第522話 神の骸と人化の法
部屋の中が、静まり返る。
だがそれはただの静寂ではなく、沈黙。誰も、何も言えずにいた。
ヒメノの懇願に、嘘はない。
それは、俺もミフユも認めるしかなく、だからこそ、どう反応すればいいか迷う。
『……ヒメノ』
だが、ヒメノに人になることを願われたディ・ティだけは違っていた。
『神を人にする。その願いがどれだけ不遜なものか、あなたはわかっているの?』
「もちろんですわ、ディ・ティ様」
ヒメノはうなずく。
そんなのは大したことではないといわんばかりに。
「ですが、ここは異世界ではなく日本です。そしてこの地に神はなく、ディ・ティ様は本来ありえざる異物であることもまた、わたくしは承知しておりますわ」
『ヒメノ……』
サラっととんでもないことを言い出すヒメノに、ディ・ティが瞳を見開く。
しかし、残念ながらウチの娘の言っていることは一理ある。
日本に神は実在しない。
少なくとも、今の時点でその実在が証明された事例は一つもない。
俺達はディ・ティやカディルグナなど、本物の神がいることを知っている。
しかしそれは特例中の特例。異例中の異例だ。
ディ・ティはマリクの『出戻り』に同行してこちらに来た。
そして冥界の神がこの世界に来たのも、本人が意図してのことではなかった。
だったら、この世界におけるディ・ティ達は、まさに異物と呼ぶほかない。
それはきっと、ディ・ティもカディルグナも自覚していることだろう。
「――そう、だからこそ、ディ・ティ様は思っておられるはずですわ」
『私が、何を思っていると……?』
厳しい顔つきのまま、ディ・ティは促す。
するとヒメノは、この重苦しい空気の中で穏やかに微笑んで見せた。
「ディ・ティ様はこう思っているはずです。――『自分も人になりたい』と」
『…………ッ』
今、確かにディ・ティが身じろぎをした。
その表情に変化はないが、しかし今の一瞬の動きに答えは表れていた。
「非常に失礼、かつ差し出がましいことではありますが、わたくしは、今のお兄ちゃんとディ・ティ様の関係性は不健全であると考えておりますわ」
『何が不健全だというの、私とマリクの、何が』
「ディ・ティ様はおわかりになられているはずです。神と信徒という関係と夫婦であることは、本来、両立できるものではないということを」
『そんなことはないわ。そんなことは……』
否定しつつも、しかし、ディ・ティの声に力はなかった。
その反応だけでも、半ばヒメノの言い分を認めているようなものだ。
「神と信徒との間には、意志だけではどうにもできない格差が生じます。当たり前です。信仰対象とその信仰者なのですから。そしてそれは対等であるべき夫婦関係とは対極にあるもの。この二つ決して交わるものではない。そうではありませんか?」
『それは……』
淀みなく語るヒメノの前に、ディ・ティは完全に勢いをなくしていた。
小さな妖精の姿をした神はしばしうつむき、そのまま数秒ほどの沈黙を重ねる。
『……でも、それは不可能よ』
そして、そんなつぶやきを漏らした。
「何が、不可能だと?」
『決まっているわ。神を人に変えるなんて、そんな方法は存在しない。ヒメノ、あなたが言う人化の法は、知らない誰かが思い描いた夢物語でしかないわ。だから――』
「『命の神デディム・テティス』」
「――――ッ!」
言いかけるディ・ティに、ヒメノが俺の知らない名前を出す。
するとディ・ティは、今度こそはっきりとその顔に驚きを浮かべ、息を呑んだ。
『あなた、その名前は……!』
「やっぱり、ディ・ティ様もご存じだったのですね。そうですわ」
ヒメノがうなずき、言った。
「『命の神デディム・テティス』。ディ・ティ様、あなたの前世のお名前ですわ」
…………何?
