第524話 一日限りの巡礼の旅へ
俺がやったことは簡単だ。
異能態『兇貌刹羅』の能力により、マリクの『状態』を焼いた。
焼き尽くしたのはきっかり二十四時間。
今のマリクは、心身の『状態』だけ一日前のものに戻っている。
「何があったかは覚えてるな、マリク?」
「はい。ありがとうございます、お手数おかけしました」
「いいってことよ」
硬い表情のまま礼を言ってくるマリクに、俺はニッと笑いかける。
やはり『記憶』に損傷はない。
存在を焼く『亡却業火』だが、こういう使い方もできるのさ。
「覚えています。ぼくに何があったのか。何をしたのか。どうなったのか」
マリクはここで起きた全てを覚えている。
だが『鬼形の真念』は姿を見せない。心身と記憶の連動が壊れたからだ。
俺はマリクのここ二十四時間の『状態』を焼き尽くした。
そこには、この二十四時間に感じた『実感』や『経験』などが含まれている。
今のこいつには、自分が起きた出来事が記憶ではなく記録として感じられている。
だから『鬼形の真念』が力の渦を起こすこともなく、平静としていられる。
――ただし、時間制限付きではあるが。
自然の帰結として、連動を絶たれた心身と記憶はそれを取り戻そうとする。
連動が戻ったとき、マリクは焼かれて消えた『経験』を再び味わうことになる。
母親の弥代を殺すに至った怒りや、ディ・ティが見えなくなったときの衝撃を。
そうなったら、マリクは確実に『憎悪』に囚われることになる。
今までの俺の経験則からして、心身と記憶の連動が戻るまで、およそ二十四時間。
俺が焼いたのと同じくらいの時間をかけて、それは徐々に復帰してゆく。
「マリク、ディ・ティは見えるか?」
一番大事なことを、俺は確認する。
マリクは周りに一通り目線を巡らせて、ただでさえ硬い表情をさらに厳しくする。
「……いえ」
短いその一声を出すのも、辛そうだった。
だが、マリクには酷なことだが、これは俺の予想通りではあった。
マリクがディ・ティを認識できなくなったのは、マリク自身がそう望んだからだ。
そしてそれは肉体より、精神より、さらにもっと深い場所が望んだこと。
あのとき、マリクは魂のレベルでディ・ティに見られることを拒んだ。
そこに生じた変質は、心身を焼いただけでは戻らないほどに深刻なものだった。
『マリクゥ……』
「ディ・ティ様……」
だが、見えていないはずなのにマリクはディ・ティの方を向く。
泣きそうになっている自分の祭神にして妻を、ジッと見据えているようにも映る。
『ねぇ、私のことが見えないの? 私の声は聞こえていないの?』
「申し訳ありません、ディ・ティ様。今のぼくにはあなたを感じることができない」
マリクの言葉は、ディ・ティに対する返答とも思えるものだった。
しかし、マリクはやはり見えていない。
顔はディ・ティの方を向いているが、目線がわずかながらズレている。
そのズレが、逆にディ・ティを見れていないことを俺に感じさせた。
「だけどこのままにはしません。ぼくは……」
『うん。待っているわ、マリク』
二人の会話はそれで終わり、マリクは向き直る。
短いやり取りでしかなかった。だが、今でも二人は通じ合っていることがわかる。
さて、それでは本題だ。
「お兄ちゃん……」
「マリク師……」
「ヒメノも、ルイも」
部屋を漂う空気が、マリクの声によって一気に引き締まる。
ヒメノとルイは言いつけられた通りにマリクと一定の距離を置いているが、さて。
「ヒメノ」
マリクが、まずはヒメノへ呼びかける。
「おまえがぼくを案じてくれていることはわかったよ。感情を抜きにして考えれば、 ぼくが今のぼくになった原因の一端はおまえが担っている。それは確かだと思う」
「お兄ちゃん……」
「おまえがディ・ティ様を人にしようと思ったのも、突き詰めればぼくがディ・ティ様との関係を曖昧なままにし続けたことに起因してる。それはぼくがどうにかしなきゃいけないことだったのに、おまえに押し付ける形になってしまった。すまない」
「そんな、お兄ちゃんが謝ることなんて、何も……!」
ヒメノはその目をうるませて激しくかぶりを振る。
双子の兄の根治を目指すヒメノからすれば、今の言葉は相当響くだろうな。
「ルイ」
次に、マリクはルイへ呼びかけた。
「おまえがぼくを信じてくれていることは伝わったよ。『己の深淵を覗け、己に光明を灯せ』。ぼくがおまえに教えたことを、おまえはずっと守り続けてくれたんだな」
「マリク師、当然ではありませんか……」
「誰かに信じてもらえるのは、それだけで力になる。誰かに『頑張れ』と言ってもらって背中を押されるのは、それだけでやる気が湧く。信じてもらえたという事実はときとして大きな力を生むきっかけにもなる。それは0を1にできる力だ」
「ああ、マリク師、そのようなお言葉をいただけるだなんて……」
ルイは、マリクの言葉に打ち震えている。
二人の間には、ヒメノやディ・ティとはまた別の形の絆があるんだろうな。
そして、二人へ言葉を贈ったのち、マリクは一度深く息を吸い込んだ。
眼鏡の奥にある瞳が、鋭いものに変わる。
「ぼくは、今は答えを出せない」
告げられた結論は、それだった。
