第519話 マリク、発症
いつの間にか、マリクは右手に真っ赤な色をした人の骨を握っていた。
それは、こいつの異面体『篩嬌骨』だ。
それは、大腿骨の形をした魔法の杖。
マリクの中にある『屈折』と『蛮性』を司り、姿と能力を変異させる異面体だ。
『マリク、マリク! あてぃしの声が聞こえていないの? マリクッ!』
小さな妖精の姿をした神ディディム・ティティルが、マリクの周りを飛び回る。
そして必死に訴えかけているのだが、ダメだ。マリクの方に全く反応がない。
「オイ、コラ、マリク! どうしたんだよ、オイ!」
「ちょっと、マリク? ディ・ティ様が目の前にいるでしょ? わかんないの?」
俺もミフユも一緒になって呼びかける。
しかしどうしたことか、マリクは一切反応を見せなかった。
俺が目の前にいると言った直後から、その顔から表情が消えた。
そして、右手には赤い大腿骨の形をした異面体。
周りにいるユユやルイも、いぶかしげな顔つきでマリクに視線を集中させている。
「マリク様……」
「マリク師、一体……?」
と、二人が各々つぶやいた、そのときだった。
――ジッ。
目の粗い紙やすりを擦り合わせたかのようなザラついた音がした。
そして、いきなりマリクの姿がブレはじめる。
「何だ……!?」
驚く俺達の前で、マリクがいきなり魔法使いのような黒いローブを纏う。
それは、あいつの異面体であるフルイキョウコツが引き起こす変身現象のようだ。
だが、魔法使い装束になったのは一瞬のこと。
次の瞬間には、マリクは今度は全身鎧を纏った戦士の姿に変わる。
かと思えば、それも一瞬のことで、今度はピンクのドレスを着た女装姿になる。
そして次に武闘家の姿になり、次にスーツ姿になり、次に貴族装束を纏う。
次々に。
次々にマリクの姿が変わっていく。瞬く間と呼ぶにふさわしい速度で。
何だ、これは何が起きている?
マリク自身はまばたき含めて何もアクションを見せなくなったのに異面体だけが!
「何、これ。フルイキョウコツの暴走なの……!?」
見たこともない現象に、ミフユもそんな疑問を口にする。
異世界では、マリクがこんなことになるところは見たことがない。何だよ、これ!
『あ、ああ……。これは、これは……ッ!?』
胸の内の疑問が膨れ上がるばかりの俺の耳に、ディ・ティの驚愕の声が届く。
「ディ・ティ、おまえ、知ってるのか? マリクに何が起きてるのか!」
『そんな、そんなこと……!』
だが、両手を頬に当ておののくディ・ティに、俺の言葉は聞こえていないようだ。
何か知っているなら、聞かねばならない。
そう思い、俺はディ・ティに再び確認を求めようとする。
だがその前に、答えは肌で感じられる形で俺の前に示されることとなる。
「ぉ……」
それまで完全に止まっていたマリクが漏らす、短い一声。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおォォォォォォォォォォ――――ッ!」
そして、獣咆。
人が出す声とは思えない、理性と人間性を投げ出した、ケダモノの咆哮。
異階化した高橋家全体を揺るがすかのようなそれを響かせて。
響かせて――、
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッ!」
マリクの足元から、強烈な力が立ち上がり、そして渦を巻く。
「な、何……ッ!?」
「そんな!」
周りにあるものを何も見なくなり、ただただ吼えるばかりのマリク。
だがその身に渦巻く力は、俺もミフユも、はっきりと見覚えがあるものだった。
「……異能態の前兆? まさかマリク、おまえ『真念』に!」
――『真念』。
それは異世界に生きた者のみが到達しうる、己の中にある真の芯。
自分という存在の最奥にある意識の根幹、もしくは人格の核心とも呼ぶべきもの。
これに到達した者は、己の異面体と一体化し、異能態を使えるようになる。
マリクが見せている力の渦は、まぎれもなく異能態発動の際に起きる前兆現象だ。
だが、こんな場面で異能態だと?
こんな形での『真念』の到達だと……!?