「おい、ヒメノ。ディ・ティの前世だと?」
「その通りですわ、お父様。『治し屋さん』として世界中を回ったわたくしは、各地に点在する古代遺跡に目をつけたのです。ガルさんや金色符を生み出し、多くの古代遺物を残した古代文明にディ・ティ様を転生させる方法を求めたのです」
なるほど、着目点としては順当。そして正解、か。
古代文明の遺産には、俺達の想像を超える効果を持つものが多数あるからな。
俺達が生きた時代の技術では絶対に不可能だが、古代文明ならば……。
ヒメノがそう考えたことも、別におかしい話ではないな。
「そして、そこで知ったのです。かつて古代文明が栄えた時代には、わたくし達が生きた時代よりもはるかに多くの『特神格』の神が存在していたことを」
「おまえが言う『命の神』ってのは……」
「その時代を生きた、特に大きな力を持った『特神格』の神の一柱ですわ」
無数に存在した『特神格』の中でも特に大きな力を持った『命の神』。
本当にそれが命そのものを司る神なら、その力はカディルグナにも匹敵しそうだ。
「かつて、古代文明は世界規模の極大の戦争によって終焉を迎えたとされています。その際に原因は不明ですが『特神格』の神々のほとんどが死に絶えたらしいのです。わたくしが見つけた資料には『神々の大量絶滅』とありましたわ」
おいおい、何だよそりゃ。とんだパワーワードじゃねぇか……。
しかし、大きな力を持った『特神格』の神の大量死。
穏やかな話じゃないが、俺が知る限りそんなバカげた芸当ができそうなのは――、
「ディ・ティ様。あなたはかつて『特神格』の『命の神』であらせられた。しかし一度死を迎え、おそらくは完全な形で新生を果たせず、今の姿となったのでは?」
『それが当たっているとして、だからどうだというの、ヒメノ?』
「決まっていますわ。《《だからこそ人化の法が可能となるのです》》」
ヒメノがそう言うと、これまで話を聞いているばかりだったユユが一歩前に出る。
「ユユさん、出してもらえますか」
「はい、初代様」
首肯ののち、ユユが収納空間から取り出したのは、何個かの透き通った石……?
『それは……!?』
いきなり、ディ・ティが激しい狼狽を見せる。
ユユが取り出したものは透明な石ころで、刻一刻と色を変える光が宿っている。
「先ほど、わたくしはわたくしの子孫に人化の法を伝えたと申し上げました。その目的がこれですわ。この石を世界各地で採掘して集めることが、わたくしが『治し屋さん』に遺した大きな使命だったのです」
「これは『神骸石』といいます。『命の神』のカケラです」
ヒメノの説明に次いで、ユユがその石の名を教えてくれた。
だが『命の神』のカケラ……、だと?
「はるかいにしえ『命の神』は死を迎えました。異世界の神は本来不死であり、死しても時間が経てば新生による復活ができます。ですが『命の神』は力が強すぎて完全な形で新生できず幾つかの小さな神に分かたれたのです。ディ・ティ様はその中の一柱ですが、中には神として新生できなかったパターンも存在します」
「それが、その『神骸石』だってのかよ」
『その通りよ、アキラ・バーンズ。その石は、まぎれもない、私の兄弟達よ』
他の誰でもない、ディ・ティ自身がそれを認める。
ユユが取り出した『神骸石』。それは神になれなかった『命の神』のカケラ。
「この『神骸石』に自我はありませんが『命の神』であったころの力の幾分かは残っています。命を司るその力があれば、ディ・ティ様を神から人の魂へと変換することができるのです。根源を同じくするディ・ティ様だからこそ、可能なのです」
神を人に変えるのではなく、人の魂に変える。
そうか、だから『器』、か……。
『つまりはヒメノ、それが人化の法だというのね。私と親和性の高い、私の兄弟達の力を用いて私という存在を人の魂に変換して、あなたの肉体に宿らせる……』
「そうですわ。この人化の法よってディ・ティ様は人になることができるのです」
『…………』
ヒメノの言葉を受けて、ディ・ティの視線の動きがせわしなくなる。
マリクと、ヒメノと、ユユが取り出した『神骸石』の間を、視線が巡り続ける。
「人化の法を実行するには、触媒となる人の魂が必要となります。つまりは『神骸石』の力を使ってディ・ティ様をどう転生させるかの指針となるべきものです」
「あんたはそれを、自分の命でやろうというのね、ヒメノ」
ミフユが重い物言いをして、ヒメノに問う。
わかり切ってることではある。
しかし、ミフユは確かめずにはいられなかったんだろう。
「シュロはどうなの? あんたの旦那は、あんたがやろうとしてることに何も言わなかったの? 同じ『治し屋さん』なんだから、話したのよね?」
「ええ、もちろん。わたくしはこの件をあの人に話して、そして、賭けたのですわ」
「賭けェ~~?」
ミフユが声を裏返らせるが、俺も気持ちは同じ。
何その単語、このタイミングで出てくるようなモンけ? と、思っていたら……、
『そうですよ、アキラ君、ミフユ君。小生はこの一件について、ヒメノ君と賭けをしておりまして、要は『人化の法は実現できるか否か』という賭けなのですよ』
「うォわ!?」
ビックリした!
いきなり空中にシュロの顔が浮かび上がって、心臓さんが大ジャンプしたわ!
