花咲かぬ令嬢とパン貴族の幸せな結婚
おかしい、と私は思った。
最初はほんの些細なこと。焼きたてのクロワッサンを差し出されたのに、どう見ても中身はしらす干しだったり、図書室に並んでる本の背表紙がすべて「破滅への招待状」だったり。そもそも、女の子が十歳になると花を咲かせるというこの国の風習もどうかと思う。
私は咲かなかった。正確には、咲くはずの花が、芽の段階で土に還った。宮廷医の先生曰く「あなたはちょっとねじれてるね」とのこと。どこがどうねじれてるのかは教えてくれなかった。きっと、先生の語彙が土に還ったのだと思う。
そんな私が、今、馬車に揺られて婚約者の屋敷へ向かっている。心のどこかでは、「ああ、これは間違いに違いない」と確信していた。だって私なんか、花も咲かないし、しらすクロワッサンで育ったような人間だし。
婚約者の名前はラルク=シュナイダー。貴族のくせにパン屋を経営している、変な人だ。
「さあ、着いたよーん!」
御者の元気な声に、頭の中の辞書がバグった。「よーん」って何だ。「よーん」は貴族の館にふさわしい挨拶か? 正解を知っている人がいたら教えてほしい。私が花を咲かせなかったことより重大な謎である。
玄関の扉が開いた。出てきたのは、薔薇のような赤髪に、氷のような青い瞳を持った美青年。噂では無口で冷酷、笑ったところを見た者はいないとまで言われていた。
「よく来たな。腹は減ってないか? しらすパンが焼き上がったぞ。」
私は死んだ。いろんな意味で。
「えっ、それ……本当に婚約者ですか?」
「うん。俺、ラルク。あと、パン職人の神。」
間違いない。世界のバグは、ここに集約されていた。
屋敷の中も独特だった。普通の貴族の家なら、金ピカの調度品やら巨大な肖像画やらが飾られているものだが、ラルクの屋敷には、食パンのクッションや、クロワッサン型のランプが並んでいた。もはやパン屋を通り越して、パンそのものに憑かれているとしか思えない。
「ここ、寝室な。マットレスはデニッシュ風。もちもちだぞ。」
私はその場で正座した。
「一度だけ訊かせてください。どうしてパンにここまで入れ込んでいらっしゃるのですか?」
「パンはいい。裏切らない。膨らまない日もあるけど、それもまたパンの個性だ。」
この人、やっぱり変だ。でも、不思議と居心地は悪くない。むしろ、ちょっと落ち着くのが悔しい。
「それより、君のことをもっと知りたい。」
「私のこと……?」
「しらす好きなのか?」
そこか。
夜には小さな晩餐会が開かれた。出された料理はすべてパン。前菜パン、スープパン、メインはパンタワー。デザートに甘納豆の乗ったメロンパンが出た時点で、私の理性は一度崩壊した。
それでも、ラルクは優しかった。変わり者だけど、私のことを気遣ってくれた。食事の合間には、ナプキンをそっと膝にかけてくれたし、グラスが空けばすぐに注いでくれた。
「……なんでそんなに、親切なんですか?」
「君に花が咲かなかったから。」
「……!」
「咲かない人もいる。咲かないことが、悪いことじゃないって、俺は知ってる。」
それは、初めてかけてもらった言葉だった。今まで、医師も、家族も、周囲の人たちも、花が咲かなかったことに腫れ物のような扱いをしていた。ラルクだけが、真正面から「そのままの私」を肯定してくれた。
「……ありがとう、ございます。」
「でも、咲いてるように見えるけどな。君の笑顔とか。」
ずるい。こんなセリフ、パン屋のくせにイケメンで、気遣いもできるって、どういう構造してるの。
夜、部屋に戻って、私は初めて窓辺に立った。庭に植えられたパンジー(これもまたパン)を見下ろしながら、そっと呟いた。
