第546話 信徒マリク・バーンズの答え:前
『堕転』。
それは異世界では大型台風や洪水、大地震と並び称される災害だ。
これを起こした神は、心身が反転することで『鬼神』と呼ばれる存在に変質する。
鬼神とは、神の暴走状態。正気を失った神のことだ。
『フフフフフフフ……! アハ、アハハハハハハハハハハハハハハハハッ!』
つまり、今のディ・ティのことだった。
『ああ、消えていく。私の中から、忌まわしい無力感が消えていくわ。代わりに力が満ちる。これが本当の私の力。命を司る、最上位の神の力なのね!』
恍惚とした表情で、天に向かって両手を突き上げ、ディ・ティが高らかに謳う。
全身から噴き出す力の奔流は、離れた場所にいるアキラ達にも伝わるほどだ。
「この圧、ディ・ティのヤツ……!」
「『中位神格』……? いや、これもしかして『大神格』レベルなんじゃ!?」
アキラとミフユは、ディ・ティの変化に驚きを禁じ得ない。
しかし、そこはさすがのアキラ・バーンズ、すぐに意識を切り返る。
「このままじゃロクなことにならねぇ! 止めろ、マガツラ!」
『VOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!』
具象化したマガツラが、空のディ・ティめがけて突撃しようとする。
ディ・ティはそちらを見もせず、軽く右手をかざした。
『――告げる。消えなさい』
ディ・ティの眼前まで迫っていたマガツラが、フッと煙のように消えた。
「何……ッ!?」
「ちょっと、アキラ……?」
ミフユに問われ、アキラは再びマガツラを具現化させようとする。
「……何だ、こりゃ! マガツラが出せねぇ!?」
アキラは想定外の事態に泡を食った表情を見せる。
空からそれを見下ろすディ・ティが、黒い鉤爪で彼を示した。
『無駄よ、アキラ・バーンズ。あなたが生きている限り、私の言葉には逆らえない。何故なら、私は神だから。命を司る、大いなる力を宿す神だから!』
「生命を意のままに操る力。それがあなたの『圏能』ですか、ディ・ティ」
場が騒然とする中で、マリク一人だけが冷静に今の状況を見極めようとしていた。
「『堕転』を起こし鬼神となった神は、自己の領域である『神域』を形成し、その内部で固有能力の『圏能』を行使することができる。ディ・ティ、あなたは――」
『フフフ、フフフフフフフフフ! そうよ、マリク。ここは私の『神域』。この中でなら、私はあなた達を思い通りにできるの。この『生命統帥』によってね!』
自慢げに自らの能力を語るディ・ティに、マリクは早々に確信した。
「そうですか、その力で、あなたはヒメノに人化の法の実行を命じるつもりですか」
『さすがに見抜いてくるわね、マリク。またまた正解よ』
余裕と優越に満ちたディ・ティの声に、うずくまっていたヒメノが顔を上げる。
『感謝なさい、ヒメノ・バーンズ。命の神たる私が、あなたの自殺願望を叶えてあげるのだから。だからもう、マリクを癒したいなんていう欺瞞は必要ないのよ』
「欺瞞……。違う、違います。わたくしの、願いは……」
『あなたの願いは『ヒメノ・バーンズの死』よ』
言い切られて、ヒメノの瞳にまた大粒の涙が浮かぶ。
何よりも兄を案じてきたつもりだった。そのために、自らを捧げるつもりだった。
だが、ヒメノは見てしまった。見せつけられた。
自分の中に潜むマリクへのぬぐいがたい罪悪感と、それに連なる自滅の衝動を。
「わたくしは、一体、何のために……ッ」
『大丈夫よ、ヒメノ。あなた一人が逝くわけではないわ。あなたの肉体を譲り受けたあとで、私も逝くから。だからヒメノ・バーンズ、あなたの体を私に頂戴?』
泣くヒメノ。笑うディ・ティ。
それを見せられ、絶叫するアキラとミフユ。
「ウチの娘を泣かしてんじゃねぇぞォォォォォォォ!」
「神様だからって、調子に乗るんじゃないわよォォォォォォォォォ!」
アキラはガルさんを右手に握り、ミフユはベリーを両手に掴んで飛翔する。
