第531.5話 逃れられないもの
瞑想。
外界との接続を断ち、己の世界に入り込む行。
それは、エクササイズの一つとして取り上げられたりもする。
実際、リラックス目的で行うことで、効果が表れることも実証されている。
だが、本来の瞑想とはそんなものではない。
瞑想とは、己への没入。自身の深層への潜行であり、自分を直接探求する行為だ。
まぶたを閉じて、思考を止める。
ただそれのみで行なわれる、最も古い修行法の一つだった。
古今東西はおろか、日本と異世界、そのどちらにも瞑想行は存在する。
今、ルイ・ヴァレンンツァがそれを行なおうとしている。
高橋家の一室を異階化させ、その真ん中に彼女は立つ。
余計な情報を何も取り込まないよう、ルイはいつも座ることなく瞑想に臨む。
元々は彼女は迷走を座って行っていた。
しかし、師であるマリクはいつも立ったまま瞑想に臨んでいた。
そうしたまま二日三日、飲まず食わずで睡眠もせずにマリクは瞑想を続けた。
一般的な感性をはるかに超えたところにある彼の姿に、ルイは強く憧れたものだ。
それ以来、ルイも立ったまま瞑想を行なうようになった。
彼女がマリクに弟子入りして、まだ間もない頃の話だ。
「……マリク師」
己の師を想いながら、ルイは瞑想に入る。
一度、祈りのために手を合わせ、すぐにそれを解いて両手を下げる。
目を閉じて立ち尽くす姿は自然体。
ただ、立っている。それでいい。それだけでいい。
視界は闇に閉ざされて、音はなく、だからこそ思考が鮮明になっていく。
少しすると、自分が呼吸する音が内側から聞こえてくる。
無音の世界では、普段聞き取れないくらいの小さな音がやけに大きく響く。
聞こえた呼吸音はそれ以上大きくならないが、代わりに鮮やかさを増していく。
息を吸う音、吐く音。
どれだけ呼吸を小さくしようとも、それは途切れることはない。
異世界で、マリクはその音を『生命の音』と表現した。
生きているからこそ奏でられる音。生きている限り、ずっとそこにある音。と。
呼吸音はさらに鮮やかさを増して、今度はそこに他の音が混じり始める。
それは、筋肉が軋む音、骨が擦れる音、内臓が駆動する音、全てが己の内の音。
部屋は無音。自分の中は騒がしい。
これらの音は、意識が己の内側にしっかりと向きつつあることの証だ。
やがて、今度は自分の内側に聞こえる音が少しずつ遠ざかっていく。
そしてルイの意識は肉体を離れ、自らの精神、心の海の底に向かって潜り始める。
これが、マリクより授けられた瞑想行。
己の内的世界へと入り込み、その景色を探ることで己の真実を露わにする。
そのために、深く、深く、己の中に潜り込んでいく。
自分が何者かを知るために、ルイは、自分の内側へと潜っていく。
すると、水底より泡が浮かび上がるように、頭の中に一つの景色が思い浮かぶ。
それは今日あったばかりのこと。
高橋摩碕のマンションで自分が『出戻り』を果たしたときの記憶だった。
ルイ・ヴァレンツァ――、我妻涙は大企業の社長令嬢としてこの世に生まれた。
令和の時代にあって、我妻家はしっかりと富裕層に位置していた。
涙は生まれてから大学を出るまで、何一つ不自由なく育った。
家族に恵まれ、才覚に恵まれ、容姿に恵まれ、環境に恵まれて、全てに恵まれた。
幼稚園から大学まで、全て『一流』と呼ばれるところに通い続けた。
そうして出来上がったのは、深い教養と優れた美貌を持った、ただの小娘だった。
若く、美しく、高い能力と鋭い感性を持ち、自信に満ち溢れた、普通の女。
我妻涙であった頃は、そんなことは思わなかった。
自分こそは世界のヒロインで、大きな物語の主人公で、そして世界で一番の天才。