「……案外、この婚約、悪くないかもしれない。」
数日後。
結婚式の準備が始まった。ラルクは相変わらずパンばかり作っているが、私がドレス選びに悩んでいると、ふらっと現れて、ポンと一枚の紙を渡してきた。
「パン風ドレス、作ってみた。どう?」
「どう? じゃないです。これ、もはや衣類じゃなくて食品です!」
「いや、布だし。食えないし。」
まったくもう、と言いながら、気づくと笑ってしまっていた。ラルクの作る奇妙な日常に、少しずつ、心が馴染んでいく。
「なあ。」
「はい?」
「今日も君が咲いてて、よかった。」
まっすぐな言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
この人は、きっと本気でそう思ってくれてる。
咲かなかった花のかわりに、私の心に、小さな芽が顔を出した気がした。
パン屋貴族の屋敷に来てから二週間。私は変わった生活にも少しずつ慣れてきた。
毎朝のモーニングは「朝陽クロワッサン」なる、謎のネーミングのパンから始まり、昼には「サンドウィッチ風騎士団」、夜は「夜空の星パン(甘栗入り)」で締めくくられる。いや、名前だけ聞くとファンタジーだけど、全部ちゃんと美味しいから悔しい。
ラルクは相変わらず、私がどんなに普通の話題を振ってもパンの話に持っていく。
「明日って雨らしいですね。」
「じゃあ、湿気に強い生地で焼かないとな。」
……うん、もういいや。諦めた。
それでも、彼の言葉一つ一つが不思議と私を和ませてくれる。そもそも、パンの話しかしないのに、どうしてこんなに心がほぐれるのだろう。もしかして私の感受性も発酵してきたのかもしれない。
そんなある日の午後。
「エリザ嬢、お客様です。」
メイドのミュリエルがそう告げた瞬間、私は咄嗟に顔をしかめた。
「えーっと……どなたが?」
「ご両親と、王都からの使者です。」
はい、嫌な予感しかしません。
応接間に通されると、案の定、母は真顔で、父はいつになく落ち着かない様子だった。使者らしきおじさまは、無駄に髭が立派で、書簡を胸に抱えていた。
「エリザ、お話があります。」
「はい……もしや、また?」
「ええ。またです。」
また、とは。
そう、“花が咲かなかったエリザ嬢には、それなりの人生を”と周囲が気を遣って、これまで何件も見合い話を持ってきたのだ。
ただし、そのすべてが“花が咲かなかったことを逆手に取った”ものばかり。つまり、性格に難がある男爵、部屋から出ない学者、三回目の離婚歴を誇る子爵など。
今回もきっとそうだ。内容を聞く前から、ハイハイまたですかと脳内でタンスを開けてしまう。
しかし、父が言った。
「今回は、第一王子からの申し出なんだ。」
……は?
私はしばしフリーズした。第一王子といえば、あの“微笑みの貴公子”と噂される、正統派の王道イケメン。もちろん会ったことはないが、街中の女の子たちが憧れの的として語る存在だ。
「な、なんで……?」
「君のことを舞踏会で見かけて、興味を持ったそうだ。」
それ、きっと私じゃない。他の誰かだ。断言できる。
でも、ラルクとはもう婚約している。というか、私はもうこの生活が嫌いじゃない。むしろ、気に入ってる。朝陽クロワッサンも、夜空の星パンも。
「お断りします。」
「……!」
私が即答すると、使者の顔がピキリと動いた。
「王子からの申し出ですよ? 考え直すよう、ご家族にも指示を……」
「指示?」
この国は貴族制だけど、結婚においてはある程度本人の意思が尊重される。とくに女性は“花が咲くか咲かないか”というデリケートな問題があるため、強制は好まれないはずだ。
それなのに、指示、だと?
