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新月の夜、吸血鬼と出会った。  作者: 結城 ユウキ
第三章 吸血鬼と吸血鬼
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第十話

 目を覚ますと、恵人は見知らぬ部屋に寝転がっていた。

 明かりは月の光だけで、カーテンもない部屋を照らしている。

 訳のわからない展開だが、部屋の状況を確認できるくらいには落ち着いていた。

 この状況で落ち着いている自分にも驚くが、きっとノアの破天荒ぶりが慣らしてくれたのだろう。


 まず恵人は自分の体を確認した。

 四肢は拘束されておらず自由だ。体のどこにも痛みがない。

 逃げようと思えばいくらでも逃げられるような状態だった。

 なぜだ?

 逃げられても問題ないということだろうか。

 それともこの部屋自体が逃げられないように改造されているのか。

 もしくは、逃げようとしても絶対に逃げられない力の差があるのか――。

 理由は分からないが、いつでも逃げ出せるような状態それ自体が妙に不自然で、逃げる気にはなれない。


 だから恵人は、もう一度詳しく部屋の状況を確認することにした。恵人は立ち上がり、窓の方に向かう。

 窓の外を見やると、ここがマンションの一室であることがわかる。一軒家の屋根が見えたり、同じ高さくらいのマンションも目に入ったりするからだ。けれど見える建物からここがどこなのかは推測できない。


