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ハーデンベルギアの餞別

新しい舞台の脚本を書いた脚本家が、公開舞台稽古にやってくるらしい。

招待されていたようで、僕が案内を任された。

僕はただの裏方に過ぎないが、新人だからと雑用を押し付けられた。

まあ、台本を読んだ段階で、この脚本家のファンになったから別にいいのだけど。

とりあえずこの寒空の下、新人を外に放置するのはやめてほしい。

しばらくして、青いスポーツカーが駐車場に入ってきた。

駐車場に停まった車から、肩まで黒髪を伸ばした男性?が降りてきた。

濃紺のトレンチコートがよく似合っている。

よくよく見ると、青のインナーカラーが入っている。

「えっと、…スタッフさん?」

低く、落ち着いた声。

「まあ、はい。佐沼さんですか?」

「はい。脚本家の佐沼千雨といいます。」

この人が、あの繊細な台本を書いたんだ。

「え〜っと、お名前教えてもらっても?」

「あ、蛙鳴 蓮です。蛙が鳴くに蓮です」

アメイさんね。

佐沼は、文章からも読み取れたように、穏やかで、繊細に見えた。

舞台裏を案内するように言われていたので、佐沼を案内していると、

少し佐沼についてわかったことがある。

どうやら人との会話が苦手らしい。

出演者との会話を聞いていても、ぐいぐい行く出演者に、

少し辟易しているようにも見えた。

「すみません、うざったいですよね」

「あ、わかっちゃいました?いやあ…ああいう陽な雰囲気あまり得意やなくてね」

時々敬語が外れるのは、敬語が苦手だと言っていたからだろう。

ちょくちょく訛っているのは、福岡出身だからだ。

「佐沼さんのそれは、博多弁ですか?少し違う気が…」

「いや。福岡にはね、方言が全部で4つあるんよ。

博多弁、北九州弁、筑豊弁、筑後弁。

俺のこれは筑後弁」

佐沼は、性別による隔壁を嫌っているんだと語ってくれた。

「俺、一応女なんやけど。」

「え。」

「見えんやろ?見えんようにしとるだけなんよ。

もともと声低いしあんまバレんなって思って。

俺は自分の好きなように好きなことばして行きたい」

自分の”好き”にこんなに正直な人は、初めて見たかもしれない。

「好きなことばできん人生なんて面白くないやん」

この人はどこまでも芸術家で、僕はどこまでも捻くれ者の裏方だ。

こんな人は、きっと、この人に見合う人がいるのだろう。

それまではにこやかに、どこかよそ行きの笑顔を貼り付けていた佐沼は、

公開舞台稽古が始まると神妙な面持ちで頬杖をついて鑑賞していた。

自分の物語を、どのように表現してくれるのか、そう吟味するような目だった。

結果的に、とても満足してくれたようだ。

「アメイさん、連絡先交換しよ」

「え、あ、はい」

「じゃあ、また今度ご飯でも」

ご飯…?