「失礼ですが、私はもう婚約しております。相手はラルク=シュナイダー様です。」
「パン屋?」
その一言が、思ったより刺さった。
「はい、パン屋です。けれど、誠実で優しくて、花が咲かない私の心を咲かせてくれた人です。」
言った瞬間、自分で恥ずかしくなった。けど、後悔はない。
使者は渋い顔をしながら立ち上がり、「検討の余地があれば、また伺います」と去っていった。
その夜、私はラルクに今日の出来事を話した。
彼は何も言わず、黙ってしらすパンの生地をこねていた。
「……怒ってる?」
「ううん。怒ってない。ただ、君が選んでくれたことが、すごく、すごく嬉しかった。」
ふわっと優しい笑みを浮かべるラルクに、胸が締め付けられる。
「私は、君の花になりたいんだよ。」
この人、たまにずるいことを言う。
その夜、私は少し眠れなかった。
翌朝。
私は奇妙な夢を見ていた。
ラルクと手を繋いで、パン畑(そう、パンの畑)を歩いている。空からしらすが降ってきて、ラルクが「収穫祭だな」と笑ったところで目が覚めた。
「……夢の中でもパンか。」
それでも、目覚めは悪くなかった。
そして、着替えを済ませて鏡を見ると、左の肩に――小さな蕾が咲いていた。
「……え?」
それは、ほんのりピンク色を帯びた花。生まれつき咲かなかったはずの、私の花が、肩先にひっそりと咲いていた。
ドアの外に立っていたミュリエルを呼ぶ。
「ミュリ、私……花、咲いてない?」
「……咲いてます、咲いてますっ! 奥様! すごい、奇跡です!」
奇跡――そう言われると照れるけど、本当に、奇跡かもしれない。
私はドレスを羽織り、そっとラルクの部屋を訪ねた。
厨房でパンを焼いていた彼に、背中越しに声をかける。
「……ねえ。」
「ん?」
「咲いたよ、私の花。」
彼は手を止め、私の方へ振り向いた。
その瞬間、本当に、涙ぐみそうになった。
ラルクの目は、心の底から喜んでくれていた。
「おめでとう。」
「ありがとう。」
それだけで、もう充分だった。
その日の夜。ラルクはパンケーキタワーで小さなお祝いをしてくれた。
蝋燭の火がゆらゆらと揺れて、私の胸にも同じような温かさが灯った。
ふと思う。
ああ、やっと咲いたんだな。
でも、それは身体の話じゃなくて、心の話なのかもしれない。
この奇妙な屋敷で、この変わった人と過ごす時間が、私の中の何かをゆっくり、確かに芽吹かせたのだ。
私は、あの人に咲かせてもらった。
花が咲いてからというもの、私は人生の主役になったみたいだった。まわりの反応があからさまに変わったのだ。
町に買い物に出れば「まぁ、エリザ様、お花おめでとうございます!」とおばさま方が頭を下げてくれるし、メイドのミュリエルは四六時中涙ぐんでるし、実家からは「なぜ急に!?」という謎の祝電が届いた。いや私にも分からない。
ただひとつ、確信していることがある。
あの時、ラルクが「君の花になりたい」と言ってくれたその言葉が、私の心を咲かせたんだ。
さて、問題はそこからだった。
我がパン屋貴族ことラルク=シュナイダーは、なんとこの機に乗じて――
「結婚式、来週やろう。」
と、さらりと、とんでもない爆弾を落としてきた。
「来週!? 早くない!? 私、ドレスも、招待状も、お祝いの品も何も――」