そんな大それた考えを、彼女は当たり前のように自らの内に宿していた。
単なる自意識過剰。ただの誇大妄想。社会経験のない、現実を知らぬ小娘の戯言。
彼女の周りの人間は、涙の言葉に対して裏でそのように陰口を叩いた。
しかし、残念ながら涙には能力があった。
彼女は傲慢な性格ではあったが、決して怠惰ではなかった。
自己研鑽は怠らなかったし、自らがヒロインであるという認識も、それで培った。
事実、大学を卒業して社会に出ても、彼女の自信が揺らぐことはなかった。
就職した企業では実績を上げ、若くして昇進していった。
その分、やっかみも多くなったが、所詮は弱者の遠吠えと歯牙にもかけなかった。
連なり重なる成功体験は、涙の中にある自信をどこまでも膨れ上がらせた。
それは当然のようにうぬぼれとなって、我妻涙は自らを神のように考え始めた。
自分にできないことはない。望めば、何にでも手が届く。
例え立場が上の相手でも、その能力は自分より低いに決まっている。などと。
そうした傲慢な考えが自らの底にベッタリ沁みついた頃、高橋摩碕と出会った。
彼は、涙が初めて出会った、彼女に匹敵する能力の持ち主だった。
妻子ある身ながら女遊びを繰り返すなど、素行には問題が見られた。
しかし、涙はそれを問題とはみなさなかった。
何故なら、自分も同じだからだ。
摩碕と出会ったとき、我妻涙も何人もの男を相手にして、派手に遊んでいた。
金があり、肩書があり、能力があって、容姿も優れていた。
だったら何をはばかるものがるだろうか。自分には『遊ぶ権利』があるのだ。
自らの劣る者達をおもちゃにして遊ぶ権利が。
だから、男と遊んでいてもそれは本当に『遊び』でしかない。
恋愛? 何それ?
遊びに名前をつけるなんてどうかしてるわ。
そもそも、愛だって恋だって、人間相手にするものでしょう。
自分より劣ってる動物を相手に恋愛なんてできるワケがないと、涙は考えていた。
だが、高橋摩碕であれば話は別だ。
自分に並ぶほどの能力を持つ彼ならば、遊びではない恋愛をしてやってもいい。
それに、我妻涙には一つ、興味を覚えていることがあった。
母親とは、どういったものなのだろうか。
涙の母親は、とても優しい人だった。優しく、そして頭が悪い愚か者だった。
低能なクセに、それでも母に愛されることは、涙にとって幸福の一つだった。
それ以来、涙はひそかに興味を覚えていた。
親になること。母になること。子供を育てるということ。
体験のしたことのないそれを実現するため、摩碕に協力してもらうことにした。
結果、彼女と彼は己の愚かさから高橋弥代に刺されることとなった。
そうして、涙はルイとなり、この世界に『出戻り』した。
瞑想による自己への潜行の中で思い返した、我妻涙のこれまでの人生。
ルイは思う。
何と愚鈍。何と蒙昧。何たる不明。何たる増上慢。
井の中の蛙も、ここまでくれば失笑を買うことさえできない。
それほどまでの、他者を見知らぬゴミクズがごとき道化の有様ではないか。
その醜さは、まとめられて一束となったルイの意識が、羞恥に乱れかけるほどで。
ルイは一度呼吸を深くして、意識を束ね直して再び自らの不覚を探る。
我妻涙はバカだった。
頭が悪いたぐいのバカではなく、つけあがることしかしない、より悪いバカ。
人を知らず、己を知らず、それなのに、人を知り、己を知った気になっていた。
バカにつける薬がないとはまさにこのこと。実に恥ずかしい人間だった。
だが、それもまた自分であることは認めねばならない。
自分を探るルイの意識に、今度は異世界で生きていた頃の記憶がよみがえる。
異世界を生きたルイ・ヴァレンツァも、我妻涙とそう変わりはしなかった。
