第87話 おまえ百回死んでみる?
お茶は緑茶。
お菓子は堅焼きのしょうゆせんべい。
それが、親父がおやつの準備をするときに出すメニューの鉄板だった。
緑茶は苦いし熱いし、堅焼きせんべいは硬すぎて噛み砕けない。
五歳の頃の俺は、それの何がいいのか全然わからなかった。
しかし、今回は――、
「……え、うま」
緑茶は苦みほどほどでほんのり甘みがあって、温度も生ぬるい程度。
出てきたせんべいも普通に噛み砕けて、醤油の風味がこれまたお茶に合う……。
「お茶とせんべい、こんなうまかったのか……!」
ちょっとした衝撃でございました。
「七歳でそれがわかるのも本来はおかしいんだけどね。まぁ、人生二周目ともなれば、そういうのもわかってしまうものなのかもしれないなぁ」
こっちは熱々の緑茶を美味しそうに啜る親父。
ケントは、強がって熱々のお茶を所望したがしっかり苦戦しておる。愚かな。
その隣では、シンラとミフユが優雅に茶を嗜んでいた。
「う~ん、お茶の淹れ方がいいのかしら? 苦みと甘味のバランスが実に絶妙ですね、お義父様。それにこのおせんべい。どこかのお店の通販か何かですか?」
「そんなことまでわかるんだ。ミフユちゃんはすごいね。このおせんべいは――」
「まぁ! あのお店からの取り寄せですか、お目が高いですわね、お義父様!」
お袋のみならず、しっかり親父にまで取り入ろうとしてるミフユの姿が笑うわ。
「……ふむ、実によき茶にて」
一方で、シンラは親父を観察するかのように、言葉少なに見ているだけ。
親父はそれに気づいているのかいないのか、シンラの方はあまり向こうとしない。
「ふぅ~……」
それにしても何つ~か、変な言い方だが、やたら落ち着く。
本来、自分がいるべき場所に帰ってきたみたいな、そんな気分が非常に強い。
「どうだ、アキラ。二年ぶりの我が家は」
「……落ち着く。残念なことに」
二年も経てば、人生を丸々一回終えれば、そんな懐かしさ感じないかと思ってた。
だけど、そんなことはなかった。
「そうだよな、ここ、俺んチなんだよな……」
見上げた天井も馴染み深くて、座ってる床の感触も全然忘れてない。
何より、家に漂う空気の感触と匂い。それがダイレクトに俺の脳髄を揺さぶる。
「ああ、そうだよ。アキラ。ここはおまえの家だ。だから――」
「ん~?」
「こっちに来ないか、アキラ」
一瞬、その言葉の意味を、図りかねた。
こっちってどっちだ。などと、間の抜けたことを考えてしまった。
だが、一瞬あとに理解して、だからこそ問い返す。
「……親父、今、何て?」
すると親父は、今度こそ俺にもはっきりわかるよう言ってきた。
「宙船坂アキラになる気は、ないかい?」
「それは……」
親父は、俺の前に正座して、しっかりと俺を見据えていた。
俺は咄嗟には声が出せず、親父の真剣な面持ちに、かすかに気圧されてしまう。
「……何で、今さら」
半ば絶句したままで、俺がやっと出せたのはそんな一言。
ミフユも、シンラ達も、俺と親父のやり取りを真面目な顔つきで見守る。
「今さらなんかじゃない。今だから、おまえに提案してるんだよ、アキラ」
「それって、つまり……」
「美沙子におまえを預けていても、何もいいことはない。僕はそう思っている」
普段はどっちかというと大人しいタイプの親父が、強い調子で断言した。
「お袋は……」
「ああ、生活する上では、美沙子はできる人間さ。僕は彼女ほど料理も上手くないし、掃除も洗濯もあんなに完璧にはできない。そこはすごいと思うよ」
離婚した妻を、親父は手放しに称賛する。
しかしその言葉から「でも」と繋いで、親父は目つきを鋭くする。
「美沙子の人間性を、僕は一切信用していない」
まぁ、そうだろう。そうだろうさ。
あの豚にそそのかされ、流される一方で、結局親父を騙すことに加担したお袋。
そして離婚後は、自分が殴られるのがイヤで俺を生贄に差し出したお袋。
そうやって思えば、金鐘崎美沙子のどこに美点を見出せばいいのか。
親父の言うことはもっともだと、俺自身も思うよ。
「親父は、今もお袋を憎んでるのか?」
「いや、憎んではいないよ」
あれ、そうなの?
