向かう高校は再度感情を殺すことを求められる。
学校での恵人は空気だ。空気は空気らしく、感情を出さず、声も出さず、できる限り気配を消す。その徹底だ。
それが全く苦ではないと言ったら嘘になる。ましてやノアとの生活を経験した後だ。余計に辛い。
だがそれをこなすことは、恵人にとって高校を卒業する条件のようなもの。
だからそれをこなせばならない。こなさなければならないのだ。
ふと顔を上げると見知った道に出ていた。もう少し進めば、学校に辿り着く。
「……よし」
どんなに学校で退屈でも、家に帰ったらノアがいてくれる。その事実が、恵人に元気をくれるのだ。
学校に着いた恵人は、いつも通り自転車を端の方に止め、靴箱で上履きに履き替えた。
そこで持った、確かな違和感。
恵人が忌み子であることは、全校生徒が知っている。真夏でも手袋にマフラーという出立ちなので、当然と言えば当然である。
全校生徒が恵人を空気として扱っているため、敷地に足を踏み入れた瞬間から恵人は空気になる。
しかし今日は、誰にも見られていない、という感覚をあまり感じられない。
(……なんか、変だな……)
けれどその違和感は、教室に入った瞬間確信へと変わった。
恵人に視線を送り、ヒソヒソと話しているグループがいくつか見受けられたからだ。
その異様な空間に、恵人は平静を取り繕うのに必死になる。
(何、なんだ、マジで。なんか、したっけ)
その嫌な視線を浴びながら、恵人は自席へ座る。
変な汗が出る。
口が渇く。
普段は恵人のことを気にも留めない大人しいクラスメイトでさえ、恵人を一瞥した。
何が起こっているのか。
理解できないまま、一限の予鈴が鳴った。
正直助かったと、恵人は思った。授業になれば、さすがに先ほどの嫌な視線も落ち着く。だが、一刻も早く教室を出たい気持ちは変わらなかった。
今日はお弁当のためいつもの場所ではなく教室で食べようと思っていたが、これでは無理だ。
恵人の予想通り、授業が始まってしまえば露骨に視線を向けられることは無くなった。休み時間は机に突っ伏して寝たふりを続け、なんとか午前中の授業を切り抜ける。
そして二つの意味で待ち望んだ昼休みがやってきた。
号令と共に礼をした瞬間、恵人は急いで、だが慌てることなくお弁当が入ったバッグを持ち出し、いつも昼休みを過ごしている場所へと向かう。
一応後ろを確認するが、追って来ている者はいない。さすがにそこまでは物好きはいないらしい。
普段恵人が昼食を食べている場所は、屋上へ向かう、通常普通に学校生活を送っていればまず来ない生徒棟東側の階段だ。
かれこれ一年ほどここで昼を過ごしているが、まず人は来ない。
この学校で唯一、恵人が気を抜ける場所だ。
考えなければいけないことは、確かにある。
けれど今は、ノアが作ってくれたお弁当を全身全霊で味合わなければならない。誰にも邪魔されてはいけないのだ。
「よし、いただき――」
「あ、ここにいたんだ」
その一言に、思わずお弁当を落としそうになる。
誰も来ないし、誰も行かないと思っていた場所。
そこに現れたのは、クラスで一番目立つグループのリーダー、南條楓だった。容姿端麗頭脳明晰、そして恵人以外の誰にでも分け隔てなく接する、髪を明るく染めた今時の女子高生。それが南條楓だ。
当然恵人は楓と話したこともなければ、目が合ったこともない。恵人を空気のように扱う、その第一人者だったはずだ。
そんな楓が恵人の前に現れた理由が全く分からず、恵人は動きを止める。
「いや、どんな顔してんの」
静止するだけでなく、どうやらとんでもない顔を晒してしまっていたらしい。
恵人は気を取り直して、目の前の楓に向き直る。
「……それで、何の用ですか」
「敬語やめてよ、同級生なんだから」
