束の間の休息と、絶望的な計画書
冷たく、汚泥の匂いがする暗闇の中、俺は意識を取り戻した。
全身が鉛みてえに重く、切り傷や打撲の痛みが絶え間なく脳を刺激する。
「……ここは……」
「旦那! 気がつきやしたか!」
すぐそばから、ゴードンの安堵したような声が聞こえた。
見回すと、そこはゼニスの地下に広がる、古い下水道の一角らしかった。チョロチョロと水が流れる音だけが響く、静かな場所だ。
「ミリアが、最後の力でここまで俺たちを運んで、簡単な結界を張ってくれたんでさぁ。今は追っ手の気配はありやせん」
ゴードンの視線の先には、壁にぐったりと寄りかかり、荒い息を繰り返すミリアの姿があった。その顔色は紙のように白く、獣の耳も力なく垂れている。
「……虎之介さん……ゴードンさん……ご無事で、よかった……」
ミリアは、俺たちの無事を確認すると、安心したように目を閉じた。消耗しきっている。
「ミリア、しっかりしろ!」
俺は傷だらけの体を引きずってミリアに駆け寄った。ミリアの体は氷のように冷たい。あの夜、俺たちを助けるために、相当な無理をしたんだろう。
ヤクザ稼業で覚えた応急処置の知識なんざ、こんな時には何の役にも立たねえ。
「……そうだ、これ……」
俺は、ふと懐の奥にある、オフクロのお守り袋のことを思い出した。
ミリアは、これに「暖かくて、優しい力」が込められていると言っていた。気休めにしかならねえかもしれねえが、何もしないよりはマシだ。
俺は、その古びたお守り袋を、ミリアの冷たい手にそっと握らせた。
すると、信じられねえことが起きた。
お守り袋が、淡く、暖かい光を放ち始めたのだ。
その光は、ミリアの手から、ゆっくりと彼女の全身へと広がっていく。ミリアの苦しげだった呼吸が、少しずつ穏やかなものになっていくのが分かった。
「こ、こいつは……」
ゴードンも、その神秘的な光景に言葉を失っている。
オフクロの形見が、本当に不思議な力を持っていたとはな。
俺は、今は亡きオフクロに、心のなかで静かに手を合わせた。
ミリアの容態が少し落ち着いたのを見届けて、俺たちは束の間の休息を取ることにした。
ゴードンがどこからか調達してきた乾パンを齧り、汚水とは別の水路から汲んできたらしい水を飲む。お世辞にも美味いとは言えねえが、生きていることを実感するには十分だった。
「……さて、と」
少し体力が回復したところで、俺は懐から、血と海水で濡れてしまった羊皮紙の束――神嶺組の計画書を取り出した。
ランプの頼りない明かりの下、ゴードンと二人、その内容を改めて確認する。
そこに書かれていたのは、俺たちの想像を遥かに超える、絶望的な計画だった。
「……なんだ、こりゃあ……」
ゴードンの声が震えている。無理もねえ。俺だって、同じ気持ちだ。
計画書によれば、神嶺組の目的は、このゼニスだけじゃねえ。
この大陸に存在する、少なくとも五つの主要都市と、その周辺の「龍脈」全てを掌握することにあった。
ゼニスに隠されていた「龍脈の楔」は、その計画の第一歩に過ぎず、同様の「楔」が、他の都市にも運び込まれているか、あるいはこれから製造される手筈になっているらしい。
そして、全ての龍脈を掌握した時、奴らはこの世界のエネルギーを根こそぎ奪い取り、元の世界――俺たちのいた日本へと転送するつもりなのだ。
「……世界そのものを、しゃぶり尽くす気か、あの外道どもは……」
ヤクザのシノギにも、守るべき一線ってもんがある。だが、氷川や今の神嶺組には、そんなもんは微塵もねえらしい。
そして、計画書の最後には、奴らの補給路であり、この世界への入り口となっている「ゲート」に関する記述があった。
それは、大陸の中央に広がる、常に魔力の嵐が吹き荒れるという「大障壁」と呼ばれる山脈地帯のどこかに、定期的に開かれるらしい。
元の世界からの物資や人員は、全てそこを通して送り込まれている。
計画の総責任者は、やはり氷川。
そして、橘馬頭は、ゼニス地区の制圧を担当する実行部隊長の一人に過ぎなかった。奴と同格の部隊長が、他の都市にも配置されていることも示唆されていた。
「……敵は、俺たちが思っていたよりも、遥かにデカくて、根が深いってことか」
俺は、乾いた笑いを漏らすしかなかった。
アークライト商会を潰したところで、奴らの計画を止めることにはならねえ。それは、巨大な蛇の尻尾を切り落とすようなもんだ。すぐに新しい尻尾が生えてくる。
「旦那……どうしやす? こんなの、俺たち三人だけで、どうにかなるような話じゃ……」
ゴードンの言う通りだ。これはもう、俺個人の復讐や、この街のシノギをどうこうするってレベルの話じゃねえ。
俺は、静かに眠るミリアの顔を見た。
こいつは、この世界を守るために、たった一人で戦おうとしていたんだ。
俺は? 俺は何のために戦う?
氷川への復讐か? それも、もちろんある。
だが、それだけじゃねえ。
この世界で出会った、ゴードンや、ミリアや、腕はいいが不器用な鍛冶屋のベイル。ロレンゾみてえな、か弱いが懸命に生きている連中。
奴らが、神嶺組みてえな外道にいいようにされるのは、単純に、胸クソが悪ぃ。
「……ゴードン」
「へい」
「俺は、やるぜ。相手が国だろうが、世界だろうが、俺のやり方で、このヤマ、喰ってやる」
俺の目に、再び闘志の火が宿るのを、ゴードンは見逃さなかった。
「旦那……!」
「だが、お前の言う通り、今のままじゃ話にならねえ。仲間が必要だ。それも、神嶺組と渡り合えるだけの、クセのある連中がな」
ヤクザの抗争も、デカくなれば他の組との共闘や、警察の内部に協力者を作ることが必要になる。この世界でも、やることは同じだ。
「ミリアが言っていた、他の『森の民』。神嶺組のやり方に反発している、他の国や組織。あるいは、ゼニスの裏社会で燻っている『スネーク・バイト』みてえな連中も、使いようによっちゃあ駒になるかもしれねえ」
俺は、頭の中で反撃の絵図を描き始めた。
闇金で軍資金を作り、情報網を広げ、各地の反神嶺組勢力をまとめ上げ、一つの巨大な「連合」を作り上げる。
そして、奴らの計画の要である「ゲート」を叩き、補給路を断つ。
同時に、氷川の奴を、俺自身の力で引きずり出し、落とし前をつけさせる。
途方もねえ計画だ。だが、この計画書を手に入れた今、俺たちには、奴らの先を行くことができる。
「まずは、ここを出て、体勢を立て直す。そして、新しいアジトを構える。そこから、俺たちの本当の反撃が始まる」
俺は立ち上がり、汚れた服の埃を払った。
「ゴードン、ミリアが目を覚ましたら出発だ。俺たちの戦争は、まだ始まったばかりだぜ」
薄暗いゼニスの地下で、俺は、この異世界そのものを相手にした、壮大な「抗争」の開始を宣言した。
柳瀬虎之介の闇金道は、今、世界を股にかけた巨大なシノギへと、その姿を変えようとしていた。




