第510話 四年四組のダークヒーロー
人を憎むことに才能が必要ならば、マリクはきっと天才だった。
彼のブチギレは、実は別に怒りではない。
かといって、恨みというわけでもない。
怒りと恨みはバーンズ家の面々にとっては慣れ親しんだ感情ではあるだろう。
当然、マリクにとってもそれらは非常に近しいものである。
だが彼はアキラのように怒らない。恨まない。
だが、憎む。
ストレスを抱えやすい彼は、憎悪という感情を爆発させることでバランスをとる。
憎しみは恨みに近い。
だが、恨みのように根深く爛れた感情ではない。
憎しみは怒りに近い。
だが、怒りのように激しく燃え盛る感情ではない
恨みよりは浅く。だが深く。
怒りよりは温度が低く。だが激しく。
怒りと恨み、その両面を兼ね備えているのが憎しみという感情だ。
マリク・バーンズという人間は、いともたやすく何かを憎める人間だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
説諭の時間だ。
「答えてくれないか、加地君」
加地鉄也の胸ぐらを細い手で掴み上げながら、マリクは凍えた声で問いかける。
「ぼくと山野上先生の何が悪いのかな? どう悪いのかな?」
質問は簡潔で、問う声は平坦で、しかし胸ぐらを締め上げる力は強烈で。
さっきまで勢いに乗っていた鉄也は、自分より小さな少年を青い顔で見下ろす。
「ぉ、おまえ……」
振りほどこうにも、体が上手く動いてくれない。
十年にも満たない鉄也の人生の中で、こんなことは初めてだった。
「君は山野上先生を悪人扱いし、それをなだめようとしたぼくも同じように悪だと断じた。それは何故? どういう理由でそれを判断したのかな? ねぇ、加地君?」
「うぅ、ぅ……」
暴発するでもなく、ただただ静かなマリクの声音に、鉄也は小さく震え出した。
「……ねぇ」
マリクは、今度は鉄也ではなく他のクラスメイトへと視線を移す。
「ひぅ!?」
「ぁ、あ……」
男の子も、女の子も、マリクの見せる剣幕に気圧されてしまっている。
小動物の如き見た目をした少年が、その実、竜にも等しい存在だと知ったのだ。
「みんなも教えてくれないかな? 先生の何が悪いの? ぼくの何が悪いの?」
「ぇ、えっと……」
「みんなでぼく達に謝れって言うくらいなんだから、何かあるんだよね?」
その瞳に滾るものを宿し、マリクは再度尋ねた。
クラスメイト達が、お互いの顔を見合わせて困惑の色合いを深めていく。
「ねェんだろ、そんなのよォ」
だが、誰かが何かを答えるよりも、マリクはさっさとそれを断言した。
「場の空気に乗せられたガキ共が、空っぽな口実で楽しくはしゃげばぼく達が屈服するとでも思ってたか? バカが。考えなしにラッパ吹いたって何も勝ち取れねぇよ」
ここで、マリクの言い回しが少しだけ変化する。
彼は鉄也の胸ぐらから手を放して、自分の席に座り直した。
「ぃぐッ!?」
鉄也は床に落ちるようにして座り込んで、どこかを打ったのか悲鳴をあげる。
そんな少年を、マリクは机に頬杖をついて冷めた目で見下ろした。
「おい」
「ひ……ッ!」
怯えの色を見せる鉄也を、マリクは表情を変えないまま眺めて告げる。
「山野上先生がいるからこのくらいにしておいてやる。ぼくに何かあるならあとで来いよ。そのときは、とことんまで付き合ってあげるよ。加地君?」
彼の鉄也を見る目。
そこにあるのは怒りに似た、恨みに近しい、黒く渦巻く憎悪の塊。
マリクは、まるで百年来の仇を見るようなまなざしで、鉄也を睨みつけていた。
クラスメイト達が見られていないにも関わらず震え上がる。
と、なれば、睨まれている鉄也は――、
「ひぃ、ぁ、あ……」
恐怖に噛み合わない歯をカチカチと鳴らして、彼は涙を浮かべる。
あと一押しで、鉄也は股間を盛大に濡らし、新学年初日に生き恥を晒しただろう。
「こら、高橋君! そういうのはいけませんぞ!」