散々人を空気のように扱っといて同級生もクソもないと思うが、恵人はグッと堪え楓の要求に従う。
「……わかった。それで、何の用」
「クラスのみんながさ、気になってるみたいだから」
そう言いながら、楓は恵人から少し離れた場所に座る。階段に横並びで座っているこの光景は、側から見たらさぞ不思議だろう。
「何を」
「日曜日に君が綺麗な女の人連れて歩いてたの、クラスの子が見たらしいんだよね」
瞬間、全身の穴という穴から嫌な汗が出るような感覚に襲われた。
恵人とノアが買い物している場所は、今いる高校からそんなに離れていない。同級生がいるくらいのことは考えておくべきだったが、完全に忘れていた。自分の浮かれ具合がよくわかる。
逆に今までよく見つからなかったなとさえ思う。
その可能性を考慮していなかった自分に嫌気が差した。
けれど、見られてしまった事実はもう変わらない。どう躱すかだ。
「別に、ただの親戚だけど……。俺が誰と出かけてるなんて、どうでもいいでしょ、あなたたちには」
冷静に話すつもりだったのに、口調が少しずつ荒くなってくる。今まで散々人間としても扱ってこなかったくせに、こういう時だけ突っかかってくるのは気分がいいわけない。
けれど楓は、そんな恵人の語気を気に留めることなく、先ほどと同じ声音で話す。
「私はどうでもいいけどね。私が君に聞いて私が皆に話せば、少しは落ち着くだろうから」
その発言に、恵人は虚を突かれた気分になった。
確かに、楓が恵人に聞き、それをクラスメイトに話せば全員が納得してこの違和感しかない学校生活もすぐに収まるだろう。そのくらいの求心力と影響力が彼女にはある。
けれどそんな楓が、一見恵人のために思えてしまうような行動を取るとは思っていなかった。彼女にとっても恵人は、空気そのものではなかったのか。
「……なんでそんなことを」
その問いに楓は顎に人差し指を当てるポーズを作り、
「君に興味があったから、だよ」
首をちょこんと傾け、わざとらしく答えた。
恐らく、幾度となくこのようなやり取りで男子を落としてきたのだろう。好意などはかけらもなく、ただ目の前の人間を都合よく誘導するだけの打算がそこにはあった。
けれどノアで耐性がついたのか、意外にも恵人の心は落ち着いていた。
確かに楓の容姿は整っているが、ノアには及ばない。
「……興味、ね」
取り乱さない恵人を見ても、楓は動じなかった。
「君はどんな忌み子なの?」
「なんで南條に言わなきゃ――」
「だって、気になるから」
「言いたくない」
「言わないと毎日ここ来ちゃうよ?」
「そしたら他の場所行けば――」
「他の場所には友達に行ってもらおうかな」
「……」
もはや恵人に逃げ場はなかった。楓はどうやらかなり性格が悪いらしい。あとしつこい。
「言っておいた方が、身のためだと思うよ」
確かに、平穏で何もない日常に戻ることができるのであれば、一人に呪いがバレるくらいなんてことはない。その呪いの内容も知ってしまえば、楓が自分に近づくことはないだろうと恵人は考えた。
「……自分以外が俺の肌に触れると死ぬ、それだけだよ」
「ふーん……」
聞いといてそれだけか、と思った次の瞬間。
「えいっ」
その掛け声と共に、隣に座っていた楓の手が恵人の手を握った。
「!? 何して――」
「あ、手袋の上からなら大丈夫なんだね。じゃあ全然問題ないじゃん」
手袋越しに伝わる楓の手。ほんのりと伝える体温。
だが一歩間違えれば、この温かさは一瞬にして冷たさに変わる。
気づけば恵人は、楓の手を振り払っていた。
「問題なくねえよ! 馬鹿かお前は!」
自分が思っていたよりも大きな声が出て、すぐ口を紡ぐ。楓は驚いたような、そんな間の抜けた顔をしていた。
「――悪い。でももう、やめてくれ。頼むから。もう、自分のせいで誰かが死ぬのは嫌なんだ」
