第536話 対話篇:クラマ・アヴォルト/起
ルイってヤツの様子が尋常じゃない。
全身にまとう黒い霧みたいなのはあいつの異面体だとわかるが、それにしても。
「キシシシシシシシシシシシシ、こりゃあ、やられちゃってますねぇ~!」
俺の近くで空を見上げていたアオが、そんなことを言う。
「ルイか?」
「ええ、ええ、そうでございますよぉ~。あの方、蛾翁にやられちゃってますねぇ」
「……『憎悪の増幅』か」
人の中にある『憎悪』を増幅するのが高天蛾翁の能力だ。
ルイがそれにハマッたってことなんだろうが、あいつ、マリクしか見てねぇぞ。
「だが、マリクに対する『憎悪』、だと……?」
口に出してみると、それはなかなかの違和感だった。
高橋家にで見たルイは、マリクに対して強い畏敬と尊敬の念を抱いていた。
短い間ではあったが、あいつがどれだけマリクを敬っているかは伝わってきた。
それが『憎悪』、ねぇ……。
「ああ、ふん、なるほどね」
なるほどなるほど、要するに、可愛さ余って憎さ百倍、と。
抑え込んでか無自覚だったのか、どうあれソレは元からあったモノなんだろう。
そこを蛾翁につけこまれた、と。
まぁ、アレだな。マリクも難儀なヤツを弟子にしちまったモンだ。
「ルイ……!」
後方から半ば当事者であるマリクの声が聞こえる。
「おぉ~っと、ダメだぜ。マリクちゃんはそこに座って俺ちゃんとお話よぉ~」
だがそれをクラマが制し、その場に押し留める。
「しかし、クラマ師……」
「ダメよ~、マリクちゃんは自分の目的を忘れなさんなって~」
ヘラヘラ笑うクラマを見て、俺は悟る。
あいつ、この状況になるのを見越してやがったな。蛾翁とルイは俺が担当か。
別にそれは構わねぇけど、う~む。
俺は近くに降り立った二人を見やり、その様子を確かめて軽く唸った。
「ガルさん、どう思うよ」
『うむ。厳しいやもしれんなぁ、こいつは』
ガルさんも、どうやら俺と同じ意見のようだった。
俺が見ているのが蛾翁ではなくルイの方。
全身に異面体らしき黒いモヤを纏うあの女から放たれる、異様なまでの圧力。
俺の全細胞を突きさしてくるようなこの暴威には憶えがある。
「ジジイの方からやっちまうか?」
『細い糸ではあるが、それしかあるまいよ』
蛾翁さえ潰しちまえば、ルイは正気に戻るだろう。
だが、果たしてそこまでの時間が今の俺の側にあるかどうか。そこが問題。
ルイの顔を見る。
敬ってやまないマリクにジッと視線を固定したまま、微動だにしない。
俺にはそれが、起爆直前の爆発物にしか見えなかった。
マガツラとガルさんを駆使してなお、おそらくは俺の手に余る。手が足りない。
さっきまでキシシシ笑ってたヒョロ長も、いつの間にかいなくなっていた。
ギオのヤツ、絶対にこの状況を見て楽しんでやがるな。
アオがいなくなったのは、俺達に対するこれ以上の助力は無用と判断したからだ。
俺達をこのマガハラに招いた時点で、義理は果たしたってところか。
この場には俺がいて、さらにクラマもいる。
ならば、この程度の苦難は乗り越えられて当たり前。
そんなギオからのイヤすぎる無欠の信頼を感じる。
あいつ、次に会ったらマガツラでブン殴るわ。
が、とにかく今はギオよりも目の前に立っている憎悪ジジイとマリクの弟子だ。
「チッ、任されはしたが、こいつはなかなかしんどいな」
「…………しんどいらしい」
「ほっほぉ~、ととさまが弱音吐くとか、こいつは珍しいのぉ~」
「仕方ねぇだろうが。俺一人じゃちぃとばかりキツそうな相手なんだよ」
「…………ジジイが?」
「いやいや、見てわかれ、愚弟。そっちじゃなくてあっちの女の方じゃろ」
「…………うっさい、愚妹。ボクだってわかってたし。可能性の話だし」
「ハハァ~ン? 本当かの~? 本当かの~~~~?」
「…………ホントだし」
「――って、待てや。おまえら」
「何じゃ?」
「…………何?」
「それはこっちのセリフと疑問のワンセットだよ!?」
いつの間に現れやがった、金鐘崎家のいとこにしてウチの五男六女。
「どっから湧いて出た、おまえら?」
「何かの~、アオとかいうヒョロ長いのに案内されてな?」
「…………ついてきたら、ここに来た」
そういう怪しい連中にホイホイついていくんじゃありません!
アオなんて怪しさしかないでしょ。見た目からして『怪しい』の擬人化でしょ!
「いや待て、それ以前に、おまえらは何でマガハラにいるんだよ?」
「…………依頼の受注」
と、ジンギ。
「新しい企画考えとって、煮詰まったから愚弟についてきたんじゃ~」
と、カリン。
なるほど、実にこいつららしい理由ではある。と、同時に、
「運がないなぁ、おまえら」
「あ~、そうじゃよね~。そういう扱いになるじゃろね~、今のワシら」
「…………特別イベント。喜べ、愚妹」
「喜べるか、愚弟。いくら何でも、ありゃあ刺激が強すぎるわ」
ジンギとカリンが俺に並んでルイを見据える。
周りに漂う強烈な圧を、二人も感じていることだろう。俺と同じように。
「ととさまよ」
「おう、何だよ、カリン」
「一応の確認じゃが、あのおなご、もしかしてアレにコレしてたりするのかの?」
「そうだな、アレにコレしてたりするみたいだぜ」
「うべぁ……」
カリンの愉快なうめきを耳にしつつ、俺はひとときもルイから視線を外さない。
やがて、呟きが聞こえてくる。
「――何故、です。師よ、あなたは何故。何故。……ならば、私が」
圧が増す。
そして、ルイの全身を包む黒いモヤがさらに体積を増し、もはや霧のようだ。
「…………来る」
ジンギの声と同時、黒いモヤを巻き込んで、ルイの足元に不可視の力が渦を巻く。
「やっぱり『真念』に到達しておった~!?」
両頬に手を当ててカリンがわめき立てる。
そうだよな、正月の一件でおまえらもしっかり味わってるモンな、この感覚!