しかし、そこにシュロが割って入った。
芝居がかった大げさな物言いをして、インテリヤクザな担任がマリクを嗜める。
クラスメイト達は、このシュロの行動に驚き禁じ得ない。
まさか、自分を助けてくれたマリクの方を叱るとは思っていなかったからだ。
一方、その裏側。
インテリヤクザは義兄にヘコヘコしていた。
『ありがとうございます、ありがとうございます! 小生、非常に大助かり!』
念話で平身低頭を貫く義弟に、マリクの激情も呆れへと変わってしまう。
『あのさ、おまえさ、大人としての威厳とかさぁ……』
『は? そんなものはクラスの平和を維持することに比べれば馬フンほどの価値もありませんな。小生、担任を受け持った初日から学級崩壊かと戦々恐々でしたぞ』
『じゃあそのヤクザセンスやめろよ』
マリクが実に真っ当な指摘をする。
そもそもシュロがヤクザじゃなければ悪者扱いもされなかったのだ。
『むむむ! マリク君、小生に博徒として死ねとおっしゃるのですか!?』
『教師として真面目に生きろって言ってんだよ!』
これまた、実に当然すぎるマリクの言い分である。
しかし、念話におけるシュロはここでも首を横に振りやがるのであった。
『それでは本当の意味での信頼を勝ち取ることはできないのですよ、マリク君。小生はヒーラーとして、今は教師として、子供らの人生に深く関わらねばならぬ身ですからね。できる限りそこに嘘を置きたくないのです』
『それで最初に嫌われてたら世話ないのでは?』
『ごふォ……ッ! や、やりますね、マリク君……!』
シュロがダメージを負った。自覚がないワケではないらしい。
『確かに、優しい嘘もときには必要でしょう。しかし、子供は嘘に敏感です。そして一度気づかれれば、二度と本来の意味での信頼関係を構築することはできません』
『う~ん……』
そのシュロの主張については、マリクはすぐに否定することはできなかった。
こと、子供を相手にするという点に対しては彼の方が圧倒的に経験豊富だからだ。
こういうとき、ヒメノならば何と返すだろう。
マリクはちょっとだけ考え、すぐに答えを思いついた。
『じゃあ結局、おまえのヤクザセンスが全部の元凶なんじゃ?』
『ぐがはァッッ!!?』
シュロにクリティカルヒット。
これも、やっぱり自覚があったらしい。
子供に対しひたすら真摯な彼だが、センスさえまともなら何も問題なかったのだ。
色々とままならないなぁ、と、マリクはしみじみ思うのだった。
『く、し、しかし……!』
『あ、生き返った』
『いかにこの場で小生の心がズタズタに引き裂かれようとも、今回の賭けも小生の勝ちと相成りましたぞ。これ以上、教室での騒ぎが大きくなることはないのです!』
『ああ、うん。そこはね、上手くやったなと思うけど……』
いささか消極的ながらも、マリクはそれを認めた。
シュロの賭けとは、マリクという存在に助けを求めて、騒ぎに巻き込んだことだ。
『マリク君であれば加地君に対してキレはすれども《《必要以上にキレることはない》》とわかっておりました。相変わらず、人を憎むことに長けておりますね』
『その賞賛、何にも嬉しくない。何ッにも、嬉しくないから』
おまえはキレるのが上手だ。
そう言われて喜べるメンタルを持てる人間は、きっと人として破綻している。
『何事も『長じる』ということは『つたない』よりはマシですよ、マリク君』
『うるさいな、いいから加地を保健室に連れていくなりしろよ!』
教室は、完全に静まり返っていた。
泣きそうになったまま震えている鉄也がいるが、彼については自業自得ではある。
鉄也に対するマリクの憎悪は、すでに綺麗に消えていた。
憎む天才であるマリクにとって、その感情は好ましくはないが慣れ親しんでいる。
一度覚えた憎しみでも、大したものでないなら任意に忘れられる。
今のマリクにとって、加地鉄也は眼中に入れる必要もない存在に戻っていた。
