第十一話
ノアは足に力を溜め、床がえぐれるほどの勢いで蹴り出し、ヴェラに殴りかかる。
その動きを見切っていたヴェラはひらりとノアを躱して、ノアの腹に正確な蹴りを繰り出した。
「遅いわね」
ヴェラの蹴りをまともに受けたノアは吹っ飛び、壁に叩きつけられる。
「……相変わらず、馬鹿力ね……!」
ノアは片手をつきながらもすぐさま立ち上あがり、再度ヴェラに肉薄する。
先程よりも遅いが、一発一発が重い乱打。顔に、腹に、正面から、側面から、読まれないために足も使う。
けれどヴェラはそのどれにも完璧に対応。そしてガードと同時にノアのバランスを崩して顔面に一発打ち込んだ。
しかしノアもその正拳に反応。殴られはしたが、同時にバク転の要領で後ろに飛び、ダメージを逃がすことに成功した。
(掠っただけでこの威力……怪力女が)
ノアは垂れた鼻血を、腕で拭う。
元来吸血鬼は、人間よりも身体能力に優れている。故に人間に負けることはないし、人間離れした動きもできる。
だがその吸血鬼にも個体差がある。
戦闘が得意な個体もいれば、そうでない個体もいる。
そしてこの場において前者はヴェラである。
恵まれたスタイルによる長いリーチ。その体躯に見合わぬ俊敏な動き。相手の動きを的確に読む戦闘センス。それを実際に捉える目の良さ。
圧倒的な実力。彼女の腕前は吸血鬼の中でも一位二位を争うレベルだ
対してノアは後者。
ヴェラとの身長差は十五センチメートル以上にもなる小柄な身体。故に力勝負では勝ち目はなく、素早さ自体もあまり変わらないため速さで圧倒することもない。
その分ノアは気配を消すことや他人に成り代わる術に長けている。だがそれは戦闘向きではなく、ヴェラ相手にはそれも見抜かれてしまう。
残酷なまでの実力差。
人間で例えるならば、ボクシング重量級のチャンピオンに、軽量級でなんの肩書もないプロが挑戦するようなもの。戦う舞台も持ちうるものも同じだが、その他全てがヴェラに軍配が上がっている。
ノアはそれを自覚していた。この絶対的な実力差を。ヴェラにとってはお遊びでしかないことも。そして、自分が勝てないだろうということも。
それでも、ノアには戦う理由があった。恵人を守るために、戦わなくてはいけなかった。恵人を置いて逃げることならいくらでもできる。
けれど、そんなことはしない。
真正面からぶつかって、ヴェラに勝つ。そして恵人も守り切る。
その堅い意志だけが、ノアを動かしていた。
「まだまだ……!」
ノアは右手を鉤爪状にし、右下から振り抜く。振り抜いた指先から出るは銀色の斬撃。
肉弾戦が得意ではないノアが編み出した唯一の技。いわば奥の手だ。
しかし。
「ああ、そういえばそんなのあったわね」
そう嘲笑したヴェラは、その斬撃が届く前に回し蹴り。それによって発生した風のみで、ノアの斬撃を叩き落してしまう。
「そんな目くらまし、効くわけ――」
斬撃の発射元に、ノアがいないことにヴェラは気づく。
(どこに……!)