ご飯の誘いがあるのだろうか。

こんな、いちスタッフでしかない僕に。

その翌週、佐沼からメールが来たとき、飲み物を吹き出しそうになった。

メッセージの内容は、僕の予定の空いた日を聞いてくるものだった。

明日明後日は空いている、と伝えると、

「じゃあ明日、ご飯いこ」

なんともフットワークの軽い人だ。

無駄な期待を抱いてしまいそうだ。

僕にとって、佐沼は最早ただの推しではなかった。

佐沼は、カフェを指定してきた。

佐沼の好きな穴場の店だという。

佐沼は、先に店についていて、珈琲を飲んでいた。

「あ、蓮くん」

「どうも。」

いつの間にか佐沼は僕を下の名前で呼んでいた。

悪い気はしないので何も言わないでおく。

佐沼は珈琲の他にプリンを頼んでいたようで、僕にもメニューを差し出してきた。

「俺のことも千雨でよかよ」

「はあ」

なんというか、この人はどこまでも、フットワークが軽い。

気軽に誰とでも話すくせに、誰とでも打ち解けるわけではない。

難儀な性格をしているのは、本人もよくわかっているようだった。

生きづらい、と笑う彼女は言うほど生きづらくはなさそうで。

そんな、のらりくらりとした彼女の生き方が、少し羨ましい。

彼女は彼女なりに、抱え込んでいるものがあったのだと知ったのは、

二度目の公開舞台稽古のときだった。

少し休憩しようと、喫煙所の近く…自分が吸う訳では無いが、外の空気を吸いたくなったので、室内の自販機で買ったカフェラテを手に外に出ると、喫煙所に、佐沼の姿があった。

とても驚いたのは言うまでもない。

あの佐沼が、煙草を吸うとは思えなかった。

こちらに気づいているのかいないのか、それは定かではないが、

佐沼は外を見つめ、眉間にシワを寄せ、明らかに不機嫌な様子だった。

そして手には、火のついた煙草を持っていた。

この人もあの苦い煙を吸うのだと思うと、なんだか意外だ。

穏やかで人当たりの良い彼女が、人体に害のあるものを吸うなんて。

彼女は、こちらに目を向けた。

眼鏡越しに、一重まぶたの吊り目が、僕の姿を捉える。

煙草を口元に運んだ彼女は、細く煙を吐き出し、口角を上げた。

「…やァ」

「…煙草、吸うんですね」

「まあね。」

彼女も、不機嫌になることがある。

あたり前のことだが、普段の彼女からは想像もつかなかった。

眼鏡を人差し指で押し上げ、灰皿に煙草を押し付ける。

彼女の指の動きを追っていた。

喫煙所から出てきたばかりの彼女は、重い苦みのある香りがした。

思わず顔を顰めると、彼女は苦笑した。

消臭スプレーを、自身の服にかけ、

「大丈夫?」

と僕に笑いかける。

小さな消臭スプレーを持ち歩いているらしい。

喫煙者にとっては普通なのだろうか。

「なにか、あったんですか?」

「ああ…うん、まあね」

この劇の公開舞台稽古の前に、もう一つ公開舞台稽古を見たのだという。

それが、脚本家の意図に沿っておらず、

なんとも駄作な作品に成り代わってしまっていた。

それが納得いかず、監督・演出陣に文句をつけ、そのままここに来たらしい。

「怒る方も疲れるね…」

肩を叩きながら、軽く笑った。

ことに彼女は怒り慣れていないから余計に疲れてしまうだろう。

もとより、役者や監督の方針に不満があったのだと語る彼女は、

どこか悲しそうな目をしていた。

監督や、演出陣、役者の努力を無駄にしたことを気にしているのだろう。

どこまでも優しい人だ。

そんな奴らのことなんか放っておけばいいのに。

人の素晴らしい作品を駄作に作り変えるような節穴野郎なんて。

「プロでもない俺が、プロに文句をつけたんだ。気にもするさ」

僕から見ても、彼女は何も悪くないと思える。

彼女の作品を、駄作にした奴らのほうが悪い。

「僕は、あなたの書く物語が好きですよ。本が出たら真っ先に買いたいくらいには」

「そっか。嬉しいね。……」

何故か、彼女の表情が曇った気がした。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

本、か。

諦めて、忘れかけていた夢。

それを、嫌でも思い出す言葉だった。

結果的に、物語を書くことはできているから、満足はしている、と思う。

あの夢は、学生時代の俺が夢見ていた、あまりに夢を見すぎた代物だ。

俺には、このくらいがちょうどいい。

そう思っていて。でも、あの子は、きっとだめだと言うだろう。

あなたはもっと高みへ行ける。

そう励ましてくれるのが目に浮かぶ。

ある日突然現れた、舞台裏の新人。

彼は、俺の脚本で俺のファンになったらしかった。

ありがたいことだが、ファンと話す機会はそうそうないから、

少し緊張する。

或いは、また別の…

今は少し、考えるには疲れすぎている。

また余裕のあるときにでも考えることにして、俺は早々に思考を放棄した。

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