「ヒメノの提案した人化の法でディ・ティ様を人間に変えたとして、そうなったらぼくもさすがにあの方のことを見ることはできるようになると思う。そして、それをきっかけとしてぼくは己の業を拭える可能性は十分にある」
「そうですわ、お兄ちゃん。人化の法こそがお兄ちゃんを救う唯一の――」
「だけど、それはヒメノを犠牲にすることを前提とした手段だ。ヒメノが自ら望んでいることだとしても、ぼくがそれを今すぐに容認するのは無理だよ」
一瞬笑みを浮かべるヒメノだったが、速攻で否定されて表情が凍てつく。
マリクがおまえの犠牲を許すはずないだろうに。
仮に許すとしても、他に手段がなくなったときの、最後の最後の一手としてだ。
「ルイ。おまえはぼくを信じてくれた。おまえの言う通り、ディ・ティ様やヒメノを遠ざけた上で身一つで自分の業を向き合えば、ぼく自身がおまえに授けた教えの通りに、己の深淵を心の光明で照らし出し、それに克てるのかもしれない」
「そうです、師よ。あなたならばこそ、それが可能――」
「でもね、それは結局、ぼくに何もかもを捨てろと言っているに等しいんだ。ヒメノを捨て、ディ・ティ様を捨て、それでぼくが己の業に打ち克ったとして、果たして何が残るのだろう。ただの人間でしかないぼくには、それはあまりに重い決断だ」
叫ぶのではなく、命じるのではなく、淡々としながらも優しい物言い。
それをされたルイは、完全に勢いを削がれて「それは……」と言い淀んでしまう。
ルイはマリクを信じている。その信仰心は尊いものではある。
だが、信じているがゆえルイがマリクに要求するハードルが青天井になっている。
そのことは、ルイ自身も自覚があるようだった。
「ヒメノの提案も、ルイの信頼も、ぼくにとっては己の業を乗り越えるための希望となりうる可能性がある。でも、どちらもそのための代償が大きすぎるんだ。だからこの場で答えを出すことはできない。これは、ぼくだけの問題じゃないから」
マリクが視線を向けた先には、ディ・ティがいた。
しかし、二人は一直線上には結ばれておらず、そこにはわずかながらズレがある。
やはり、マリクにはディ・ティは見えていない。
それでも何かを感じて、マリクはそちらを向いたってことか。
思うよ。
やっぱマリクも、バーンズ家の人間だ。
「今のぼくにできることは、時間が許す限り考え続けることだけだ。考えて、考えて、考え抜いて、自分の中に答えを見出す。それしかできることはない」
「具体的には、どうするんだ。マリク」
勝手にこの場を代表し、俺からマリクへそれを問う。
するとマリクは、迷いのない目で返す。
「ぼくが知りたいことを知っている方々と対話するために、巡礼の旅に出ます」
「巡礼の旅、ね……」
宗教家らしいというか、マリクらしい言い方だ。実に。
「ぼくは必ず、二十四時間のうちに答えを出します。そして、ここに戻ってきます」
「道連れはいるか? いるよね? あ、いる? OK! じゃ、けってーで!」
「うぇ!?」
何が「うぇ!?」だよ、バカ。
今のマリクを一人にしておけるワケないだろって話でございまして。
「ミフユ、おまえはヒメノの方な。ルイは、何かこう、いい感じで!」
「テキトーねぇ、あんた。ま、わかってたけど」
俺はマリクへと、ミフユがヒメノの方へと歩いていく。
ルイのことはよく知らんけど、子供じゃないし、一人にしても大丈夫だろ!
『アキラ・バーンズ……』
「ディ・ティ。ちょいとマリクを借りていくぜ」
『ええ、待っているわ』
本当はひとときでも離れたくないクセに、そこで我慢できるのは大したモンさ。
「あの、私もついていったら、ダメですか……?」
と、ここでルイ同様半モブ化していたユユが、マリクに同道を申し出る。
「ユユさん……」
「私、知りたいんです。マリク様が、どんな答えを出すのか」
そう語るユユに、マリクはしばし考え込む。
こちらをチラリと見てくるが、いや、俺に振るな。おまえが決めろや!
「……わかったよ。ユユさんも一緒に来るといいよ」
「ありがとうございます、マリク様!」
ユユは嬉しそうにはしゃいでいる。
そういえば俺は、この『未来の出戻り』についてほとんど知らないんだよなぁ。
だいぶマリクに気を許してるみたいだけど、何が目的やら。
「では、行きます」
「もうか?」
「はい。いつ、また『鬼形の真念』がぼくの肩を掴むかわからないので」
ああ、そりゃそうだな。
心身と記憶の連動は絶ったが、依然、マリクの中には『憎悪』が燻っている。
今のマリクは、少しでも心を揺らせばそれが噴き出しかねない状態にある。
この場を離れることはそれを防ぐのに有効な手段ではある。
もはや、誰も何も言わない。
マリクに道を示したヒメノとルイは、共にマリクを見つめている。
ディ・ティは、ランタンの中に引っ込んだ。
そこで、マリクが帰ってくるのを待つつもりなんだろう。
ヒメノの隣にはミフユがいて、シュロの姿はもうない。
そして――、何か部屋の隅っこにオッサンが立ってるんだが、マリクの父親か。
そういえばルイの異面体の影響で判断能力を奪われてるんだっけ。
すげぇな、まばたきしない人間ってマネキンみたいで生気が感じられないんだな。
ま、こいつはどうでもいいか。
俺は、歩き出したマリクのあとについて、ユユと共に高橋家を後にする。
「行ってきます」
最後にマリクがそう言って、一日限りの巡礼の旅は始まった。