ルイの全身から溢れるモヤはもはやモヤではなくなっていた。
それは天へと立ち上り、灰色の空を完全な黒雲で覆い尽くして蓋をしてしまう。
ポツポツと、降り出すのは黒い雨。
それは、この灰色の世界を新たな黒で塗り潰さんとしているかのようだ。
「何故、何故そこまで迷うのです、師よ。あなたに、そのような弱さはなかったはずです。なのに何故、どうして、迷うのですか。そのような迷いは不要です。師よ。マリク師……。私が、それを師に示して差し上げます。師よ、迷うことなかれ。私がおります。師よ、マリク師、この私が、あなたの迷いを祓って差し上げますから」
ブツブツと、ルイは独り言にしては大きな声で語り続ける。
美しい全身を黒い濡れ羽で覆い尽くした人型の鴉が、巨大な翼を限界まで広げた。
「異能態――『鴉境挫咎螺霧』」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
目まぐるしく周囲の状況が変化する中、マリクはまるで心を束ねられずにいた。
ルイを追えばいいのか。
蛾翁に怒ればいいのか。
アキラに協力するべきか。
いきなり現れたカリンとジンギに驚くべきなのか。
意識はいくつにも分断され、どこにも焦点を絞れず、流転する状況に翻弄される。
その様を前にして、クラマはにっこりと笑う。
「喝」
優しい物言いと共に、彼はマリクの額を人差し指でコツンと突いた。
「ぁ……」
漏れる、短い声。
その瞬間、マリクは自我の焦点の己の師へと絞ることができた。
「クラマ師」
「今は、お話の時間だろう、マリクちゃん?」
「ですが――」
「自分の親父が信じられないのかい? あの『勇者にして魔王』をよ?」
「そんなはすがありません。お父さんは最恐ですよ」
「強い、じゃなくて恐いな辺り、マリクちゃんの団長ちゃんへの歪みない歪んだ信頼を感じちゃうよねぇ~、フヘヘヘヘヘヘヘ」
マリクが込めた細かい過ぎるニュアンスの違いまで読み取るクラマだった。
「さぁ、お話しようぜぇ。そのためにこんな異空間くんだりまで来たんしょ?」
「そうです。その通りです、だけどぼくは……」
言いかけて、言葉が途切れる。
その一瞬、マリクの脳裏にはこれまで対話した二人の言葉がよみがえった。
『あの三日間は、私が自らの人生と向き合い、己の罪を直視し、ずっと目を逸らし続けて来た私自身の真実を思い知るための時間でした』
己自身の真実。
そう、キリオは語った。
『君は、誰のために何をしようとしてるのかな?』
誰のために、何をしようと。
それは、最後に集から投げかけられた問いだった。
「……わからないんです。いくら考えても、何も見えないんです」
マリクは俯き、喉の奥から苦しげに声を絞り出した。
「ぼくの中には依然として『ぼくは消えるべきだ』という結論が鎮座しています。それは、ぼくが考えた末に出した結論でした。それは変わることはありません。今も」
己の中にある『憎悪』を解き放ち、真念に至ったとき、マリクは消える。
何故なら、彼がこの世で最も憎むのが、自分自身だからだ。
そしてそれを、彼自身は許容する。何なら本望ですらあった。――はずだった。
次の一言で、クラマが指摘する。
「消え去れない」
「…………」
踏みしめる血だまりを見据えたまま無言を返すマリクに、クラマは笑った。
「わかっちまってるようだねぇ、マリクちゃん。そうさ、その通りよ。今のおまえさんがどうやったところで、おまえさんは亡却できないよ。今のままである限り」
ずっと抱いていた懸念を、クラマは当然のように見透かし、そして肯定する。
「今まで何度か到達できる機会はあったんだろうけどねぇ、今は無理さ。今のマリクちゃんじゃあ、ソレを掴むことは不可能だと、俺ちゃんが断言してやるよぉ~」
強い迷いを抱えた今のままでは、マリクは完全な形で真念に到達できない。
自らへの『憎悪』によって、自らを消し去ることができない。
いや、それだけならまだいい。
本懐を果たせないとはいえ、それ以上のことは起こらない。
しかし、もしも自分が不完全な形で『鬼形の真念』に飲み込まれてしまったら。
脳裏に浮かぶのは『邪業凶骨』と、自分を庇って傷ついたユユの姿だった。
「ぼくは本物の『憎悪の怪物』になってしまうかもしれない……」
「だとしたら、どうするね?」
独り言だったのに、クラマに問われてしまった。
マリクにとってクラマは未だ師であり、己の人生に多大なる影響を与えた存在だ。
ゆえに、マリクの中に期待が生まれてしまう。
自分には見えない何かが、この人の目には映っているのかもしれない。
「クラマ師、ぼくは――」
その考えが愚昧に尽きることを自覚しながら、マリクはきかずにいられなかった。
「ぼくは、どうすれば消えることができますか?」
紡がれたその愚問に対し、クラマは顔から笑みを消す。
答えは短く、一言。
「知らんさ」
黒い雨が、勢いを増してきた。