 恐る恐る足を動かし、ここがリビングであることを把握する。

 全く使用された形跡のないキッチン。

 最低限の家具しかない部屋。

 新品同様のソファ。

 この部屋は生活感がない。恵人の目に入ってくる情報がそう言っている。

 ますます誰がなんの目的で拉致したのかがわからない。


「おはよう、起きたのね」


 突然だった。

 部屋に入ってきた音もなければ、気配もない。

 まるで当然現れたかのように、女はそこにいた。


「……いつからそこに」

「最初からよ。気配を消していたの」


 艶めかしい声が、妙に耳に残る。

 恵人と同じくらいであろう背丈に、真っ黒のワンピースを身に着けた女はゆっくりと恵人の横を通り過ぎ、リビングにぽつんと置いてあるソファに腰掛けた。


「あなたも座れば?」

「……遠慮しときます」


 月夜に照らされる漆黒の髪に、色白の肌。

 そして、どこか見覚えのある真紅の双眸。

 予想はしていた。

 その予想は、一目見て確信へと変わる。

 人間が一人逃げ出そうとしたところで、絶対に敵わない圧倒的実力差。

 人間離れした気配の消し方。

 そんなことができるのは、恵人が知る限りあの種族だけだ。


「……吸血鬼、ですよね」


 恵人がそう言っても、その女は一切表情を崩さずにこやかな笑顔を作り続けた。


「あら、よくわかったわね」

「毎日見てるんで」

「ふふ、そうだった」


 会話をしているはずなのに、こちらが一方的に話しかけているような感じがした。折原恵人という個体には一切興味がないように思える、そんな感覚。


「何が目的なんです」


 恵人もできるだけ淡々と会話を進める。今欲しいのは情報だ。この吸血鬼で何が目的なのか、早急に知る必要がある。


「そんな警戒しなくても取って食べたりしないわよ」

「そりゃ警戒するでしょう。あなたは吸血鬼で、俺は忌み子なんですから」


 ノアがいくら優しくて恵人に寄り添ってくれる吸血鬼だと知っていても、全ての吸血鬼がそうでないことくらい恵人はわかっていた。

 大半の吸血鬼はノアとは違うスタンスだろうし、この目の前の吸血鬼はそれこそノアと真反対の思考の持ち主ではないだろうか。恵人に対する態度が物語っている。


「ま、それもそうね」


 女は足を組み替えて、話を続けた。


「私の名前は、ヴェラ・フリートベルク。あの女と同じ真祖の吸血鬼で、人のものを盗るのが趣味よ」


 始まった自己紹介は、極めて最悪なものだった。最初から仲良くなれる気はしていなかったが、これで完全にその線もなくなる。


「こうやってわざわざ極東の島国に来たのも、その趣味のため。あの女が大事にするような人間、盗りたくなるに決まっているじゃない」


「案外、ペラペラ喋ってくれるんですね」

「こっちから話せば、あなたからも色々聞けると思って」

「……そうですか」


 そういえばと、思い出す。

 確かノアと出会ったとき、彼女はこう言っていた。


『いっつもどこぞのクソ女に取られてさあ……』


 ノアの指すクソ女とは、このヴェラ・フリートベルクだったのだ。

 なるほど確かにクソ女だ。趣味はもちろんのこと、人間を常に小馬鹿にしている感じがどうも気に食わない。


「それで、君の名前は?」


 恵人が出しているはずの嫌悪感をスルーして、ヴェラは恵人にそう問うた。つくづく嫌な女である。


「折原恵人です」

「恵人くん、ね。どう? お姉さんのところに来る気はない?」


 先程よりも甘く艶めかしい声でヴェラは恵人のことを誘う。

 確かにヴェラは色気もあるしスタイルも抜群に良い。吸血鬼が故に顔もノアに負けず劣らず整っている。

 一般的な男子高校生なら、この吸血鬼の魅了で一発ノックアウトだろう。

 けれど恵人には、ノア曰くその魅了は通用しないらしい。

 ヴェラのそれも充分誘惑されている感覚に陥るが、ノアが使うそれとは比べ物にならないほど弱い。

 ノアの持つ魅了がどれだけ凄まじかったかわかる。この程度なら、いくら続けられようと耐え抜く自信がある。


「さすが、ノアと一緒にいるだけあるわね。あの女の魅了が効かないなんてそうないわよ」


 別に褒められても嬉しくはないが、今だけは魅了への耐性があってよかったと思う。

 だが、これだけ生物としての力の差があってなぜ魅了という小細工を弄する必要があるのか。

 ノアも最初、魅了を使って契約を結ぼうとしていた。


「でも、わざわざそんなの使わなくったって吸血鬼なら無理矢理吸えますよね」

「そうね、血を吸うだけならそれでも問題ないわね」

「じゃあ、なぜ」

「身も心も自分のものにしないと気が済まないのよ、吸血鬼は」

「ノアは、そんなことなさそうでしたけど」

「でも最初は使ってきていたでしょう? そっちのほうが楽なのよ」


 たしかにノアは、魅了が効かなかったことに対して喜んではいたが、魅了を使うこと自体に抵抗はなさそうだった。


「ショックだった?」


 ヴェラは恵人を煽るように、わざとらしくそう言った。


「別に、いいですよ。現に俺には魅了効かないわけなんで」

「可愛くないわね」

「あなたのおもちゃになる気はないですから」

「威勢がいいのもいつまでかしら」


 強気に出ることはできても、所詮恵人は人間。吸血鬼であるヴェラにはどうやったって敵わない。

 今この場で恵人の命を握っているのは、間違いなくヴェラだ。

 だが、今ここでヴェラに媚びへつらってまで生きる気は毛頭ない。ノアに顔向けできない生き方をするくらいなら死んだほうがマシだ。

 唯一恵人が生き残れるとすればノアが戻ってくることだが、そのノアはちょうど仕事に出掛けてしまった。戻ってくるのはいつかわからない。

 そこでふと、一つの可能性に思い至る。


「……もしかして、今日のノアの仕事って」

「あら、よくわかったわね。そうよ、私が仕組んだの」

「……本当に性格が悪いんですね」

「よく言われるけれど、私は私のやりたいことをやっているだけ。私が楽しければそれでいいのよ」


 人間一人一人が違うように、吸血鬼もその個体ごとで考え方や価値観が異なることを、恵人は今改めて思い知った。


「人の男を奪ったときのあの快感! そしてその男から無償の愛を向けられる充足感! 吸血鬼に生まれてよかったって、心の底から思うわ」


 ヴェラの一挙手一投足、一言一句が鼻につく。人間をどこまで馬鹿にすれば気が済むのか。


「あなたに騙された人たちに同情します」

「あら、酷いこと言うわね。でもその強気なところも嫌いじゃないわよ」


(ダメだ、感情が入る話で俺はこいつとまともに話ができる気がしない)


