かつての代紋と、三つ巴の死地
「神嶺組若頭補佐、橘馬頭。お前のようなドブネズミが嗅ぎ回っていい場所じゃねえんだよ、ここは」
橘と名乗った男の言葉が、廃坑の冷たい空気に突き刺さる。
その背に染め抜かれた「柳に燕」の代紋。俺が命を懸けて守り、そして裏切られた神嶺組の象徴。それが今、こんな異世界の、血生臭い場所で俺の眼前に現れた。
「……橘馬頭だと? 聞いたことのねえ名前だな。俺がいた頃の神嶺組に、そんな若造はいなかったはずだぜ」
俺は動揺を押し殺し、できるだけ平静を装って言い返した。だが、声がわずかに震えているのを自分でも感じていた。
橘は、俺の言葉に鼻で笑った。
「ほう、お前、もしや……ああ、思い出したぜ。数年前、敵対組織との抗争中にタマ取られて死んだって聞いていた、柳瀬虎之介……だったか? まさか、こんな肥溜めみてえな世界で生きていたとはな。神も仏もねえもんだ」
こいつ、俺のことを知っている。それも、かなり正確に。
ということは、こいつが神嶺組にいるのは、俺が「死んだ」後ということか。
だが、どうやって異世界に? そして、なぜ神嶺組がこんな場所で活動している?
疑問が次から次へと湧き上がってくる。
「なぜ神嶺組がここにいる? お前ら、一体何を企んでるんだ」
「それは貴様のような裏切り者に教える義理はねえな。それより柳瀬の叔父貴、あんたこそ、なぜこんな場所に?」
橘はわざとらしく「叔父貴」と呼び、挑発するような視線を向けてくる。
俺たちの緊迫したやり取りの間にも、状況は刻一刻と変化していた。
檻から解き放たれた魔獣は、手当たり次第に黒ずくめの「黄昏の蛇」の連中に襲いかかり、阿鼻叫喚の地獄絵図を繰り広げている。
そして、「黄昏の蛇」の生き残りは、新たな敵である橘の登場に、さらに混乱を深めているようだった。
「お、お前ら、一体何者だ!?」
「まさか、柳の紋章……神嶺組だと!?」
「黄昏の蛇」の連中と橘の間で、新たな緊張が走る。
俺を尋問していた男は、いつの間にか俺のナイフの拘束から逃れようと身じろぎしている。だが、俺はそいつから目を離さず、橘に意識を集中させた。
「ゴードン、状況が悪すぎる。いつでも逃げられるように備えろ」
俺は小声でゴードンに指示を出す。
「へ、へい、旦那!」
ゴードンも、この異常な事態に顔面蒼白だが、それでも俺の指示に従おうと必死だ。
橘は、周囲の混乱などまるで意に介さないように、スッと右手を上げた。
すると、廃坑の入り口から、ぞろぞろと数人の男たちが姿を現した。全員、橘と同じように黒い着物を着こなし、その背中には「柳に燕」の代紋。そして、手には日本刀や、中にはこの世界のものとは思えねえ、銃身の短い火器みてえなものを持っている奴もいる。
「黄昏の蛇の残党は一人残らず始末しろ。それから、あの『実験体』もだ。暴走しているなら、破壊しても構わん」
橘の冷徹な命令が飛ぶ。
神嶺組の組員たちは、「応!」と短く応えると、一斉に「黄昏の蛇」の連中と魔獣に襲いかかった。
一瞬にして、廃坑の奥は三つ巴の戦場と化した。
「黄昏の蛇」の魔法と剣、神嶺組の日本刀と近代兵器(?)、そして魔獣の圧倒的な暴力。
血飛沫が舞い、怒号と悲鳴が交錯する。
「さて、柳瀬の叔父貴。あんたはどうする? 俺たちに協力して、あのゴミどもを掃除するか? それとも、ここで過去の清算をするか?」
橘は、余裕綽々といった表情で俺に選択を迫る。
協力だと? ふざけるんじゃねえ。
俺を裏切った神嶺組に、手を貸す義理なんぞあるもんか。
だが、ここで橘と事を構えれば、ゴードンを巻き込むことになる。それに、この数の神嶺組相手に、俺たち二人だけで勝てる見込みは薄い。
「……俺は、お前たちの仲間になるつもりも、敵になるつもりもねえ。ただ、ここであったことは見なかったことにして、立ち去らせてもらう。それで手打ちにできねえか?」
俺は、ひとまず退くことを考え、交渉を試みた。
橘は、心底面白そうにクツクツと喉を鳴らして笑った。
「見なかったことにする、ねえ。あんたがこの場所で俺たちを見たという事実が、すでに見過ごせねえんだよ、柳瀬の叔父貴。残念だが、あんたにはここで死んでもらうしかねえようだ」
橘の目が、すっと細められる。殺気。
「……そうかい。なら、仕方ねえな」
俺は懐の鉈を握り直し、覚悟を決めた。
「ゴードン! やるぞ!」
「待ちなさい!」
その時、凛とした女の声が、戦場の喧騒を切り裂くように響き渡った。
全員の動きが一瞬止まる。
声のした方を見ると、廃坑の入り口とは別の、薄暗い横穴から、一人の女が姿を現した。
長い銀髪を揺らし、手には水晶のようなものが埋め込まれた杖を持っている。
その顔は、どこか見覚えがあった。
……そうだ、ミリアだ。
だが、いつも俺の世話を焼いてくれる、あの気の弱い獣耳娘とはまるで雰囲気が違う。その瞳には強い意志の光が宿り、全身から尋常ならざる気配が放たれている。
「ミリア……!? なんでお前がここに……」
俺が驚きに声を上げると、ミリアは俺を一瞥し、そして橘に向き直った。
「神嶺組の方々。そして『黄昏の蛇』の残党。ここは聖なる古の地。これ以上の殺生と冒涜は、この地の守り手として許しません」
ミリアの声は、普段の彼女からは想像もできねえほど、威厳に満ちていた。
橘は、眉をひそめてミリアを見据える。
「……何者だ、貴様は。この地の守り手だと? ふん、面白い冗談を言う」
「冗談ではありません。今すぐここから立ち去りなさい。さもなくば、この地の怒りに触れることになります」
ミリアが杖を掲げると、杖の先端の水晶が淡い光を放ち始めた。
廃坑の壁に描かれた古い紋様が、その光に呼応するように、ぼんやりと輝き出す。
空気が、ビリビリと震えるような感覚。
なんだ、これは……。ミリアは、ただの村娘じゃなかったのか?
この廃坑と、何か関係があるのか?
「……ほう、魔法使いか。それも、ただの魔法使いではなさそうだな」
橘は興味深そうにミリアを観察している。
「だが、我々の邪魔をするというなら、容赦はせんぞ」
神嶺組、黄昏の蛇、そして暴走する魔獣。
そこへ、謎の力を秘めたミリアと、この地の守り手という言葉。
事態は、俺の想像を遥かに超えて、混沌の極みに達しようとしていた。
俺は、この混乱の中で、どう立ち回るべきか。
ミリアの登場は、俺にとって吉と出るか、凶と出るか。
そして、神嶺組がこの異世界で何をしようとしているのか。
柳瀬虎之介の異世界闇金道は、もはやただの金貸し稼業では収まらねえ、巨大な陰謀の渦へと巻き込まれようとしていた。