恵人はすでに、二人をその呪いで殺している。母親と、恵人を取り出した助産師。生まれたばかりの恵人は当然裸。恵人の母親も助産師も、まさかその子供がこんな呪いを持った忌み子だとは思っていなかったはず。
その記憶はないにしても、その事実は変わらない。
例えそれが防ぎ用のなかったことだとしても、二人の命を奪ったことに変わりはない。
その罪だけは、ずっと背負わなければならない。
忘れてはならないのだ。
「……ごめん。私、もう行くね。クラスの人にはうまく言っておくから」
楓は階段を降りて、恵人の視界から消えた。
そうだ、これでいい。自分に関わって碌なことがないことを知って貰えば、恵人の身も、そして彼女自身の安全も保障される。まさに一石二鳥だ。
けれど、どうしてか。
心に穴が空いたような感じがするのは、なぜだろうか。
ノアに作ってもらったお弁当を食べ終える頃には、昼休みも終わりの時間を迎えようとしていた。非常に美味しかったが、心の底から味わえなかったのが心残りだ。
胸にモヤモヤを抱えたまま、恵人は教室に戻る。
すると、教室の空気が以前と変わらぬものになっていることに気づく。
誰も恵人のことを見ず、誰も気に留めない、あのいつもの空気。
きっと楓がうまく場を収めてくれたのだろう。感謝を伝えたいところではあるが、もう二度と話すことはないはず。それだけが心残りだ。
楓のおかげで、その後の授業は落ち着いて受けることができた。
その楓も、恵人に一瞥もくれず授業を受けている。
人の噂も七十五日と言うが、恵人の場合は一日も持たなかった。これが本当に二ヶ月以上続いていたとなると嫌な気分になるどころの話ではなくなるので、やはり楓には感謝しなければならない。
そして放課後、恵人は何事もなかったかのように帰宅した。
「ただいま」
恵人がそう言って玄関のドアを開けると、スリッパをパタパタの鳴らしながらノアが駆け寄ってきた。
「おかえり!学校はどうだっ――他の女の匂いがする」
「え?」
突然の言葉に、恵人は困惑する。
なんかこうもっと、帰ってきた時に人がいる嬉しさとか、ただいまって言ったらおかえりって帰ってくる温かみをもう少し感じていたかった。
「誰?」
ノアの口調は感情が見えず、一切の脚色がない無だ。
それが有無を言わせぬ迫力を持っている。
これは勝てない、嘘をついてもバレると思った恵人は、正直に話すことにした。別に、隠そうとは思っていなかったが。
「く、クラスメイトです……」
「可愛い?」
「顔は整っている方だと……」
「ふーん」
「あ、でもノアの方が綺麗だよ」
思い出したかのように、恵人は本心でそう伝えた。
するとノアが少し顔を赤らめる。
「ご、誤魔化さないの」
「誤魔化してないよ。本当だよ?」
「わかった、わかったから。油断も隙もないな、この子……」
ノアはその場で深呼吸をし、場を整える。
「それで、どういう関係?」
「それが今日初めて話しかけられて……」
恵人は今日自分の身に起こったことを、ノアに説明した。
「そっか、迷惑かけちゃったね、ごめん」
「いやノアが謝ることなんてないよ。多少覚悟してたことでもあるし」
「そうなの?」
「うん。だってこんな綺麗な人と一緒に歩くんだよ? そりゃ目立つって」
「そ、そう?」
意外とグイグイくるわね……と聞こえた気がしたが、グイグイも何も思っていることを言っているだけなのでそんな意識は恵人には毛頭ない。
「まあ、その子と知り合った経緯はわかった。恵人に非がないこともね」
「よかった」
「もう大丈夫なの? 学校での生活は」
「うん、南條のおかげでなんとか普通に戻ったよ」
「そっか、ならよかった」
それにしてもたかが十数分話しただけで女の気配がわかるなんて、改めて吸血鬼はとんでもない生き物だなと認識を改めた。この特性がノアに限ったものでないことを祈る。
