主人公がカメラ視点になることへの考察
先日、プロット大公開大会が開催され、表題の指摘があがったことを考察する。
犯し難いミスだと当人は感じたろうが、公開前に無意識に通してしまったのは、人の性だ。私も経済活動のさなかに思い込みで過失をした。認識できないものを手に入れるのは難しく、次で取り返すしかない。
今回取り上げたいのは、なぜそのようなことが起きたかの点である。
娯楽作品溢れる今日で語り部すらならない主人公というのは、存外あふれている。
ゲームの主人公だ。
古のRPG……ドラクエFFの主人公は語らなかったし、冒険の最中に仲間を見つけ彼らに引っ張られながら世界を救った。まして、スマホゲーは無数のヒロインが登場し、セリフのない主人公と密接に関わっていく。
奇しくも指摘を受けた製作者は、そうした業界に属しており、主人公は語らないもの――というのを無意識で構築していたことを想像する。さらにいえば、現在人気のFGOブルアカなどは何層もの世界が混在しており、創作の傾向が世界観構築に偏るのは致し方ない(かもしれない)。
業界ならではの企画書やMTやプレゼンなどに触れている分、心の拠り所が大きかったことが窺える。
さて、そんなRPGに置いて主人公が語り出したゲームがある。
テイルズだ。ゲームはプレイヤーに身を委ねるもの――という概念を破り、主人公すらもキャラを立ててすべて人形劇にしたテイルズはRPGの革新だったといえる(戦闘システムも含めてだが)。よくできたキャラクターはメディア展開しやすく、少年誌などで連載していたのも見かけた。テイルズを皮切りにスターオーシャンほか主人公が語るゲームも登場したといえるのではないか。
少し脱線したが、主人公が能動的でない場合でも成り立つ事例をあげた。
小説という媒介でも、主人公は黙し、語り部に委ねる作品もある。ただし、それは読者を騙すギミックなので、ミステリの類を構成する必要があるが。