「ドレスはパンモチーフ、準備してある。招待状は“パン便”で今日発送。祝いの品は……君の笑顔?」
なんか、ひとつだけクサいのが混じってる。でも顔がいいから許す。
「せめてもうちょっと余裕を持たせようよ……心の準備とかさ……」
「毎朝パンを焼く気持ちと同じだよ。今日一番膨らんだ気持ちを、明日に延ばすのは惜しい。」
もうこの人、恋する酵母か何かなんじゃないかと思う。
でもまあ、私もまったく乗り気でないわけではない。
だってラルクは、パンに取り憑かれてるし、語尾はちょっと怪しいし、夜になると「愛してるよ、ライ麦の妖精」とか囁いてくるけど、やっぱりすごく、すごく優しい。
だから――結婚式、楽しみだった。
そして、結婚式当日。
私のドレスは、彼が言っていた通り“パンモチーフ”だった。上半身はバゲットの焼き目を模したレースで、スカートはふわふわのブリオッシュを連想させる淡いクリーム色。ちゃんと生地は布だけど、匂いはほんのり甘い。誰が仕込んだ。
「……意外と、可愛いかも。」
鏡に映る自分に、思わずそうつぶやいた。
式場はシュナイダー家の庭。いつもはパンを乾燥させるために使われているけれど、今日は白い花で飾られ、天蓋の下にはクロワッサン型のアーチまで用意されていた。
なにこれ、やっぱり笑う。
でも、なんだか胸がじんとした。
「お迎えに参りました、奥様!」
ミュリエルの張り切った声に肩をすくめながら、私は扉を開けた。
「奥様……って、まだ言い慣れないね。」
「いえいえ、もう立派な奥様です! パンも心も焼き上がってます!」
「例えが……もはや何かを超えてる。」
式には、町の人や近隣の貴族、王都からも一部関係者が駆けつけてくれた。意外だったのは、あの第一王子からも贈り物が届いていたことだ。中身は、高級なジャムセット。
……うん、パンに合わせろってことか。気が利いてるけど微妙に悔しい。
いよいよ、私がバージンロード――じゃなくて、ブリオッシュロードを歩く時間がきた。
ブリオッシュロード。なんて柔らかそうな響き。
一歩、一歩と進むたびに、パンの焼けるような香りがふわりと漂う。
見上げれば、ラルクが立っていた。
黒のタキシード姿。いつもエプロン姿だから、少しだけ背筋が伸びて見える。
彼の隣に立った瞬間、言葉もなく、ただ笑い合った。
「式を始めましょう。」
司祭様の落ち着いた声が響く。
誓いの言葉はごく一般的なものだったけれど、ラルクは最後に自分で付け加えた。
「彼女の笑顔が、毎朝の希望になるよう、俺は一生パンを焼き続けることを誓います。」
それ、誓いとしてどうなの。でも、ぐっときた。
指輪の交換のあと、ついに――キスの時間。
顔が近づくたびに、心臓が痛いくらいに鳴る。
そして、そっと重なった唇は、パンよりも、甘かった。
その後の披露宴は、当然ながらパン尽くし。
しらすパンの山盛りはもちろん、甘く煮た芋のデニッシュ、肉を挟んだフォカッチャ、デザートに至っては“クリームパン噴水”まで出現した。
それでも皆が笑顔で、こんなに幸せな宴は、きっと世界中探してもここにしかないと思った。
夜が深まったころ、私はようやく一息ついて庭の端に座り込んだ。
「はあ……夢みたいな一日だったな。」
「夢じゃないよ。現実はもっとパンチがある。」
「もうその語彙、全部粉まみれでしょ。」
隣に腰を下ろしたラルクが、ふと真顔になる。
「エリザ。」