この戦い、初めて見せるヴェラの焦燥。
右にも、左にもいない。
だとすれば――。
「――ここよ」
ヴェラが振り向いた先に、拳を大きく振り上げたノアがいた。
もらった、そうノアが思ったとき。
そのノアの、更に後ろから後頭部に凄まじい衝撃をノアはもらった。
「がっ……!」
その勢いのまま、ノアは床に叩きつけられる。
「ふう、危なかった」
ヴェラはノアの背中を高いヒールで踏みつけ、腰に手をあてそのまま続ける。
「斬撃と一緒に自分も飛んで、私が斬撃に気を取られているうちに後ろに回り込む。いつの間に、そんな戦い方覚えたのね」
ノアはなんとかもがいて抜け出そうとする。だが抜け出そうとすればするほどヴェラが体重をかけてきて身動きがとれなくなる。
「裏を取った、はずなのに……」
「殺気がダダ漏れだったもの。あそこで気づけたら、あなたの裏を取り返すくらいたやすいわよ」
驕りや自惚れではなく、淡々と事実を述べるヴェラ。戦いにおける絶対の自信が、そこにはあった。
「遊びはここまでね」
ヴェラはそう冷徹につぶやき、ノアを踏みつけていた足をあげ、ノアが逃げ出すよりも素早く振り下ろした。
「――!」
声にならない悲鳴をあげるノア。
そんなことを気にも留めないヴェラは、先程恵人にそうしたように、ノアの首を締めながら持ち上げた。
そして。顔を。腹を。
それぞれ、ヴェラが持ちうる限りの力を込めて、殴った。
大量の血を吐き出すノア。もはや戦う力は、残っていない。
うなだれるノア。
うっとりした表情のヴェラ。
その光景が、全てだった。
◆
もはや生死もわからない状態のノアを、恵人がもたれかかっている壁のすぐ横に、ヴェラはゴミのように投げた。
信じられなかった。
ほんの五分前まで、ノアは元気に生きていたのだ。
それが今は、ボロ雑巾のように恵人の隣に横たわっている。
「ノア……! ノア……‼」
恵人は喉が潰れたことも忘れて必死に呼びかけた。ノアが反応するまで、何度も、何度も。
「だい……じょうぶだよ……」
ノアは口から血を吐き出しながら、恵人と同じように座ったまま壁に寄りかかった。その動作が酷くゆっくりでノアの怪我がどれだけ酷いかが伺えた。
「ノア……」
「ちょっと、油断しただけだから……」
「何が油断よ。もう立つ力も残ってないくせに」
ヴェラはすでにノアの目の前に立っていた。
見下すヴェラ。
見下されるノア。
汚れ一つ付いていないヴェラ。
血まみれのノア。
勝負の結果は明白だった。
「あーあ、さっさとこうしとけばよかった」
ため息とともに、ヴェラがそうこぼす。
その言葉に、ノアは顔を悔しそうに歪める。
この状況をどうにかして打開したい。恵人はそんな衝動に駆られる。
けれどそれがどんなに無謀でどんなに無意味か、先程の二人の戦いを見てわからないほど恵人も馬鹿ではない。
だからどうしても、足が動かなかった。脳が死を拒んだ。
目の前の大切な一人さえ守れない。
忌み子と呼ばれようと所詮はただの人間。吸血鬼の前では虫けらも同然だ。
なんと無力か。
恵人は右手を強く握った。悔しくて悔しくて、自分を呪った。
何もできない自分を。
なんの力もない自分を。
――本当にこのまま何もしないの?
どこからか、声が聞こえた気がした。
――また逃げるの?
どこかで聞いたことのある声。
そうだ、これは小さい時の自分の声だ。
だが、なぜ今? このタイミングで?
わけがわからなかった。わけがわからなかったから、聞こえてないふりをした。
――得意だね、そういうの。
神経を逆撫でするような声音。
刻一刻と死が迫っているはずなのに、時の流れはひどくゆっくりに見える。走馬灯が少しずつ始まっているような、そんな感覚だった。
だからなぜか、「それ」と会話する気になってしまったのだ。
(それで、なんなんだ、お前は)
――僕は君、そして君は僕だよ。
いかにも精神世界に出てくる抽象的な存在みたいだ。発言まで抽象的である。
ただ、この声の主が自分自身であるということに、不思議と疑問は抱かなかった。
(なんで今、このタイミングなんだ)
――なんだか情けないこと考えていたからね。
(情けないもなにもないだろ。どうすればいいんだよ、この状況で)
ノアは瀕死、恵人はそもそも戦える土俵にない。
詰みというのはこういった状況のことを言うのだろう。
どうあがいたところでノアと恵人の死は確定だ。それほどまでに、ヴェラの存在が圧倒的だった。
――だとしても、できることがあるよ。
さっきから何を言っているのだろうか。ここからの逆転の一手があるとでも言うのか。
恵人は圧倒的絶望を前にして、どうしようもなく卑屈になっていた。目の前が真っ暗で、活路を見出せない。
何をしたって変わらない。
――ノアのために、なにかしたいんじゃなかったの?