『ダメ、マリク! それだけはダメ! 目覚めてはいけない、至ってはいけない! そこに到達してしまったら、あなたは戻れないところに墜ちてしまう!』
マリクが吼える中で、ディ・ティが必死になって叫ぶ。
それを聞いて、俺はためらうのをやめた。
「兇貌ァ! 構わねぇ、マリクをブチ抜け!」
『VOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO――――ッ!』
俺は自分の異面体であるマガツラを発現させ、マリクの殺害を試みる。
「な、アキラ!?」
俺の行動にミフユが驚愕するが、残念だが今の俺のできることはこれだけだ。
可愛い息子が相手でも、俺にできることは『壊す』か『殺す』ことだけだ。
『VOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOッ!』
マガツラが赤い眼光をほとばしらせ、鋼鉄の拳をマリクに叩きつける。
しかし、爆音にも等しい音を立てながら、拳はマリクに達していなかった。
「力の渦が、邪魔を……ッ」
「もぉ、何なのよ!」
顔をしかめる俺を見て、ミフユも己の異面体であるNULLを実体化させる。
部屋の中を漂う巨大なクラゲが、幾つもの光を不規則に瞬かせる。
「……ダメ、か」
ミフユが苦しげにうめいた。
どうやらNULLはマリクに向かって『無感催眠』を使ったらしい。
相手に気づかれないうちに感覚を支配する能力だが、マリクには通じなかったか。
NULLの放つ瞬きをマリクが認識しなかったのだろう。
「クソ、まだまだ!」
募る焦燥に突き動かされながら、俺はマガツラによる殺害を再度試す。
しかし、やはりダメ。
マガツラの鉄拳はマリクが放つ力の渦の前に阻まれてしまう。
異面体では異能態には絶対に勝てない。
それは俺も知るルールだが、ただのの前兆に過ぎない力の渦がここまで強固とは。
「アキラ、何なの……?」
俺と同じく焦りを顔ににじませるミフユが、俺に端的に説明を求めてくる。
こいつはわかっているのだ。
俺が、マリクに何が起きたのか理解していると。
「おそらく、だけどよ」
「うん……」
「マリクは『真念』に至ろうとしてるんじゃない。取り戻そうとしてるんだ」
「はぁ? 何よそれ!?」
ミフユが何度目かになる驚きを見せるが、俺だって信じがたい。
しかし、今のマリクの様子とディ・ティの必死さを見るに、そうとしか思えない。
俺の脳裏に、かつて『絶界コロシアム』で見たミーシャ・グレンの姿が浮かぶ。
お袋はわずか十歳で『殺意』の『真念』に到達したという。
だが、その『真念』を抱えたミーシャは破綻しきった総天然快楽殺人少女だった。
人の形をした、人を殺す人ではないもの。
それが『殺意』を己の核心とする、ミーシャ・グレンという人間だった。
次に思い浮かんだのは、升間井未来――、ミク・ガイアルド。
あの小娘もまた『自尊心』の『真念』に到達した『出戻り』だった。
あいつは、ミーシャ・グレンとは違うベクトルで人として破綻していた。
他者は全て己を称えるために存在していると決めつけて、そこに異論を認めない。
自己愛の怪物。
自尊心の権化。
自分こそが主人公であると豪語してはばからない、真性の人格破綻者。
それが『自尊心』の『真念』を抱えたミク・ガイアルドという人間だった。
そして、俺。
俺もまた、お袋やミクに通じるところがある。そう自覚している。
俺の『真念』は『怒り』。
それは人が抱える感情の中で最も激しく、そして最も御しにくいものだ。
お袋に『怒り』の制御のしかたを学んでいなければ、きっと俺も呑まれていた。
そして、ミーシャやミクのように人の形をした人ではないものになっていた。
「お袋に聞いたことがあるよ」
今に至ってようやくそれを思い出した俺が、ミフユに聞かせる。
「『真念』ってのはその人間の核心だ。そこに善悪はない。ただ『こいつはそういう人間だ』という意味だけがそこに付いてくる。そういったものだ」
「まぁ、そうね……」
「だが人間ってのは一人で生きる生き物じゃない。必ず周囲の環境、つまり社会ってやつと関わりながら生きていくことになる。混じるにしろ、離れるにしろ、な」
「それって……」
さすがはミフユ。
もう、俺の言わんとしているところに気がついたか。俺はうなずく。
「そうだ。『真念』の中には、人類社会に対して害悪となりうるものがある。人として生きることが極めて難しくなってしまう、負の方向性を持った『真念』……」
「それが『鬼形の真念』と呼ばれるものですわ」
声は、俺とミフユの背後から聞こえてきた。
「ヒメノ?」
「あんた、出てきて大丈夫なの!」
いつの間にか現れたヒメノが、俺達を無視してマリクへと近寄っていく。
「ああ、お兄ちゃん……」
渦巻く力に肌を切りつけられながら、だが阻まれることなく、ヒメノは歩む。
「ついに、こうなってしまったのですね。かつてはディ・ティ様のおかげで凌ぐことができた『鬼形の真念』への到達だったのに、それが……」
「おい、ヒメノ!」
マリクを抱きしめるヒメノの全身から真っ赤な鮮血がブバっと噴き出す。
それは、マリクが見せる力の渦が、あいつの体を傷つけているからだ。
だがヒメノは構わずにマリクを抱擁する。
そして閉じた瞳から、一筋の涙をこぼして、
「お兄ちゃんは死にたいのです。ディ・ティ様に対する罪悪感が極限に達して、本能がディ・ティ様を見ることを拒んでしまった。それがきっかけとなったのです」
「きっかけ……」
マリクが、かつての『死にたがり』を再発させてしまった。
それは俺もミフユも、何となくだが察していたことではあった。だが――、
「お兄ちゃん。わたくしです。ヒメノです。大丈夫ですわ、わたくしはここにいます。ディ・ティ様もです。大丈夫です。だから、お鎮まりください」
「……ヒ、メ、ノ?」
ただただ吼えるばかりだったマリクが、そこで初めて反応を見せる。
すると、徐々にではあるが力の渦が勢いを衰えさせていく。
「ミフユ!」
「わかってるわよ!」
俺が指示を飛ばすと、ミフユがNULLを再び瞬かせて『無感催眠』を行使する。
直後、マリクの全身から力が抜けて、そのままその場に倒れようとする。
「お兄ちゃん」
『マリク!』
それをヒメノが支え、そしてディ・ティがまっしぐらに飛び込んでいく。
何とか『無感催眠』でマリクの意識を奪うことができた。
これが通じなきゃ、いよいよマガツラで一回殺すしかないところだったぜ……。
だが、それにしても――、
「ヒメノ、おまえ」
自ら全回復魔法で傷を癒すヒメノへ、俺は確かめた。
「知ってたのか。マリクが『真念』に到達しかけたことがあるって」
「はい、お父様」
倒れたマリクに膝枕をする形でその場に座り込み、俺の次女は俺を見上げる。
そして、言ったのだ。
「お兄ちゃんが『憎悪』の『真念』に目覚めかけていたことを、知っておりました」
と。