「なに?」
「今度、一緒に店、やらない?」
「……え?」
「正式な夫婦になったからってわけじゃない。ただ、君と一緒に何かを作るのが、たまらなく楽しそうで。」
心の奥で、何かがくすぐられる。
「……私、パン焼けないよ?」
「大丈夫。食べる係も、最高の仕事。」
それなら、ちょっとやってみたいかも。
「……じゃあ、今度は私が、あなたの希望になれるように頑張る。」
そう言ったら、ラルクはふっと微笑んで、私の手をぎゅっと握った。
「一緒に、焼いてこうな。」
「うん。焦がさないようにね。」
その夜、二人で見上げた星空は、まるで無数のパン屑のように瞬いていた。
結婚して一ヶ月。
幸せって、こういうのを言うんだなって毎日実感している。
朝起きると、ラルクが台所で粉まみれになっていて、私はまだぼんやりしたまま「おはよう……」と欠伸をし、彼が焼き立てのパンを差し出してくれる。
「今日の新作、“エリザのほっぺ”だよ。」
「いや、私の頬ってこんなモチモチしてたっけ?」
「うん。そっくり。」
褒められてるんだかなんだか分からないが、美味しいから許す。
そのくらい、毎日がパンと笑顔と、少しのおかしさに満ちていた。
しかし、ある日。
朝食の席に、珍しく険しい顔をしたミュリエルがやってきた。
「奥様、旦那様、緊急のご報告がございます。」
「なにかあったの?」
「ええ。……ご近所の森に、“魔女”が現れたそうです。」
「魔女?」
それ、何世紀前の話よ。と思ったが、ここは“ちょっとだけおかしい世界”だった。パンが通貨より信用されてる国だ。魔女が出たって驚かない……わけにはいかなかった。
「村人が皆、呪われたと言って怯えております。井戸がチョコレートに変わったり、羊が空を飛んだり――」
「待って待って、それむしろ便利じゃない?」
「実際に見た村人は、チョコをすするばかりで会話になりませんでした。」
うん、やっぱりちょっと迷惑かもしれない。
その時、ラルクがぽつりと呟いた。
「魔女って、パン食べるかな……。」
「まずそこなの?」
でも、その後ラルクはいつになく真剣な表情になった。
「魔女のことは俺に任せて。エリザは城にいて。」
「いや、待って、なんでひとりで行く流れに?」
「俺のパンが世界を救うかもしれない。」
パンが世界を救うって、もはや名言だと思う。どこかに刻んでおきたい。
そんなわけで、結局私はついて行くことにした。
だって、心配だったんだもの。パンで武装してる夫なんて、いくらなんでもフワフワしすぎている。
森の奥には、立派な古民家があった。瓦屋根に藤の花が絡まり、煙突からはバラの香りの煙がゆらゆらと立ち上っている。
「……ここが魔女の家?」
「うん、きっと。」
インターホン代わりに、玄関横にぶら下がっていたカウベルを鳴らすと、中から現れたのは――
どう見ても、お洒落な小料理屋の女将だった。
紫のローブに猫耳のついた帽子、そしてカモミールの匂いがするエプロン。
「はいはい、いらっしゃい。旅の方?」
「魔女……さん、ですよね?」
「まあ、世間的にはそう呼ばれてるけどね。私はただの、“改良派自然魔術研究者”ってところかしら。」
魔女は、私たちを家に招き入れた。中はふかふかのラグが敷かれ、棚には色とりどりの瓶や草花、パンの絵本まで並んでいる。
……あれ、パンの絵本?