「それでは、加地君は――」
シュロが口を開きかける。
だが、彼が言い切る一瞬前、元気よく挙げられた女の子の右腕。
「先生、私が加地君を保健室に連れていきます!」
ハキハキとした物言いでしゃべりながら、彼女は椅子から立ち上がる。
それなりに長い髪を右側にまとめてサイドテールにしている、可愛らしい子だ。
他のクラスメイトが鉄也に加担する中、彼女だけはずっと沈黙を貫いていた。
マリクもシュロも、それには気づいていた。
「……鮎川遊結君でしたね。それではお願いできますか」
「はい!」
遊結はこれまた快活にうなずき、鉄也の方へを歩いていく。
途中、マリクの席を通り過ぎる際に、彼女は小さな声で彼に囁くように言った。
「カッコよかったよ、高橋君」
そりゃどうも、と返すことも躊躇われて、マリクは無言を保つしかなかった。
鮎川遊結とマリクは、三年生のときから同じクラスだ。
転校生だった遊結は当初は誰とも話したがらない内気の女の子だった。
そこに妹の面影を見たマリクが自ら関わって、ちょっとした物語が展開された。
それからは、遊結は一気に陽気な性格となって、マリクの友人になった。
マリクとしては全くキャラが変わった遊結のことは、実は少し苦手だったりする。
グイグイ来る相手にはどうにも押し負けてしまう。
自分でもわかってはいるがどうしようもない、マリクの性格だった。
「諸君」
遊結が鉄也を連れて教室を出たのち、改めてシュロが呼びかける。
「ご覧の通りです。今後、理由もなく妙なことを騒ぎ立てれば、そのときにはまた高橋君が悪鬼羅刹となりて諸君らを誅することでしょう。そう、加地君のように」
ちょっと待て。
マリクは耳を疑った。この義弟、いきなり何を言い出している。
「ひ……」
「ゃ、やだ、高橋君、怖い……!」
そして、クラスメイト達も一様に顔に怯えを浮かべて、半ば泣き声を漏らす。
『……おい、シュロ?』
『乗りかかった船です。マリク君には四組のダークヒーローになっていただく! 』
『なってください、じゃなくて、なっていただく!?』
マリクの意見、ガン無視であった。
『実際のところ、これが最も有効な一手ではありますので、今後、小生がここにいる子らの信頼を得るまでは、マリク君に抑止力になっていただくしかないのです。つまりは核抑止論ならぬマリク君抑止論ですね!』
『言いたいことはわかった。で、その目的が達成された場合、このクラスにおけるぼくの立場の回復はどうなるのかな? 毀損された名誉はどうしてくれるのかな?』
その問いを投げて、マリクが待つこと、一秒弱。
『鮎川君という理解者の存在は、実にありがたいことですね』
『答えになってないんだよ!?』
愛すべき義弟に対して、早くも本日二度目のブチギレをしかけるマリクであった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
加地鉄也がフラフラと歩いている。
マリクから放たれた憎しみを間近に受けた彼は、完全に骨抜きになっていた。
その様子は、さっきまでのガキ大将とはまるで一変している。
足取りの頼りなさは、それこそ杖という支えを失った老人であるかのようだ。
そんな彼の手を引きながら、鮎川遊結は保健室を目指す。
彼女の顔には、とびっきりの笑みが浮かんでいた。
およそ小学生とは思えないくらいの、顔全体で作る大きな笑顔。
尽きぬ喜び、限りなき悦楽と、恍惚たるその心地こそ、まさに法悦の境地。
彼女の脳裏に刻まれた、鉄也の心をへし折ったマリクの瞳。
瞬間的にすぎずとも、そこにあったのは子供が発してはいけない濃密な憎悪。
「――ああ、やっぱり」
遊結が声を漏らす。
熱に浮かされ、夢にまみれた乙女の声を。
「あなたはやっぱり、私の神様だよ、高橋君」
そこに宿る感情は恋ではない。だが、極めてそれに近しいものだった。