 埒が明かないと感じた恵人は、別の話題を切り出すことにした。今は少しでも情報がほしい。そしてあわよくば時間を稼ぎたい。


「ノアとは、いつからの知り合いなんですか」

「ん、そうねえ……、大体五百年くらい前かしら」


 相変わらず人間の常識を超えた数字を軽々しく出してくる。慣れてきてしまった自分も問題かもしれないが。


「最初からそんな仲悪かったんですか」

「そうね、知り合ったきっかけがきっかけだったから。何度殺し合ったかわからないわ」


 話している間、ヴェラは気味の悪い笑みを顔に貼りつけたままそれを取ろうとしない。きっとこちらの意図にも気づいている。ますます嫌な女だ。

 けれどノアのことを話している間は、嫌悪感を抱いている印象を受ける。ヴェラにとって、ノアはずっと忌み嫌う存在だったのだろう。ヴェラの感情が少しだけ見えた気がした。


「殺し合い……、物騒ですね」

「そうかしら。気に食わない相手がいたらいなくなって欲しいと思うのは、生物共通じゃない? 特にあなたみたいな忌み子は、そう思うことも多かったんじゃないかしら」

「……俺は自分がいなくなればいいと思ってたので」

「ふふ、ちょっとイタいくらいに卑屈ね。でも、それしか選択肢がないのよ」

「どういう意味です?」

「吸血鬼が不死身だっていうのは、知っているでしょう? でもね」


 ヴェラが初めて恵人の目を見る。

 その紅い瞳はどこまでも深く、恵人は目を逸らせない。

 ヴェラはそのまま、次の言葉を口にした。


「吸血鬼は吸血鬼を殺せるのよ」


「……!」

「あら、これはノアに聞いてなかったかしら」


 恵人の反応を見て愉しそうにヴェラが笑う。非常に不快であるが、実際聞かされていなかったので何も言えない。


「吸血鬼は間違いなくこの地球で最強の生物よ。それはこの先も変わらない。眷属も作ろうと思えばいくらでも作れる。じゃあなぜ増えすぎないのか。なぜ人間を支配しようとしないのか。まあ単純に興味ないっていうのもあるけどね。でも一番の理由は、同族で殺し合っているからよ。だから一定以上は増えない」


 考えてみれば、当たり前のこと。

 ノアがあまりにも善良すぎるから、そんなことを考えたこともなかった。

 吸血鬼には力がある。それも、一個体で国家を転覆させることができるほどの。

 そして彼らの主食は人間の血だ。

 当然人間がいなくなってしまったら困るという側面があるのだろう。

 けれどその血を効率よく摂取するには、人間を支配してしまうのが一番手っ取り早い。

 事実欧州では忌み子は狩り尽くされてしまっている。彼らが人間の命をなんとも思っていないのは恵人も知っている。

 ではなぜ、彼らがそうできないのか。


「もちろん個体差はあるけれど、吸血鬼も自分の眷属のことは家族みたいに思っているわ。だからその眷属が殺されることがあろうものなら全力で復讐するの。それが何百年にも渡って続くから吸血鬼は増えないし、人間のことを気にする余裕もないってわけ」


 要するに、自分たちのことで手一杯だから人間に構っている暇もないという話らしい。どこまでも自分勝手な種族だ。

 だが同時に、そのおかげで人間が人間としての尊厳を保てているという見方もできる。

 この場面で善悪の判断はつかないが、人間が人間らしく生きられているということ自体は悪くないことだと恵人は思う。


「吸血鬼も人間に負けず劣らず愚かなんですね」

「そうね、愚かよ。どれだけ力を持っていても、その力をうまく使えなければ愚かになるっていい証明ね」


 意外と見えているのだなと、素直に思う。

 適当に生きていそうなのに、人間のことも吸血鬼のことも理解している。よく頭の回る方なのだろう。


「なんか、失礼なこと考えてない?」

「気のせいですよ」


 ノアといいヴェラといい、この勘の鋭さは一体何なのだろう。

 女の勘は鋭いと言うが、この二人はさらに吸血鬼特有の鋭さが働いていそうな気がする。それほどまでに自分が考えていることが読まれていると恵人は感じていた。恵人がわかりやすいという可能性ももちろんあるが。


「それで? 他に聞きたいことは?」


 意外にもヴェラの方からそう聞かれた。もう少し時間稼ぎに付き合ってくれるらしい。


「そうですね……。眷属っているんですか? いなさそうですけど」

「あなたの予想通りいないわよ。めんどくさいもの」

「めんどくさいものなんですか」

「それはもう。だって眷属にしたらその個体は私と同じ不老不死になっちゃうし、それこそ一生添い遂げないといけなくなっちゃうもの。私は気楽に生きたいのよ」


 たかだか三十分ほどの関係だが、なんとなくヴェラがそう答えそうなことはわかっていた。この女の人間性ならぬ吸血鬼性は、ただただ怠惰に尽きる。だが面倒くさいことは嫌いなくせに、自分が楽しむためなら後々起こりそうな面倒事を考慮しないところもある。