『元より、小生がプロポーズした折、ヒメノ君から話は聞いておりました。自分はマリク君を治すことに人生を捧げるつもりだ。だから小生よりもマリク君を優先するかもしれない。とね。小生はそれを受諾した上で、ヒメノ君と結婚したのですよ』
「つまり最初っから知ってたんか!?」
これにはアキラ君もビックリ。
今明かされる衝撃の真実すぎて、あいた口がさらにガバるわ! ガッバガバよ!
『それでものちのちに人化の法のことを初めて聞いたときには、小生の嫁はガチのガチでお兄ちゃん子だったのだなー、と、感心してしまいましたがね』
「あんた、自分の嫁の生き死にがかかってる話なのに、感想がそれなの……?」
ミフユが信じがたいものを見る目で笑うシュロに疑問を投げる。
だが、それについては俺にだってわかる。
「言うだけ無駄だろ、ミフユ」
「アキラ?」
どういうこと?
と、ミフユの目が俺に訴えかけるが、そんなの少し考えればわかるだろうに。
「だってよ、シュロがヒメノから話を聞いたのは結婚前なんだろ。それって実際には何十年前の話だ? ヒメノを説得してないはずがないだろ。なぁ?」
『……ですので賭けたのですよ』
だよなぁ。それしか考えられないよなぁ。
「シュロは粘り強く説得したが、何せヒメノだ。一回決めたら翻さないのは、親の俺達もよく知ってる。だからシュロは最後の手段としてヒメノに賭けを持ちかけた」
「そうです、お父様。人化の法が実現できれば、シュロさんはわたくしに従う。実現できなければわたくしが彼に従う。そういう賭けですわ」
『『出戻り』さえなければ、小生の勝ちだったのですが、いやはや……』
シュロが軽く肩をすくめるが、こいつはヒメノに惚れ抜いていた。
きっと、長い時間をかけて何度も何度も、根気強くヒメノを説得したはずだ。
だが、ヒメノは折れなかった。
マリクのために自分の命を捧げることを、絶対に諦めなかった。
「アキラ……」
ミフユが、これまでになく不安げなまなざしを俺に送ってくる。
言いたいことはわかる。『このままでいいのか』という問いかけということは。
「けどよぉ、ミフユ。好きに生きろって言ったのは、俺達だしなぁ~」
「そうだけど。そうだけどぉ~~~~!」
ポカスカポカスカ!
やめろやめろ! 納得いかないからって俺の背中で太鼓の達人をするな!
いくら納得がいかずとも、それがヒメノの決めたことなら、俺達は何も言えない。
ヒメノの心はヒメノのものだ。だったら尊重するしかないのだ。
この状況でヒメノに何かを言えるとすれば、それはこの一件の当事者だけ。
つまりは、マリクとディ・ティだが――、
「――――」
マリクは一向に目を覚ます気配がない。
いや、仮に目が覚めたとして、今のマリクでは自我を保てるかどうかも不明だ。
と、するとディ・ティだけだが、そっちはというと、
『…………』
ずっと無言のままだ。
ただ、マリクと『神骸石』の間に視線を行き来させるその顔には、苦悩があった。
ディ・ティは人になりたがっている。
それが如実に伝わってくる、その懊悩の顔つき。これは、折れるかもしれない。
折れて、ディ・ティは人になる道を選ぶかもしれない。
それはヒメノの死と同義だが、当のヒメノ本人がそうなることを望んでいる。
この一件、ヒメノの悲願が実現する可能性が濃厚そうだ。
それで『鬼形の真念』から解放されたとして、マリクは何も喜ばないだろうが。
だが、いつか異世界でヒメノは言っていた。
ヒーラーは患者の根治を目指すが、それがどうしても叶わない場合は苦渋の決断ながらも『よりマシな状態』にすることを選ぶのだ、と。
マリクの心に傷を残すことは望ましいことではない。
しかし、それでもマリクの存在が『なかったこと』にされるよりは百億倍マシだ。
だが、これは最善なのだろうか。
その疑問が、何も言えずにいる俺の腹の中で質量を増しつつある。
『ヒメノ、私は……』
やがてついに、ディ・ティの方からヒメノに声をかける。
そこに浮かぶのは決意の表情。
どうしようもない申し訳なさと、拭いきれない自らの願望がないまぜになった顔。
『私は、人に――』
「お待ちください、ディディム・ティティル神」
だがこの土壇場で、何者かがディ・ティに『待った』をかける。
「その願いは、果たさせるわけにはまいりません。マリク師の弟子として」
ユユと同じく、これまでずっと聞き役に徹していたルイ・ヴァレンンツァだった。