(……!)
どうして今まで忘れていたのか。
死に瀕して、自分のことしか考えられなくなっていたのか。
(そうだ、俺はノアのためになにかしたいとずっと思ってたんだ)
出会ってから今まで、ノアにはもらい続けてきた。
物理的なものも、精神的なものも。
だからいつか形として何か返したかった。
そして、形として返すならば――今だ。
(まさか、幻に思い出させてもらうとはな)
――言ったでしょ、僕は君で、君は僕なんだよ。
幼い頃の自分が、姿を表す。
逃げたくても逃げられなかった自分だった。
それは、誰かに愛してほしかったのに、誰にも愛されなかった自分だった。
誰かと一緒に住んでいるのに、愛を知らなかった頃の自分だった。
一番愛が欲しかった頃の、自分だった。
(そうか、だから――)
対して今の自分は、親から、兄弟から逃げて一人で暮らしている。
ノアと一緒に住んで、愛を享受している。
本来受けるべきだった寵愛を、今になって注がれている。
昔の自分と、対極にいるような存在だった。
確かに死が迫っている今の状況で現れるのは、あの頃の自分が適していると言えよう。死の間際だ、なにか不思議なことが起きてもおかしくはない。恨みを持って登場しなかっただけありがたく思おう。
あの時の自分がそうすべきと言うならば、きっとそうすべきなのだ。
その幻影も、少しずつ薄くなっていく。
――あとは任せたよ。
幻影でも幻覚でもなんでもいい。恵人の想いを呼び起こしてくれたことに、今はただ感謝するだけだ。
(ああ、任せとけ)
「今回はあなたから殺してあげる、ノア」
恵人の意識が現実に戻る。今にもノアが殺される、そんな場面だった。
「恵人のことは、見逃してね」
「……本当にそういうところが、嫌いだったわ」
ヴェラが手を鉤爪状にし、振りかぶってノアの心臓へ一直線。
けれどその手は、届かなかった。
「!?」
「恵人っ‼」
ヴェラの腕が、恵人の胸を貫く。
血飛沫が舞い、ノアの顔にかかる。
恵人にとっては、間違いなく人生で一番の大仕事だった。
けれど不思議と、焦りや緊張はなかった。
ただ純粋に、ノアを守ることだけを考えることができた。
右足に全神経を集中させ、全力で踏み込む。それだけを考えた。
ヴェラという化け物の速さになぜ追いつけたのかはわからないが、きっと火事場の馬鹿力ということだろう。
ヴェラに背を向ける形で間に入ったので、ノアの顔がよく見える。
怒った顔と悲しい顔が混ざった、そんな変な顔だった。
けれどその顔を見ることができて思う。
――ああ、守れてよかった。
ようやくノアの役に立てた。
ようやくノアに恩を返すことができた。
こんなに嬉しいことはない。
死にかけて初めて、自分自身の、折原恵人の生を実感できたような気がする。
恵人の胸から、ヴェラの腕が引き抜かれる。
恵人はそのまま前のめりに、ノアがいる方向へと倒れた。
「恵人っ、恵人‼」
ノアの叫ぶ声が聞こえる。今まで聞いたこともない、激しい声色だった。
「……ノ、ア……」
もうそれしか、言葉を口にすることができなかった。
全身から力が抜けていく。
身体が急速に冷えていく。
死とは、こういうことを言うのか。
恵人を抱えたノアからは、恵人に呼びかける声がまだ続いていた。
けれどその声も、次第に小さくなっていく。
もう目も開けていられない。
音も光も失った。
だが最後に見たのが、聞こえたのが、ノアの姿で、声であってよかったと、恵人は心の底から思った。