「実はね、あなた方が来るの、待ってたのよ。」
「えっ、なぜですか?」
「これ。」
彼女が取り出したのは、なんと――ラルクが監修したレシピ集だった。
「私、この本に感動して……魔法とパンの融合を目指したの。」
「なんでそんな方向性に!?」
魔女は目を輝かせて語る。
「パンってね、ものすごく魔法に向いてるのよ。発酵も膨張も、すべて“変化と制御”。まさに、魔術の本質よ。」
「たしかに、膨らんだりするのは魔法っぽいけども……」
「私、ラルクさんのファンで。ぜひ弟子入りさせてください!」
唐突だった。
あまりに唐突すぎて、私は思わず椅子からずり落ちそうになった。
「えっ、ラルクに?」
「はい。師匠にしてください!」
ラルクは一瞬黙ったあと、ゆっくりと頷いた。
「……わかった。ただし、パンを愛することが条件だ。」
「もちろんです!」
「あと、しらすへの敬意も忘れずに。」
「し、しらす……了解です!」
弟子入り成立。
なんというか、突拍子もないようで、妙にしっくりくるのがこの世界の不思議なところ。
魔女――いや、新米パン見習いの“ミレット”さんは、その日から城に移り住むことになった。
これが後に、“シュナイダー式魔法パン術”として世間を賑わせるきっかけになるのだが、それはまた別の話。
彼女が来てからというもの、家の中がより一層賑やかになった。
「奥様、魔法で焼いたパンはいかがですか? こちら、浮遊バゲットです!」
「浮いてるだけじゃん!」
「こちらは、“風のクロワッサン”です!」
「風味の話じゃないんだ……風に乗ってるのね……」
でも、どれもちゃんと美味しかった。魔法で焼いたってちゃんと焼きたての香りがするのがすごい。
その夜。
ラルクと並んで、夕焼けを見ていた。
「新しい弟子、すごい勢いだね。」
「うん。俺も負けてられないな。」
「魔法でパン、ちょっと面白いかもね。」
「でも、君の隣で焼くパンが、一番おいしい。」
またそういうこと言う。
「……ラルク。」
「なに?」
「私、今すごく幸せだよ。」
「俺も。」
手を繋ぐと、指先がほんのり温かかった。
魔女が来たって、空飛ぶ羊がいたって、毎日がちょっとだけおかしくたって。
私はこの場所で、この人と生きていきたい。
そう、心から思った。
人生って、何が起こるかわからない。
パン屋に嫁いで、花が咲いて、魔女が弟子入りしてきて、毎朝パンが浮いてる家に住んで、今に至る。
……と、これだけでも十分めまぐるしいのだけれど、さらなるイベントは、あっさりとやってきた。
ある日の午後、ミュリエルが真顔で駆け込んできた。
「奥様、大変です!」
「ま、またパンが暴発したの?」
「違います! 今度は魔術学会からお招きが……」
え、魔術学会?
思わず焼きたてのパンを落としそうになった。いや、ラルクが手を伸ばして拾ってくれたから無事だけど。
「なぜ魔術学会が私たちに?」
「“魔力と酵母の相互干渉に関する共同研究”を依頼したいそうで……」
魔力と酵母……。やばい、またパンが世界を救うフェーズに入った。
「お断りする理由、ある?」
ラルクが横からそっと囁く。
「まあ、ないけど……私たち、研究者でも魔術師でもなく、ただの……」
「パン屋夫婦。」
なんだその誇らしげな言い方。
結局、私は反対する理由も見つからず、ラルクとミレットと共に、王都の魔術学会へ招かれることになった。
私たちが乗った馬車は、パン型ではなかった。そこだけは唯一、常識のある選択がされていてホッとした。
でも学会の建物は、思った以上に荘厳だった。
天井が高く、シャンデリアが浮いてて、廊下に魔力の風が吹いてるし、ドアは全部自動開閉式。まさに、“これぞ魔術!”って感じ。
そこへ通された私たちは、なぜか壇上に立たされていた。
「え、ちょっと待って、これって……発表会!?」
「招かれたというより、巻き込まれたってやつだね。」
ミレットが小声でボヤく横で、ラルクは相変わらずマイペース。
「いい機会だ。俺たちのパンを、魔術師たちにも食べてもらおう。」
「研究じゃなくて試食会にする気なの?」
でもまあ、ラルクのパンなら通じるかもしれない……そう思っていた矢先。
壇上の裏から、見たことのない人物が現れた。
黒いローブ、鋭い目つき、銀縁の眼鏡。
「貴様らが、“パンで魔術が制御できる”などというトンデモ理論を持ち込んだ素人か。」
「誰……?」
「この学会の理事長、ダルメル=ジル。魔術制御学の第一人者よ。」
ミレットがこっそり教えてくれた。
そのダルメル氏は、私たちを一瞥して鼻を鳴らした。
「民間人が科学も理解せず、魔術を弄ぶなど愚の骨頂。学会を侮辱する気か。」
「別に侮辱はしてないですけど……」
「では証明してみろ。貴様らのパンとやらで、“暴走魔力”を制御できるかどうかを。」
「暴走魔力……?」
そう、暴走魔力とは、強い魔術の使い手が感情の高ぶりなどによって、制御を失い爆発的な力を生む現象だ。過去には都市一つ吹き飛ばしかけた例もあるとか。
「こちらに、“現在進行形で暴走中”の実験体がある。」
え、それ見せていいやつ?