彼女は強さと美貌を兼ね備え、自らに絶対の自信を持っていた。
違ったのは、出自。
ルイ・ヴァレンツァは寒村の出身で、しかも戦災孤児だった。
故郷の村は大きな戦争に巻き込まれて全滅し、ルイはそこから一人で生き続けた。
魔法の才を持って生まれた彼女は、独学で魔法を磨き、一匹狼の傭兵となった。
数多の戦場を生き抜いた彼女は、己の強さに絶対の自信を持つようになった。
強さは絶対の価値であり、強い者こそが尊い。それが当時のルイの価値観だった。
強い者は美しく、美しい者は尊く、ならば強い者こそが尊い。
彼女は本気でそう考え、そしてその尊き者に自分自身を当てはめていた。
結局、良家の令嬢に生まれても、一匹狼の傭兵になっても、彼女は傲慢だった。
ただルイ・ヴァレンツァは、我妻涙に比べてまだマシだった。
彼女自身が、己の中にある傲慢さに気づいていたからだ。
生きた世界の差異が、彼女に自分自身の大きな欠点を気づかせたのだ。
戦いしかないこの世界ではその傲慢さは命取りになる。
地頭がよかったルイは、それに気づけた。
だが、気づけただけだった。
ルイ・ヴァレンツァは己の中の『傲慢』を振り払うことができなかった。
常に他者と自分とを比較して、自らが優れていることを誇り、他者を蔑んだ。
それが悪であると知りながらも、彼女はうぬぼれから脱することができなかった。
自分は強い。
自分は優れている。
その認識が、いつまでも意識の底にへばりついていた。
きっとそれは、自力では逃れ得ない生まれ持ったサガのようなものなのだろう。
ルイ・ヴァレンンツァは己の中の『傲慢』に打ち克つことはできなかった。
そして、マリクに救われた。
彼女にとって運命となるあの日、仲間の傭兵に裏切られ、彼女は死にかけた。
戦場全てが彼女の敵となって、さすがのルイも抗いきれずに死を待つのみとなった
そこにマリク・バーンズは現れた。
戦場は、マリクのブチギレによって消し飛ばされ、ルイだけが生き残った。
バーンズ家の噂はルイも知っていた。
しかし、活動する地域が離れていたこともあり、あまり気にしたことはなかった。
だが初めて遭遇したバーンズ家の、そしてマリクの実力に彼女は驚愕した。
今まで抱いていた『自分こそが最高である』という価値観が、粉々にされた。
そして、ルイはマリクのもとに押しかけた。
何とか弟子となり、以降、異世界ではずっとマリクの近くにいた。
彼ならば――、マリクならば、きっと教えてくれる。
自分の中にある、自分ではどうしようもない『醜いもの』に克つための方法を。
そう考えたルイはマリクのもとで修行に励み、やがて賢明教団を設立した。
それは、マリクの修行を邪魔しないための方策で、だが、最終的には瓦解した。
賢明教団に属した多くが、マリクを神のように扱った。
人は神を敬い、神は人を救う。
それが異世界での人と神との関係性。だが信徒達は、そこにマリクを当てはめた。
彼らはマリクを己の神と定めた。そして、そこに勝手に偶像を作り上げた。
そんなものを、どうして信仰と呼べるだろうか。マリクは神ではない。人なのだ。
そう思うルイであったが、彼女も気づいていなかった。
マリクに人としての理想を見出したルイも、突き詰めれば他の信徒と変わらない。
己の中に築いた偶像を、マリクに押し付けている。
彼がどれだけ苦しもうとも、最後は必ずそれを克服できるのだ。と。
あるいは、この瞑想の中で彼女はそこに意識を及ぼせたかもしれない。
だが、その機会は失われることとなる。
深く、深く、自己の内へと潜り続ける彼女の耳に、ふと、濁った声が届いたから。
「――お主、マリク・バーンズが憎くはないかね?」
やっと束ね直したルイの意識が、その瞬間、千々に乱れた。