 こうして見ると、規格外な能力と思考を除けば、人間と吸血鬼が紙一重であることを思い知らされる。だが、わかり合うことはきっと難しいのだろうとも思った。


「不老不死、興味ない?」

「ないですね。ただの人間がそんなに生きてどうするんですか」

「意外と楽しそうにしてるわよ? 人間の時の記憶は残っているし」


 ふと不老不死になった自分を想像してみる。

 きっとこの呪いはなくなっているはずだ。それは素直に嬉しい。もう露骨に肌を隠さなくて済むし、人と関わることだって避けなくていい。

 けれど、周りの人間達は漸次的にいなくなっていく。人間生きて百年だ。吸血鬼たちはこれからも千年、二千年と生きていくのだ。

 一体どれだけの出会いと別れを繰り返してきたのだろう。

 ――そうか。だから、眷属。

 人間が友達や恋人を作り最終的には家族を作るように、吸血鬼は眷属を作るのだ。

 気の合う友達。

 どこまでも心を許せる恋人。

 人間と吸血鬼では叶わない関係も、吸血鬼と吸血鬼なら何も問題がない。

 そう考えると、少しだけ羨ましい関係性にも思えてくる。

 そこまで思考に耽っていると、ヴェラがこちらを見ていることに気づく。見透かされている気分になって、恵人はすぐに次の話題を提示した。


「眷属を作るときの決まりとかはあるんですか?」

「うーん、特にないわね。眷属になりたい人間と、その人間を眷属にしたい吸血鬼がいれば問題ないわ。あとは血を吸うだけ」

「意外とシンプルなんですね」

「簡略化した結果だからね。昔はもっと意味のない儀式的なものをやっていたのよ」


 吸血鬼も時代に合わせて変化してきたということだろうか。

 吸血鬼はある意味で人間と共生している。ノアだって人間と仕事をしているのだから、移り変わる人間社会にも対応しなければならないのかもしれない。


「というか、こんな基本的な話あの女に聞いてないの?」

「聞いてないですね。自分からも聞いてないです」

「それ、おかしいと思わなかったの?」


 そう問われて、考える。

 確かに言われてみれば、吸血鬼と眷属はセットで出てきてもおかしくない単語。

 ノアといるときは不思議と連想しなかった。いや、連想できなかった……?

 今は何も問題なく連想できている。今までは連想できなかったものが、当たり前に。


「気づいたかしら?」

「意識的に、意識させてもらえなかった……?」


 額に汗が滲んでいく。熱いわけではない。ただただ不快な汗が、滲む。

 自分のことさえ相手の意識外に置ける吸血鬼なのだから、たかが一つの単語を相手の意識外に置くことなんて簡単にやってのけるだろう。

 今回気づくことができたのは、ヴェラが眷属について触れたからだ。

 ヴェラが接触してこなければ恵人はノアが触れるまで気づかなかったことになる。なんとも皮肉な話だ。


「でもノアは、なんで……?」

「なんでかしらね」


 そう言ったヴェラの顔は、明らかに真相を知っている顔だった。


「……知ってるんですね」

「さあ? どうかしら」


 白々しい。知っているに決まっているし、きっとノアとヴェラの不仲の原因もそこにある。

 ちくりと、胸が傷んだ。


(なんだ……?)