案内された部屋には、透明な魔力の壁に囲まれた檻のような空間があった。中では、一人の少女が苦しげに呻いていた。
年の頃は十六、金髪に青い瞳。可愛らしい顔立ちだが、周囲には赤黒いオーラが揺らめいている。
「彼女は、幼少期の魔力蓄積障害で常に暴走状態にある。これを治められたら……貴様らの理論を、認めてやろう。」
「ラルク、やるの?」
私が小声で訊くと、彼は静かに頷いた。
「やるよ。俺たちは、パンで心を癒せるって信じてるから。」
パンにそんな能力が?
いや、あるかもしれない。ラルクのパンは、私の花を咲かせた。
彼は持参していた紙袋から、あの特製“ハチミツミルクパン”を取り出した。
優しい甘さと、ほんのり温かい蒸気が漂う。
封印の扉がそっと開けられ、ラルクはパンを手に、ゆっくりと少女に近づいた。
「……お腹、すいてない?」
少女は最初、目を伏せていた。けれど、香りに誘われるようにそっと顔を上げた。
「……なに、これ……いいにおい……」
「俺が焼いたパン。君のために。」
「私の……?」
ラルクはにこっと笑って差し出す。
少女が震える手で受け取り、一口食べた瞬間、周囲の黒いオーラがすうっと消えていくのが見えた。
「……あったかい……甘い……おいしい……」
その場にいた学者たちは、騒然とした。
誰もが予想だにしなかった結末。
ラルクのパンが、暴走魔力を鎮めた。
学会の面々は顔を見合わせ、ダルメル氏は眉をぴくぴくさせながら言った。
「……理論はともかく、効果は……認めざるを得ん。」
「ありがとうございます。」
ラルクは深く頭を下げた。
少女は、涙を流しながらこちらを見た。
「……ありがとう、パン屋さん。」
「また焼くから、元気になったら食べにおいで。」
その日の帰り道。
私たちは、夕焼けに染まる王都の道を歩いていた。
「……すごかったね、ラルク。」
「うん。でも、俺は何もしてないよ。あの子の心に、届いただけだ。」
そんなこと、言える?
「あなたのパンは、ただ美味しいだけじゃなくて、誰かの心に咲くんだよ。」
「……君が咲かせてくれたから、俺も咲かせたいと思った。」
ふと、道端の植木に、私の肩の花と同じ色の花が咲いていた。
それはまるで、私たちの道を祝福してくれているようだった。
日々は、穏やかに、でも確かに過ぎていった。
ラルクは毎朝パンを焼き、私はその匂いで目覚める。
ミレットは浮遊するバゲットを開発し、ミュリエルは「これはもう飛行船では?」と頭を抱え、近所の子どもたちは「空飛ぶパン屋さん」と呼んで毎日覗きにくるようになった。
そんな我が家に、さらに一つ、あたたかな出来事が訪れた。
春の終わり、桜のように咲き乱れた私の肩の花が、ふわっとひとひら、空に舞った。
「……あ、飛んだ。」
ベランダでお茶を飲んでいたラルクが、その一片をそっと掴んで、宝物のように見つめる。
「花が……散ったのかな。」
「いや、きっと“咲ききった”んだと思う。」
「じゃあ次は、なにが咲くのかな。」
「うーん……パンの木?」
「やめて。想像しただけでカロリー過多。」
そんな冗談を言い合っていると、ミュリエルが、例の真顔で駆け込んできた。
「奥様、大変です!!」
「……また!? 今度はなに!? 空飛ぶ食パンが暴走した?」
「違います。……ご懐妊です!」
…………はい?