てっきり陥れられた件もあって、憤怒グツグツ憎悪ギンギンかとばかり……。
「怒りも憎しみもないよ。ただ、彼女には一切の期待をしていないだけだ」
「……ああ、そういうことか」
親父がお袋に対して抱いてるのは、絶望と諦念、か。
怒りだの憎しみだの恨みだのを抱くにも至らない。お袋を完全に見切ったのか。
「だけど、勘違いしないでほしい。僕の個人的な感情から、おまえを誘ってるんじゃないよ、アキラ。僕は父親として、おまえのことを考えてこの提案をしてるんだ」
「オイオイ、親父。俺は『出戻り』だぜ。ただの小学二年生とは違うよ」
「そうかもしれない。でもおまえが僕の息子であることも事実だ。だから僕は、おまえをよりよい環境に置きたいと考えてる。そしてそれは、美沙子のもとじゃない」
「親父……」
呟く俺の肩を、宙船坂集は熱っぽく手を伸ばして、ガシッと掴んできた。
「おまえは僕の息子なんだ。アキラ」
「おや……、パパ」
俺を見つめる親父を前に、俺の頭の中で冷徹に計算が働く。
お袋。金鐘崎美沙子。
あの女を俺が今も生かしてやっている理由はただ一点、保護者が必要だからだ。
だが、ここで親父が俺を引き取るなら、その問題はクリアされる。
そして親父は、俺が『出戻り』として動くことを掣肘するしたりはしないだろう。
一方で、俺の中にはまだ、お袋に対する恨みと憎悪は燻っている。
今まで保護者が必要だからという理由で生かしたが、あの女の生死に興味はない。
むしろ殺していいなら今からでも喜び勇んで殺せるよ、俺。
……利も理も情も、全てが親父の方に傾いている。
いや、そもそも考えるまでもないのか。
見ろよ、目の前の親父を。こんなにも俺のことを考えてくれてるじゃないか。
俺自身だって、それをイヤとは思っていない。驚いたが、嬉しかった。
答えは、もう出てる。か。
そう結論づけた俺は親父の提案にうなずこうとする。
「――その決断、些か尚早にございましょう」
だが、俺が動くよりも先に、シンラが横やりを入れてきた。
「シンラ……」
俺はシンラを睨む。
「どういうことだよ、尚早ってのは……?」
「言葉通りの意味にて。そのような重大な決断をするのでしたら、全ての判断材料をしかと吟味した上で決めるべきでございましょう。目を逸らしてはなりませぬぞ、父上らしくもない。一つ、あえて見ないフリをしていることがございましょう」
……こいつ。と、俺は奥歯をきつく噛み締める。
「見ないフリをしていること、とは……?」
心当たりがないらしい親父が、俺とシンラを交互に見る。
ああ、わかってるよ。シンラが言いたいのは、風見祥子への啖呵のことだろう。
「父上。余から語りまするか?」
「いらねぇよ。余計なことを思い出させやがって……」
俺はシンラに毒づいて、親父に少し前にお袋が切った啖呵のことを話した。
すると、親父は目を丸くしたまま、しばし言葉を失った。
「本当かい? あの美沙子が、銃を突きつけられた状態で、そんなことを……?」
「残念だけどマジだよ。俺もシンラも、バッチリ見たし、聞きもしたからな」
俺がそう返すと、親父は口に手を当てて、しばし考えこむ。
「……シンラ、さん。だったね」
「は、余は呼び捨てでも一向にかまいませぬが、シンラにてございます」
「確認させてほしい。どうして今、口出しをしたんだい?」
「ふむ? それはどういった意図を持った質問にてございましょうや、集殿」
「僕は、カディ様を通じてあなたのことも知ってる。あなたと美沙子とのこともだ」
「然様でございましたか、それで?」
「僕がアキラを引き取ることは、あなたが美沙子を狙う上で、プラスのはずだ」
「それは確かに。美沙子殿は一人では生きられぬ御方。今は父上を寄る辺としておりますが、父上がいなくなられるのであれば、余が代わりの寄る辺となることも非常に容易いでしょうな。その意味では、余にとってプラスに働きましょう」
「そうだ、そのはずだ。なのにどうして?」
親父の質問に、シンラはふと目を伏せる。
「集殿。貴殿の問いかけに対し、問いにて返す無礼をお許しいただきたく存ずる。……逆にお尋ねしますが、何ゆえ、口出しをせずにいられましょうや?」
「それは、どういう……?」
「余は皇帝でありました。国を富ませ、民を安んずることを第一とし、己の情よりも理と利とを優先し、生きて参りました。しかし、今この場における余は、ただの風見慎良であり、シンラ・バーンズにてございます。ゆえにこそ、目の前で自分の家族が正しくない過程を経て、正しいかどうか定かでない結論に至ろうとしている。……口を出すでしょう。出すに決まっておりまする。『本当にそれでいいのか?』と」
「…………」
シンラの返答に今度は親父が押し黙る。
俺も、ミフユも、ケントも、沈黙を重ねる親父に視線を注いでいた。
「そうか、そうだね。結論を出すにはまだ早いのかもしれないね」
「親父……」
「ごめんよ、アキラ。おまえに会えて、僕も少し焦ってしまったみたいだ。参ったなぁ、これだからおまえにも隙があるって言われるんだよな。情けない」
「いや、情けないとは思わねぇよ。申し出自体は、ありがたかったしな」
「そうだね。僕も、おまえは僕といるのが最善だと思っている。でも、美沙子の意見も必要だ。あんな女でも、おまえの母親だし。……話を、してきてくれるかい?」
「わかったよ。結果は見えてる気がするがね」
俺は、気軽に肩をすくめた。
あのお袋が、俺という存在を重荷に思っていないワケがない。
流されるだけの、誰かの支えがなきゃ生きていけない人間だが、シンラがいる。
こいつに支えてもらえば、俺といるよりもよっぽど楽に生きられるはずだ。
「シンラ。俺の話に横やりを入れてきた以上、今度こそ、お袋を押し付けるからな。かわされましたなんて言い訳はさせねぇぞ、覚えておけよ?」
「このシンラ、肝に銘じましょうぞ。父上」
下げられたシンラの頭を、俺は理由もなくペシンと叩いた。
そして俺達は宙船坂家を辞して、アパートへ帰った。お袋に話を通すため。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
親父が俺を引き取る。
それは、お袋にとっても悪い話ではないはずだった。
お袋にとって俺は重荷で、シンラの存在は救い。
あの女はそう思っているに違いないと、俺は高を括っていた。
俺がいなくなれば、平気でシンラにすり寄っていく。
別に俺はそれを邪魔したりはしない。
むしろ、後押ししてやってもいいくらいに思っていた。だから夜、話をした。
――だが、
「……ぃ、いや、です」
お袋の返答は、それだった。
「あ?」
予想外の答えを返された俺は、ついつい、声を低くしてしまう。
そして震えるお袋を見下ろして、言う。
「これから俺に百回殺されてみるか、おまえ」