 ノアは千年以上生きている。恵人の何百倍と、生きている。

 だからその分人生経験が豊富で、精神的にもかなり完成されている。

 以前に恵人と同じような、若しくはそれよりも深い関係があった人間がいてもおかしくはないのだ。

 そう、頭ではわかっているのに。

 心がそれについてこない。

 恵人にとってはたった一人のノアなのに、ノアにとってはたった一人ではなかったことを思い知らされたようで。

 ノアにとって自分が一番ではないことを知ったような気分で。

 頭では、脳味噌では否定できる。

 だが、心がどうしても否定できない。

 ノアほど心は強くない。きっと彼女ほど強ければ完全に否定し切ることができたのだろう。

 けれど恵人はノアではない。

 ノアではないから、ノアが隠し事をしていたことを受け止めきれないのだ。


「さて、このくらいかしら」


 ヴェラは優雅に立ち上がり、こちらにゆっくりと歩いてくる。


「時間稼ぎはここまで。何か言い残すことは?」


 やはりヴェラは恵人の意図をわかっていて雑談に興じていた。そして眷属の話題を出すことも最初から決まっていたのだろう。

 恵人を動揺させるために。

 恵人のノアへの信頼を揺らがせるために。

 その上で、殺すために。

 このままではヴェラの思う壺だ。

 何もかもヴェラの思い通りになんてさせたくない。

 確かにノアは隠し事をした。しかも恵人が自力ではどうしようもない形で。

 傷ついたし、隠し事をされていた、という事実に辟易としてしまう自分もいる。

 深呼吸をし、脳内をクリアにする。

 だが本当に、それだけでノアへの信頼が揺らぐのか。

 今まで一緒に過ごしてきたノアが、なんの理由もなくそんな隠し事をするのか。

 答えは否だ。

 ノアがしてくれたこと、言ってくれたことは全て本物。証拠はなにもない。思い込みかもしれない。

 それでも、ノアを信じたい。

 あのお人好し吸血鬼のことだ、どうせいろいろ考えてこうしたに決まっている。

 根拠は、それだけで充分。


 そのノアの想いに、恵人は応えなければならない。


「……俺がどうなろうと、構いません。好きに殺してください。でも、今後一切ノアと接触することは、やめてください」


 恵人はヴェラの紅き瞳に惑わされず、言い切った。


「この期に及んで人の心配、ね。反吐が出る」


 ヴェラが素早く動いたのは見えた。


「もういいわ、死になさい」


 そう聞こえた時には、恵人は首を締められ宙に浮いていた。


「あ……ぅ……!」


 空気がなくなっていく。

 視界も霞んでくる。

 息が吸えない。

 首の骨も悲鳴を上げる。

 ただ喘ぐことしかできない。

 苦痛に顔を歪め、よだれを垂らすことしかできない。

 そしてついにヴェラの爪が皮膚に食い込み血が流れた、その時だった。


 ドゴオォォォォォン……!


 凄まじい音が部屋に響く。

 ヴェラも思わず手を離し、恵人は床に打ち付けられる。


「ゴホッ、ゴホッ……!」


 むせるだけむせたあとは、必死になって息を吸う。かき集めるようにして、息を吸った。

 そしてようやく、音がなった方へ目を向けられる。

 ありえない方向に曲がった玄関のドア。

 立ち込める煙。

 そして。


「恵人っ‼」


 こちらに駆け寄ってくる、銀髪の少女。ノア・ルベルロットだ。


「恵人、恵人!」

「……ノ、ア……」


 喉が潰されかけていて、ガサガサの声が出る。

 ノアは瞳に涙を溜め、恵人を抱きかかえた。


「ごめんっ、ごめんね……!」


 そのまま強く抱きしめられ、ごめん、と何度も謝罪の言葉を口にされた。


「だい、じょうぶ……、ノアは、悪くないよ……」


 なんとか振り絞って声を出す。そして、ノアのことをできる限り強く抱きしめる。

 大丈夫だよと、そう伝えるように。


「今回は間に合ったのね」


 その空気を壊す声が聞こえた。それはノアを馬鹿にし、煽るような声音。


「ごめんね、ちょっと待っててね」


 ノアは優しく恵人を離し、壁にもたれかけさせる。

 そして恵人には見せたことのない怒気を含んだ顔になり、ヴェラに向き直る。


「あら、おっかない顔。振られちゃうわよ」

「恵人はそんなことで離れていったりしないよ」

「大した自信。それにしても、よくここがわかったわね。痕跡は消したはずだけど」

「お前の匂いの残滓を、私が見逃すわけ無いでしょ」


 余裕綽々と言った様子でノアを煽り続けるヴェラ。

 対してヴェラと相対してから少し切迫している様子のノア。

 この二人の過去に相当の因縁があることは、それだけで理解できた。


「あーあ、もう少しで殺せたのに」

「……黙れ」

「まあ、二度も大切な人を殺されたくないものね?」

「お前はここで、死ね」

「やれるものならやってみなさいよ」


 そこから先、恵人は二人の動きを捉えることができなかった。

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