星見の山脈 4
エヴァンを追って茂みの中へと入る。
とはいえアリアはほとんど裸である。鋭い枝葉が柔肌を傷つけて痛いが、大見得を切ってしまったからには我慢するしかない。
茂みをかき分けて、木々が少なく開けた場所に出ると、エヴァンは足を止めた。
「……キャンプで待っていればいいものを」
「そうは言っても、お世話になってばかりはいられないから……」
「……まあいい。いずれにしても……」
ごう、と獣の吠える声が間近に聞こえ、茂みを薙ぎ倒しながら魔物が姿を現した。
その姿は、巨大な山羊。しかし普通の山羊とは違う。
牙が生えたいた。大きな角を持ちながら、肉食獣であることを示す鋭い犬歯。
魔物が口を開けると、肉を裂く鋭い歯が奥まで生えそろっていた。
「こいつの狙いは、お前だろう」
「え!?」
どういうことか、尋ねる余裕はなかった。
獲物を視界に入れた大山羊は、吠えながら鋭い牙でアリアに噛みついてくる。
エヴァンはアリアの体を押して突き飛ばすと、自らも飛び退くことで牙を回避した。
噛みつき損ねた大山羊が、即座に角を振り上げて追撃してくる。牙と角のコンビネーションというべき攻撃を、エヴァンはふわりと身軽な動きで躱した。
「どうやらお前は匂うらしい」
「へ? に、にお――」
「命ある者が好む香りだ」
そんなに匂うだろうか――アリアは自らの腕や胸元の匂いを嗅いでみるが、特に何も感じない。
「戦いに集中しろ。死ぬぞ」
「そ、そんなこと言われてもッ!」
集中を乱すようなことを言われたのだから仕方ないと心の中で言い訳しながら、アリアは目の前の敵に向き直った。
「……ファングゴートだな。見ての通り、注意するのは角と牙、そして蹄だ」
ファングゴート――牙山羊は馬がそうするように前脚を振り上げ嘶いてから、角を突き出してアリアに向けて突進してくる。
「うわっ!」
アリアは横に転がるようにして突進を避けた。
身を守るものが下着だけだから、地面に転がる枝や石ころが当たって痛い。無様にも土に塗れるアリアであるが、それだけ痛い思いしたのだからタダでは終わるわけにはいかない。
すれ違いざまに剣の一撃を入れて、牙山羊に傷を作った。
牙山羊は赤黒い鮮血を溢しながら、勢いのついた体にブレーキをかけて反転する。
ふたたびアリアを狙う気だろう。角か、牙かと、身構える。
そのとき、背後でエヴァンが声を上げた。
「伏せろ」
アリアは指示通り体を低くすると、かしゅん、という音とともに頭上を矢が通り抜ける。
背後では、エヴァンがクロスボウを牙山羊へと向けて構えていた。
発射された矢は寸分違わず牙山羊を捉えて、その目を射抜く。
ごう! という叫び声とともに、牙山羊の体勢が崩れる。
そこへエヴァンが飛びかかった。
黒づくめの男は牙山羊の体にしがみつくと、急所目掛けて鉈のような剣を振り下ろす。
それは、騎手が暴れ馬を諌めるようにも、肉食獣が獲物に喰らいついている様子にも見えた。
そうして手早く急所を掻っ切った男は、遅れて発生する返り血を避けながら獲物の体から飛び降りる。
牙山羊は突進の勢いのまま転倒し、地面を滑って地に伏した。
「終わりだ」
男は倒れた牙山羊へと悠々と歩み寄ると、その額に鉈剣を突き刺してトドメを刺す。
その一撃によって魔物は絶命した。
「すごい……」
終わってみると、一方的な戦い――いや、「狩り」だった。
男は武器についた血糊を拭い、アリアのほうへと向き直った。
鋭い光を放つ瞳は、少し怖くて、なぜか悲しかった。
「無事のようだな」
「うん」
「怪我は……」
エヴァンはアリアの体へと目を向けた。擦り傷まみれの体を、上から下までじっと見つめる。
半裸の体をまじまじと見られて、ちょっと恥ずかしかった。
「……無傷とはいかなかったようだな。落ち着いたら治療をしよう」
「大丈夫だよ、このくらい」
平気なことを示すようにアリアは体を動かしてみせる。
実際、たいして痛くないから問題ないのだ。
しかし、
「自分の体は、もっと大事にしたほうがいい」
そう言われて、なんとなく言い返すことができなくて、アリアは素直にうなずいた。
時刻は少し遡り、アリアが谷底へと落ちてしまった直後。
巨大蜂の群れをなんとか撃退したルイスとシスティナは、傷だらけの姿のまま、崖の下を覗き込んで途方に暮れていた。
「どうしよう……アリアが……」
システィナはその場で座り込んでしまう。彼女がここまで戦い抜くことができたのは、そうしないとルイスの身も危険に晒してしまうからだ。でなければ、今頃は自暴自棄になっていただろう。
「落ち着くんだ、システィナ」
「でも……」
「彼女は神に選ばれた特別な剣士だ。このようなところで死ぬことは、ありえない」
そうシスティナを励ますルイスも、気が気ではなかった。
本当は、信じたくないだけなのかもしれない。アリアが命を落とすなんてことを。そうして現実から目を背けているのかもしれない。
いくらアリアが特別な少女であっても、この高さの崖から落ちて生存していることなど、普通に考えたら――。
いやな想像を断ち切り、ルイスは心を奮い立たせた。
「とにかく……アリアを探そう。どこか谷底へ降りられる場所はないか?」
そう尋ねると、システィナは呆然としながら。
「谷底……」
小さくつぶやくその目は焦点が合っていない。何かを思い出すように、遠くを見る瞳。
やがて、もう一度ぽつりと言った。
「この谷底には、川があります……」
ルイスはもう一度谷底を覗き込んで確認する。
「……確かに、川が見えるな」
「その川の下流には、村があります……いえ、かつて村がありました」
「そうなのか?」
「……はい」
システィナの瞳に光が戻る。
だが、それは何かにすがるような、病的で危うい光だ。その瞳に、ルイスはなんとなく不安を覚えた。
「もし……うまく川に落ちたことでアリアが無事だったのなら……流されて、その近くにたどり着くはずです」
それは、難しいだろうと理屈としてルイスは思う。
いくら川に落ちたといっても、水深はそこまで深くないはずだ。この高さから落ちて川底に叩きつけられれば、無事では済まない。
その上に急流で流されたのなら、奇跡が起きなければ助からない。
「だが……」とルイスは唇を噛むのをやめて、力強くうなずいた。
「そうだな。その可能性に賭けてみよう」
すべてはシスティナの勘、いや願望でしかないのかもしれないが。
それでも、希望がないよりはあったほうがいい。
絶望する前に、まずは動くべきだとルイスは思う。
「アリアは、きっとそこにいます。たどり着きます……そういう運命を持っている人だと、わたしは思うから……」
「……ああ」
賭けるしかない。アリアが生きていることに。
いずれにしても谷底へ向かう必要があるのなら、システィナの案内に従うほうがいいだろう。
「ともあれ、まずは崖下に降りてからだ。システィナ、案内できるか?」
「すみません……この辺りの地形は、わたしもあまり詳しくなくて……。崖下まで行けば、ある程度の案内ができるのですが」
「そうか。やはりまずは、降りられる場所を探さなくてはな」
アリアがいなくては、女神フローリアとの交信もできない。
そうなると、今は道なりに進むしかないだろう。
方針を決めたルイスたちは、ふたたび山道を歩き始めた。