「え、誰が?」
「奥様です。」
「私!?」
言われるまで気づかなかったが、確かに最近、パンの匂いに敏感になっていたし、やたら甘いものを欲していたし、ラルクの顔を見ると意味もなく泣きそうになっていた。
「そ、そんな……うそ……」
「ほんと。これ、診断書です。」
丁寧に差し出された紙に目を通し、私はその場にへたり込んでしまった。
「……なんか、急に現実味……」
ラルクが後ろからそっと肩を抱きしめる。
「ありがとう。……君が母になる日が来るなんて、すごく幸せだ。」
「私も……でも、ちゃんとできるかな。」
「できるよ。君なら絶対に。」
そう言ってくれるその言葉だけで、少し泣きそうだった。
そして季節は巡り、秋。
小さな命が生まれた。
ふにゃふにゃで、やわらかくて、泣き虫で、お腹がすくと全力で叫ぶ。
まるで小さなラルクみたいなその子を、私は腕に抱いて、ただ、ただ、泣いた。
「ねえ、ラルク。」
「ん?」
「私、ちゃんと母親になれてるかな。」
「うん。とっても。……でも、母親である前に、俺の一番大切な人だよ。」
こういうときに、さらっと心臓に刺さるセリフを言ってくるんだから、この人はずるい。
私たちはその子に、“リュネット”と名付けた。
ラルクの好きな星の名前だそうだ。
リュネットが笑うと、花が咲いたように家の中が明るくなって、私たちは何度も何度も「かわいいなあ」と同じ言葉を繰り返した。
ラルクはというと、育児にも本気だった。
オムツ替えに失敗して小麦粉まみれになったこともあるし、泣き止まないリュネットに子守歌代わりにパン作りの手順を読み聞かせて、逆にテンションを上げさせたこともある。
それでも、夜泣きでふらふらになった私をそっと寝かせて、代わりに抱っこしてくれていた姿は、今でも忘れられない。
「君に無理はさせたくない。」
たったその一言に、また涙がこぼれた。
そうやって、家族になっていった。
ある日。
私は、リュネットをおぶって、久しぶりに町を歩いていた。
季節は春。花が咲き、木々が芽吹き、人々が穏やかに微笑んでいる。
「奥様、お久しぶりですね。」
「まあ、リュネットちゃん、大きくなったわね!」
「今日のパン、クローバーの形だったよ!」
通りすがりの人たちが、声をかけてくれる。
私は笑って応えて、リュネットの手を取って空にかざす。
「ねえ、見て。君が生まれた世界は、ちょっとだけおかしいけど、すごくすごく、あたたかいんだよ。」
家に帰ると、ラルクが焼き立てのパンを並べていた。
「おかえり。今日は“母と娘のパン”作ってみた。」
「……なにそれ、泣くじゃん。」
「甘くて、ほんの少し塩気があるんだ。泣きながらでも食べられる味。」
そのパンは、確かに少し泣ける味だった。
これが、家族の味だ。
夜、ベッドの中。
リュネットがスヤスヤ眠る横で、私はラルクと並んで星を見ていた。
「ねえ、あの星、リュネットの名前のやつ?」
「うん。君が“星の子”を産んでくれたんだ。」
「なんか、照れるな。」
「でもね。」
「うん?」
「君こそ、俺の光なんだ。」
まただ。ほんと、ずるい。
私は彼の胸に顔を埋めて、笑いながら、少しだけ泣いた。
「ありがとう。」
「こちらこそ。」
こうして、花のように咲いた恋は、パンのようにふくらんで、星のようにきらめきながら、日常という名前の奇跡になっていった。
――少しだけおかしくて、とびきり愛しい、私たちの物語。