さらに、そこにルイが続こうとするも、先にディ・ティが命じた。
『――告げる。止まりなさい』
「なッ」
「か、体が……!?」
空中で、ビタッ、とアキラとミフユが制止する。
二人はそれぞれの得物を振り上げたポーズのまま、ゆっくり地面に落ちていった。
「これ、は……。体がいうことをきかない……?」
異面体を使おうとしたルイが、空を見上げる体勢のままで固まっている。
その近くでは、ヒメノに駆け寄ろうとしたユユが、同じく体を硬直させている。
「クソッ、動け、動けェ! 動けよ、俺の体ァ!」
「参ったわね。ここまでの強制力があるなんて。まるで異能態だわ……」
必死になりながら微動だにしないアキラを見て、ミフユが絶望のため息を見せる。
『当然よ。ここは私の領域。私が許可しない限り、あなた達はもう指一本動かすことはできないわ。まぁ、呼吸と発声くらいは許してあげるけど』
ディ・ティの態度ににじむ、絶対の自信と勝利の確信。
この『神域』の中では生きとし生けるものは全て彼女の管理下に置かれてしまう。
『さぁ、ヒメノ。始めましょう。あなたの宿願が成就されるときが来たのよ』
「ぃ、いや、いやです……、わたくしは……」
『拒んでもいいわ。どうせ私には逆らえないから。今からあなたは私を人にするの』
ディ・ティが右手の鉤爪でヒメノを示し、人化の法を命じようとする。
指示が下されたが最後、ヒメノ・バーンズは自らの命を神の人化に捧げるのだ。
『――告げる。ヒメノ・バーンズ、私を』
「ぼくの妹をいじめるのはやめてください、ディ・ティ」
指示が下される寸前、朗とした声がディ・ティの声を遮った。
彼女が何かと思って声のした方を見てみれば、そこには前に踏み出すマリクの姿。
『マリク、どうして……』
「ぼくはあなたの司祭ですよ、我が神ディディム・ティティル。他の連中とは違います。あなたとの繋がりを持つぼくだけは、あなたの『圏能』に抵抗できる」
そう言って自分に歩み寄ろうとするマリクに、ディ・ティは驚かされた。
しかし、その歩みも随分と遅い。
全身に力を入れて何とか歩いているのがわかり、彼女はすぐに目を細めて笑う。
『ギリギリ抵抗できているだけのようね、我が信徒マリク』
「ええ、でもこれだけ近づければ十分ですよ。我が神」
マリクは笑うディ・ティをキッと見上げ、そのまなざしに力を込める。
「ディ・ティ、あなたには言いたいことがある」
『あら、何かしら? 神の慈悲よ、聞いてあげるわ、我が信徒マリク』
これ以上なく真剣な様子のマリクを、ディ・ティは上からせせら笑う。
彼は何を言うつもりだろう。
そんな他愛のない興味に、ひどく心が浮き立っている。
今の自分は尋常ではない。
それを自覚しながらも、溜め込んだものを解き放つ快感には逆らえそうにない。
しかし、ディ・ティにはまだいくばくかの理性が残されていた。
彼女の『堕転』が『神骸石』による人為的なものであることが原因だった。
完全に鬼神になり切っていないディ・ティは、それゆえにマリクの言葉を待つ。
彼女はそれを正面から嘲笑し、否定し、踏みにじるつもりだった。
どうせマリクに出来ることなど、精々自分への控えめな諫言くらいなものだ。
妹をもてあそばれたことへの兄としての怒りも。
自分の信仰が裏切られたことへの信徒としての恨みも。
マリクという人間の底に根付いている、マリク・バーンズとしての『憎悪』も。
ディ・ティには向けられない。
マリクはそれを自分の神に向けることはしない。
何故なら、マリクは敬虔なるディディム・ティティルの信徒だからだ。
その内心に何を抱こうと、彼は神を畏れ、神を敬い、信仰に決して逆らわない。
だからこそ、神自らがそれを否定してやろうと思ったのだ。
否定して、バカにして、コケにして、鼻で笑って見下して、舌を出してやろうと。
半ば鬼神と化して終わりのない高揚感の中で、ディ・ティはそう画策する。
そして、マリクがディ・ティへ告げる。
「好きだよ、ディ・ティ」
それはマリクからディ・ティへの、愛の告白だった。