恵人は空になったお弁当箱をノアに渡し、「すごい美味しかった」と感想を告げた。ノアは嬉しそうに「また明日も作るね」と言ってくれ、日々の楽しみがまた一つ増える。
「恵人はさ、友達、作らないの?」
着替えと手洗いうがいを終えた恵人がリビングに戻ってくると、藪から棒にノアがそんなことを聞いてきた。
「友達、ね……」
それは、できたらほしいと思っている。
ノアと過ごす中で、自分が意外と会話が好きだということもわかってきた。
けれど、その先に一歩踏み出せない。
一番の理由は、この呪いだ。
少しでも肌に触れれば、その人間は死んでしまう。吸血鬼という例外はあるが、普通の人間に例外はない。
友達となれば、心理的距離だけでなく物理的距離も近づくことになるだろう。
仮に友達ができたとして、なんらかの事故で恵人の肌がその友達の肌に触れてしまったら――。
そう考えるだけで恐ろしいし、恵人に耐えられる気はしなかった。
だからこれは自己防衛だ。
相手を守るというのは建前で、本音は自分が傷つきたくないから。
そんな自分勝手な理由。
「俺が欲しいと思ってても、向こうが忌み子なんかと友達になりたがらないよ」
だから、そんな理由で誤魔化す。
だがノアはそんな恵人を見透かしたように、
「本当にそれでいいの?」
と、再度問い直す。
恵人としては、あまり触れられたくないところ。しかしノアはそこを見逃してはくれなかった。
「それでいいも何も、それが事実だよ」
そう、それが事実。
友達なんて望んでない折原恵人でいいのだ。
それでも、ノアは納得できないような顔をしている。
普段のノアであれば恵人の誤魔化しも知った上で、それさえも許容してくれていた。
それなのに、今日はやけに突っかかってくる。
「どうしたんだよ、今日のノア変だよ」
段々と苛立ち始めたのが自分でもわかった。語気が強くなっている。
「変なのは恵人だよ」
けれど、なおもノアは譲ろうとしない。
「何が変なんだよ。何も変じゃない、普通だよ」
「じゃあ恵人は、嘘ついてるのが普通なの?」
真紅の双眸で、ノアが見つめてくる。その瞳に吸い込まれそうで、恵人はノアから目を逸らした。
「……嘘なんか、ついてない」
「それも嘘だ」
「じゃあ何が嘘って言うんだよ」
「友達、欲しいんでしょ?」
「……」
何も言えない恵人に対して、ノアは畳み掛ける。
「だって恵人、私と話してる時すごい楽しそうだよ? 話すのが好きなんだなって、伝わってくる。それに、今日あったことを話してくれた時も楽しそうに話してくれたじゃん。なのになんで――」
「うるさいな!」
昼間楓に対して出した声よりも大きな声が出てしまう。
けれど一度出た感情は、止まらなかった。
「わかったようなこと言って……! ノアに俺の何がわかるんだよ、吸血鬼に人間の何がわかるんだよ!」
言ってはいけないことを言ってしまったと気づくまで、数秒を要した。
はっとして顔を上げると、悲しそうな笑顔を浮かべているノアが見えた。
「あ、ごめ――」
「いいよ、大丈夫。ごめんね出しゃばって。ちょっと早いけど仕事行ってくるよ」
ノアはひどく優しい声音で恵人にそう告げ、玄関へと向かった。
当然、追いかけるべきだと思った。追いかけて、謝るべきだと思った。
けれどそれと同時に、そんな資格自分にはないとも思ってしまった。
ノアは恵人のことを思って接してくれたのに、恵人はそれを拒絶した。
ガチャリ、と鍵を閉める音が聞こえる。そのままどこかへ言ってしまいそうな、そんな乾いた音。
後悔が押し寄せてくる。
感情に任せて余計なことを言った。
何より、自分のことを思ってくれているノアを傷つけてしまった。
その事実が、恵人を苦しめる。
けれど、それも自業自得。
誰もいなくなったリビングは、ひどく広く見えた。